第351話 もう一人のオッドアイ
描写の繋がり的に前々話(349話)の続きです。
カナリアは脳みそを揺さぶれる衝撃で視界が歪む。顔から地面へと倒れ込みそうになったところで紫色の両眼を淡く光らせて能力を発動。『なんとかなさい!』とあたりの無機物に命令を飛ばす。
鞣された羊革のヒール靴が不自然に前進し強引にカナリアを一歩踏み出させる。さらに踏み込んだ右足を軸足にして、逆の左足で後ろ蹴りを放った。
この一連の動き、カナリアは何も思考していない。考えずとも周囲のオブジェクトが都合よく動いていくれるのが念動力との大きな違いであり最大の利点である。
尖ったヒールの先端がウィスタリアの顔面へと襲い掛かる。その刹那、カナリアはウィスタリアの深い瞳の色に吸い込まれる。
(どうして、三等級のあいつの眼が青色なんですの……!?)
ウィスタリアの左眼は先ほどと変わらず紫色だ。しかし右眼は、見まごう事なき青色である。
昏くて深い。それは眼に光がないということではない。見つめていると吸い込まれるような不気味さが存在するのだ。
放たれたカナリアの後ろ蹴りはピタリと動きを止めた。ヒールの先が眼球と紙一重の距離まで迫っているというのにウィスタリアはまばたき一つせず、正確なタイミングでカナリアの足首を片手で掴んだのだ。ドレスのスカートが捲れてレモン色の下着があらわになっているというのに、ウィスタリアの表情は一切動かない。
そして野球のピッチングのように腕を大きく振りかぶる。ボールの代わりに握っているのはカナリアの足首。カナリアは空中に放り投げられ、崩れたマダガスカルの民家の残骸に飛び込んだ。
「くっ……わたくしをこんな目に遭わせるなんて……せっかくのドレスが台無しですわ」
砕けたレンガや折れた木材、チリやホコリがカナリアを汚していた。久方ぶりに刺激された痛覚に顔を歪め、それら民家の残骸の廃材を押しのける。
太陽が分厚い雲に覆われてあたりは薄暗くなり、カペラの生み出した雨がポツリ、ポツリ、ザー……とカナリアにも平等に降り注ぐ。
上体を起こしたカナリアの前に、ゆるりとこちらへ歩いてくるウィスタリアが目に入る。
雨をものともせずにゆらゆらと近寄って来る姿はさながら幽鬼。青い右眼と紫の左眼が妖しく光を放っていた。
「俺の能力は下位互換や上位互換に変換できる。その対象に俺自身を、俺の能力自体を選択した。俺という人間の全能力値が俺より完全上位にあたる存在に俺自身がなったってわけだな。知力、身体能力、異能力。ああ、クリムゾンやシアンの気持ちが少しだけ理解できる」
カナリアは足がすくむ。昔からそうだ。このウィスタリアという男は幼少期からいつもヘラヘラしているのに、大事なところで自分よりも一歩先にいる。先回りされている。
色付きの子供たちの中でクリムゾンとシアンの二人が自分より上の序列なのは理解できる。だが、ウィスタリアは奥の手をこそこそと忍ばせているのだ。
辛うじて恐れを怒りへと置換してカナリアは己を奮い立たせる。
「な、なにをそんなに怒っていますの! わたくしたちはネバードーンの子供たち。選ばれし能力者ですわ。たかだか数十人数百人の凡庸な能力者を殺したからといって咎められる謂れはありませんわ! そ、それに、あの黒いバケモノを嗾けたのはお父様の命令で……」
「うるさい黙れ」
ウィスタリアの青い右眼が淡く光る。
「大事な国民を傷つけられてハイそうですかと引き下がる大統領がどこにいる? ──進化・上位互換。俺を、もっと強い俺に」
「な、ななななんとかなさい!」
カナリアの視界からウィスタリアが消える。咄嗟に能力を発動して周囲の廃材や地面の土へと闇雲に指令を飛ばす。
大量の木材や金属パイプ、レンガが集合して人の形を取る。さらにいつでもウィスタリアの足を奪えるようにぬかるんだ大地はボコボコと泡立っていた。カナリアの指令により命を宿した全ての物体がカナリアを守るために自主的に動いていた。
「上に立つ人間がただ命じるだけってのはネバードーンとしてどうなんだ?」
声は、上から降ってきた。
「わたくしの騎士! 上ですわ!」
ただの脚力で数メートルを優に跳んでみせたウィスタリアは、重力に引かれて落下しながらカナリアが騎士と呼ぶ廃材人形を真正面から殴りつけた。
そのパンチは何の変哲もないものだった。格闘技や武術の観点から見て、技術もクソもないただの喧嘩パンチ。だというのに能力で強化されたウィスタリアが放つことで、リーサルウェポンと化す。
音速を超えていたパンチは騎士を一撃で砕く。降りしきる雨の水滴を貫通し、さらにソニックブームが腕から発生することであたりの雨水が吹き飛んだ。
コンマ一秒にも満たない時間だが、音も空気も水もない空間がウィスタリアの腕の周囲に生じていたのだ。
「そんな……」
カナリアは再び能力を発動して命じる。とにかくなんとかしろ、と。頭が真白になり漠然とした命令だけが続く。
彼女の靴が、ドレスが、手袋が、身に着ける無機物の全てに命が宿り自主的に彼女の肉体を動かす。強引に、勝手に、しかし最適に。
ウィスタリアは着地すると同時にぬかるんだ大地が触手のようにうねって足を掴みにきているのを察知して再び跳んだ。今度はまっすぐにカナリアへと一直線だ。
対してカナリアもウィスタリアを軽くいなす。そればかりか隙を窺いウィスタリアの脇腹へとボディブローを見舞った。──もちろん、全てカナリアの判断ではない。
「いいですわ! いいですわよ! そう、全てはわたくしの思うがままに!」
雨で濡れても黄色いロングヘア―の縦ロールは崩れない。強気な笑みを浮かべてウィスタリアへと肉迫する。
カナリアの手は勝手に拳を作り、ウィスタリアの鼻先へと鋭いジャブを放つ。ウィスタリアは半身を翻してスレスレ紙一重で避けるとその体勢のままカウンターとばかりにエルボーをカナリアの鳩尾に突き立てる。
しかし負けじとカナリアは空いている方の手でウィスタリアの肘を受け止めた。ウィスタリアは屈んで姿勢を低くしながら下半身を回転させてカナリアに足払いをかけるが、カナリアは軽々と蝶のように跳躍して回避。さらに跳んだまま空中で膝にフックを効かせてウィスタリアの頬へとトーキックを打つ。
「さっきまでの俺の完全上位互換となった俺をナメるなよ!」
青と紫のオッドアイのウィスタリアは、あらゆる能力パラメーターがそれまでのウィスタリア自身とは異なっている。言わずもがな、反射神経も。
顔面を狙って放たれたカナリアの鋭利な爪先の蹴りを口で受け止めていた。噛みつくように爪先を咥え込んで顎力と歯で勢いを殺しきる。
ウィスタリアは能力で上位互換の身体能力を獲得し、カナリアは身に着けている物体が意思を持って動くことで本人のポテンシャル以上の運動能力を発揮する。
両者ともにそれまでの互いの持ちうる力以上を発揮していた。
絶え間なく拳や蹴りが交錯する。どちらも有効な一撃を当てることはできないながらも、だからこそ滑らかな二人の近接格闘はさながら演舞の様相を呈し始めた。
降りしきる雨水をピシャリと穿ちながら二人は相手の急所を的確に狙い、同時に最も無駄のない最小限の動きで回避行動を取る。
その様子を遠くから見ていたカペラはどうして互いに掠りもしないのか不思議に思うほどだった。
嵐のような二人の連撃は目の錯覚で残像すら生み出している。それほどの撃ち合いも、互いのハイキックが交差し衝突することで一区切りとなった。
両者は一度下がって距離を取る。カナリアの紫色の両眼が淡く光り、背後から木材や鉄パイプ、レンガの破片が弓矢のようにウィスタリアへと襲い掛かった。
「進化・上位互換。オモチャの銃を、本物の銃に」
ウィスタリアはポケットから小さなプラスチック弾がじゃらじゃらと入ったオモチャの銃を右手で取り出す。
カペラと最初に出会った日に下位互換にさせた彼女の銃だ。それが、上位互換である普通の銃火器へと姿を変える。
その間にもカナリアが命じた廃材がウィスタリアへと一直線に進んでいる。だというのに彼は焦りの一つも見せはしない。
ウィスタリアの青い右眼が淡く光る。それは二等級の証。これまでの三等級の能力とは一線を画す。
「多重進化・上位互換。ただの本物の銃を、魔弾を撃ち放つ空想の魔銃に」
ただの黒いハンドガンがウィスタリアの右手の中で青く発光し姿を変える。銃身から銃口にかけてが伸び、地味で無骨だった黒い見た目には金色の装飾が加わって芸術品のような美麗さと高貴さを併せ持っている。
ウィスタリアはゆっくりと腕を上げて銃口をカナリアの方へと合わせた。
躊躇うことなく引き金を引く。雨音を掻き消すほど大きな乾いた発砲音とともに一発の金色の鉛玉が発射された。
銃弾は黄金の軌道を描く。一本だった弾道の残像が二本に。二本が四本に。四本が八本に。八本が一六本に。一六本が三二本に。
銃弾が倍々で増えていき、横へ横へと広がっていった。そうしてカナリアの能力によってウィスタリアに襲い掛かってきた廃材は一つずつ漏れなく撃墜されていく。
「上位互換にするっていう能力自体が上位互換になってるからな。二重だろうが三重だろうが、今の俺は願った形になるまでいくらでも上へ上へと互換性を持たせることができる」
「そんな……わたくしの能力が通用しないなんて、わたくしを差し置いて二等級になるなんて、そんなこと……許されませんわぁぁぁああああッッッ!!!」
カナリアはドレスが乱れるのも気にせずに両腕を高く上に掲げる。紫色の両眼を淡く光らせて命じるのだ。『とにかくわたくしのために命をかけろ、なんとかしろ』と。
周囲の木が、土が、雨水が、鉄が、レンガが……塵もゴミも、それどころかカナリア自身の靴すらも、彼女の頭上で掲げられた両手の上に集合していく。カペラが気圧で抑えつけていたメイオールの死骸すらも取り込んでいく。
それらは巨大な球体を形成していった。気球のように大きく膨らんでいき、さらに止めどなく大きくなっていく。
惑星が重力で周囲の隕石を吸い寄せるのと同じだ。彼女の頭上に周囲一帯のあらゆる物体、物質が集まっていくのはさながら星の誕生である。
直径二メートル、五メートル、十メートル……と加速度的に大きくなっていく。カナリアが相対的にあまりに小さく見えるほど大きく完成された頭上の球体は最終的に直径三〇メートルにまで及んでいた。
「さあ、わたくしの言うことを聞いてくれたかわいいかわいい下僕たち! あの生意気な男を圧し潰してくださいな!」
カナリアが両腕を前へと倒す。歪でドブのような色をしているが、圧倒的に大質量な小惑星がカナリアの手を離れてウィスタリア一人を殺害するために地上への落下を開始した。
体積の大きさゆえに鈍重に見えるが、その速度の実態は優に時速二〇〇キロメートルを超えていた。
ウィスタリアは目の前に一瞬にして迫る、カナリア全身全霊の一撃を前にして不敵に笑ってみせた。
青い右眼が、紫の左眼が淡く光る。
「多重退化・下位互換。このデカブツを、限りなく無に」
ただ左手を突き出した。そして掌に触れた瞬間、直径三〇メートルの巨大球は収縮を始めた。
鉄は錆び鉄になり、砕けた粉末になる。木材は腐った材木になり、ただの炭素の塊になるまで劣化していく。
それ以外にもカナリアの命令を受けて自主的に集まった物体は全てが劣化し、下位互換の物に置換され、大きさも重みも存在そのものも連鎖的に弱弱しく惨めな姿へと形を変える。
非生物であるそれらの物体にとって、ある意味での『死』に近い感覚だった。カナリアの能力によって命を宿された物体たちはウィスタリアの能力によって非生物の『死』へと漸近していく。
ものの数秒で、あれだけの大質量が無になった。正確には目に見えないほど細かく分解され、地面に落ちたり風に舞ったりしている。
ウィスタリアは青い右眼でカナリアを捉えて言った。
「あの世に行ったら、死んでいったマダガスカルの国民にその縦ロールの頭、下げてくれよ? 下位互換、水を水素と酸素に。上位互換、酸素をオゾンに」
ウィスタリアは両手をパン! と叩いた。その両手の中には絶えず降り続ける雨水がある。
せっかく水として安定していた二つのH2Oが二つのH2と一つのO2へと置換される。さらに、O2は二つの酸素原子となり、それが三つ合わさってO3すなわちオゾンへと置換された。
分厚い雨雲越しに差し込む目に見えない太陽光、つまり紫外線が、薄青色のオゾンによって吸収されていく。
オゾンは紫外線によって加熱していき、その熱は水素へと伝播していく。
「わ、わたくしに何をするつもりですの!?」
渾身の一撃があっさりと無に帰されたカナリアはもはや立つこともままならないほど弱り切り、震わせながら声を張り上げた。
それに対してウィスタリアは冷たい表情で言い放つ。
「なに、ただの水素爆発だ」
オゾンと紫外線によって生じた熱に温められた水素が、発火点を超えた。ウィスタリアの両方の掌を起点とし、小さな爆発が連鎖して宙を進む。小さな爆発は進むほど大きくなっていき、あっという間にカナリアの目の前までやってきた。
意趣返しである。カナリアがしたのと同じように徐々に巨大化していくものが目の前に迫る。その恐怖をカナリアに植え付けてやろうというウィスタリアの悪意だった。
(まあ、カナリアが命を吹き込んだあの黒いバケモノたちに殺された奴らはもっと怖い思いをしただろうけどな)
大統領として今回殺された国民たちを偲ぶ。ウィスタリアは青と紫のオッドアイを閉じ、黙とうを捧げた。
線香代わりと呼ぶにはあまりに殺傷力を伴った爆発がマダガスカル島に響き渡る。カペラも耐え切れずに腕で顔を覆ったほどだ。
この数週間、カペラがウィスタリアやナースたちと暮らした街。かつてその街があった残骸の地に、深々とクレーターが刻まれるのであった。
元〇玉の物理バージョンですね完全に。