第355話 受容する心
唖然としたウィスタリアの心に静かな空白が生まれた。目の前の出来事を視覚情報として脳が処理しているのに、それが意味するところを心は理解してくれない。
ウィスタリアの腰にはナースに抱き締められたときの腕の温もりの余韻がまだ残っている。だったら、今自分の足元に転がっているこれはなんだ。ナースの腕にしか見えないそれはなんだ。
心が理解を拒む。頭が空っぽになり考えることを放棄する。ナースの香りも、押し付けらた胸の柔らかさも、何もかもほんの数秒前までたしかにここにあったはずなのだ。
頭は正常に働いている。心は目を背けている。そしてそのとき、体は勝手に動いていた。
「進化・上位互換。三等級の俺を、二等級の俺に」
無意識に右手が顔を覆い隠し右眼にかざされた。紫色の両眼のうち右眼だけが海のような青色へと姿を変える。さらにウィスタリアは通常の自分自身の完全上位互換へと自己強化を付与していく。
「進化・上位互換。俺を、強い俺に」
一〇〇メートルを十一秒で走る人間よりも十秒で走る人間の方が走力は上位互換である。
一〇〇キログロラムのベンチプレスを上げる人間より一五〇キログラムを上げる人間の方が筋力は上位互換である。
IQが九〇しかない人間より一六〇ある人間の方が知力は上位互換である。他にも反射神経、身体能力、センス、直感。ありとあらゆるパラメーターが上位互換のそれへと上書きされていく。
三等級の能力では難しい自己の上位互換化も、二等級の今の能力なら可能。能力そのものが進化し続ける。それこそがウィスタリアの能力の本質であり真骨頂だった。
ゆえに。心が現実を受け入れられずとも、頭と体が自然と彼自身を戦うための状態へと押し上げていた。
ウィスタリアはほとんど無心のままジリオンと名乗る純白のバケモノへと走った。
左手では下位互換の能力が発動し手の周辺の空気に含まれるアルゴン分子が陽イオン化、行き場を失った電子が放出されバチバチと紫電を迸らせている。
右手では上位互換の能力が発動し、空気に含まれる酸素分子の原子二つが三つずつ結合、オゾンを発生させ青色の煙が揺らめいていた。
奇しくも紫と青のオッドアイと同じ色彩がウィスタリアの両手に纏っている。
周囲の景色を置き去りにする速度でジリオンへと接近したウィスタリアは紫色の電撃が走る左手を手刀の形にしジリオンの鳩尾へと突き刺した。
貫く感覚はやはり粘土に近い。ぽっかりと穴が開いているが、出血がないばかりか内臓すらそこには存在しない。まったくの空洞の孔が一つ出来上がっただけである。
「この星の生物にしては速い。が、表面装甲の組成から耐久性は皆無。脆弱と認定」
ジリオンはラジオから流れるニュースのようにザラついた機械音声を能面のような顔から吐き出し、ウィスタリアを見下ろす。そしてギロチンの刃のように鋭く形を変えた右腕を振り下ろす。
左手はジリオンの身体に突き刺したまま。身動きも取れない。ウィスタリアは空いている右手で自身の袖のボタンを引き千切る。
「多重進化・上位互換。ボタンを最硬の盾に」
右手の中で握りしめられたボタンが青く発光し指の間から光が漏れ出る。裁縫道具でしかないボタンが、半径一メートルはあろうかというボタンに変化。
さらに巨大ボタンが西洋のラウンドシールドに変化。そしてラウンドシールドは黄金の装飾が施され水色の宝石が円形に配置されたさらに大型の盾へと進化を遂げた。
一段階の進化に留まらず、二段階三段階と重ねがけができる、この制限解放もまた一時的に二等級となったウィスタリアの能力によるものである。
ガキィィィン!!!!!
と火花を散らしながら甲高い接触音が鼓膜を揺さぶる。ジリオンの腕から生えるギロチンの刃は盾に弾かれてわずかにのけぞった。
粘土のような身体をしているかと思えば、腕を変形させて作った刃はきちんと刃物並の硬度を持っているようだ。
ウィスタリアは左手を引っこ抜きながら右手で盾を横薙ぎに払う。ジリオンの身体は盾のへりによって不自然に削り取られるがビクともせず、ゴムのように元の形に戻る。
ジリオンは至近距離のままウィスタリアの瞳をじっと覗き込んだ。
「単一の能力を変質させている。稀有な例と理解。が、殲滅が優先」
ジリオンはトンとウィスタリアの腹に手を当てた。掌にエネルギーが集まり急速に超高温化していく。
それは白い極光の光線。白いメイオールたちが標準搭載している基本的な攻撃方法である。
しかしその威力は先ほど一瞬で診療所の人々を死体も残さず焼き殺したことからもわかる通り絶大だ。
かつての世界線では聖たち一行はメセキエザが放ったこの光線によってシリウスを喪っているし、それ以降に交戦したジリオンやエミットらも同様に聖やセレスを手こずらせた。
ウィスタリアは視線を下げる。手刀でジリオンの腹を貫通させた意趣返しだろうか。このままではナースを殺したのと同じ光によって自分は腹を貫かれて死ぬ。
生命維持を最優先に考える脳は危機を報せる鐘を鳴らし脳内物質を大量に分泌させる。だというのにウィスタリアの心はやはり現実を受け入れることを拒んでいた。
ウィスタリアは白い極光がジリオンの掌の中に集まっていくのをただ眺めていた。その一瞬が永遠のようにゆっくりに感じられた。
それどころか、この瞬間に辛うじてウィスタリアの心から滲み出た感情は『ナースと同じところに逝ける』というものだった。ナースはウィスタリアにとっても良き友であり、理解者であり、生活面でも随分と世話になった。
家だって家具の配置を覚えるくらいには入り浸っていたし、手料理を何度も振る舞われて胃袋は完全に掴まれていた。自分といるときは服装の露出も多かったかもしれない。
(あれ、もしかして……ナースのことは俺のことが…………)
大切なことは失ってからでないと気が付かない。こんな使い古されて手垢まみれのセリフをまさか自分自身にかけることになるなんて、とウィスタリアは自嘲気味に笑う。
彼女の想いに気が付いてやれなかった自分が彼女と同じ相手から同じ光で焼き殺されるなら、これもまた運命なのかもしれない。
そんなウィスタリアの心を読んだかどうかはわからないが、ジリオンは冥途の土産とばかりにウィスタリアに言葉をかける。
「勝者と敗者。敗者は死に、勝者は生きる。地球人に敗北するはずがない。──これは運命である」
そうして白い極光がウィスタリアを──。
〇△〇△〇
カペラもまた、何が起きたのか理解できていなかった。突然高熱の光線が目の前を通過したかと思えば、自分たちの紙一重、一歩先が開けた荒地になっていた。
診療所があったはずなのだ。そしてそこには大勢の人間がいた。しかし一切の声も息の音もありはしない。
他の建物と同様に、診療所も崩れて残骸と化している。
(ナースも、ドクターも、街のみんなも、今この瞬間までここにいた。……これ、夢? だって、そんな……そんな……そう、夢に決まってる。みんなさっきまで私たちと喋ってたんだから。うん、そう。これは夢)
都合よく現実から目を背けて視線を下に向けるカペラ。ウィスタリアの足元に転がるナースの腕が否応なく視界に入りすぐに現実に引き戻される。
カペラはうずくまり口を押えた。ウィスタリアがジリオンに無意識に特攻をしかけているときも、胃の中のものを戻さないように必死に嗚咽を繰り返して胸をさすった。
もちろん診療所はそこまで大きい建物ではない。街の人たちが全員殺されたということは現実的にあり得ないだろう。ただ、ナースはカペラにとっても特別な人なのだ。恋敵であり、友人であり、マダガスカルの生活では姉のようであり。
さっきまで笑顔だった彼女が一瞬で死んだ。遺体も残さず片腕だけがぼとりと転がっている無残な姿がカペラの脳をチカチカと明滅させ心臓の鼓動が早まり締め付けられるような気分になる。
敵はすぐそこにいるというのにカペラはウィスタリアのようにすぐ動き出すことはできないでいた。
ウィスタリアより年下だから。身近な人の死に慣れていないから。気が動転していたから。
理由を挙げればキリがない。呆然とへたりこみ膝をついていたカペラ。立ち上がる気力すらも失われていた。
(あ、そうだ。復讐、しなきゃ……。ええと、夢、そう夢だけど、ナースを殺したあの白いバケモノに復讐しなきゃ。ううん、でもウィスタリアが倒してくれる。私はただここで見てるだけで……)
虚ろな瞳でウィスタリアとジリオンの戦闘を眺めるカペラ。
しかし、彼女の予想とは裏腹にウィスタリアはジリオンに押し返されていた。そして土手っ腹に手を押し付けれら白い光と高温のエネルギーが集まっている。
(あれ? ウィスタリアも……死ぬ? 私は大好きな人たちのために戦おうって決めたのに、その大切な人たちは……みんな、死ぬ。そんなの……嫌)
そのときだった。懐かしいスパイス料理の香りと色っぽい女性の甘い香りが混ざり合って鼻をくすぐる。そしてへたりこむカペラの耳元でそよ風のような囁く声が聞こえた気がした。
『私のことはいいから、ウィスタリアくんを助けてあげて』
カペラはハッと息を呑んだ。
もうこれ以上大切な人を失いたくない。今ならまだ彼を助けることができる。ここでただ絶望してへたりこんでウィスタリアまで失ったら、きっと後悔しても後悔しきれない。
カペラの青い両眼が力強く光る。
「……潰れちゃえ。一万ヘクトパスカル」
ジリオンの頭上に爆弾超高気圧をかける。通常の気圧の十倍はある。並の人間なら内臓が破裂し眼球が飛び出て骨が砕ける強さの気圧だ。
カペラとしてはこれだけの気圧を受けてなおその場で膝をつく程度で済んでいるジリオンの方が驚きだった。
もちろん一撃でジリオンを倒せればベストだったが狙いはもう一つある。
一般的に、気圧が三五〇ヘクトパスカル変化することで時速二五〇キロメートルの風が吹くと言われている。これは台風に匹敵するエネルギーだ。
ジリオンに至近距離で白い極光線を受ける寸前だったウィスタリアは強風に煽られ空中を木の葉のように舞う。
カペラだけは気圧の隙間を縫い足裏の空気の圧力を暴発させて宙を跳ぶ。そして空中でウィスタリアを受け止めると抱き着いたまま着地する。
身長差がありすぎて華麗にお姫様抱っこ、とはいかなかったが、ウィスタリアを助けるというカペラの狙いは達成されたことになる。
「ウィスタリア」
「な、なんだ」
ウィスタリアの紫と青のオッドアイからはツー……と涙が一筋ずつ流れていた。ただの涙ではない。血涙。粘度の高いべっとりとした赤い血の涙がウィスタリアの頬に垂れていた。
カペラはそれを指で拭い取ってやってから言った。
「私がバオバブの木の下でなんて言ったか覚えてる?」
「それは……」
「私は、ウィスタリアと一緒に戦いたい。この国の人たちを守るために戦いたい。それは私の自由。……あのとき私はそう言った。ウィスタリア、一人で全部背負わないでいい。ウィスタリアにとっての大切な人たちは、私にとっても大切な人たち。だから、一緒に戦うべき。私とウィスタリアの二人ならどんな強い相手kでも勝てるはず。それに私たちはマダガスカルのみんなの想いを背負ってる。絶対に負けない」
力強く断言した。カペラの真っ直ぐな視線に射抜かれたウィスタリアは徐々に現実を受容し始める。
目を閉じる。ナースやドクター、そして搬送されて治療を受けていた他のマダガスカルの皆の顔を一人ずつ思い浮かべていく。
やっと現実を受け入れた。本当は泣きたい。狂うほどに泣き叫んで、ナースたちの死を否定したい。怒りでぶちまけて周囲のものに当たり散らしたい。
だが今は。それよりも、ナースたちを殺した張本人が目の前にいる。彼女たちの敵討ちをすぐに行うことができる。その喜びが勝ってすらいた。
「……そうだな。カペラ、俺とお前なら無敵だ。あのジリオンとかいうバケモン、倒すぞ。でないとナースたちが浮かばれないからな」
「当たり前。私の大好きな人たちを奪ったあいつを、許すわけにはいかない」
ウィスタリアとカペラの二人は立ち上がり、膝をつくジリオンを見下ろす。
青い双眸、そして紫と青のオッドアイ。四つの瞳には冷たく静かな闘志が熱く燃え上がっていた。