第341話 往時渺茫として全て夢に似たり
視界が四角く切り取られている。周囲四辺はぼんやりと滲んでいる。おぼろげな記憶の風景に音と色がフェードインしていく。
〇△〇△〇
「ふぅ。お風呂とっても温かかったです。聖ちゃんもお手伝いしてくれてありがとうございました」
身体から良い香りのする湯気を立てながらホカホカのティアは私に微笑みかけた。ピンク色のホットパンツとTシャツという非情にラフな格好だ。
私たちが風呂場から出てくると、私の部屋ではセレスがベッドで横になり、ミザールは椅子に座って片膝をつきペディキュアを塗っている。
「うーん……色の統一も良いけど、あえて指それぞれの色を変えるのも素敵よね。迷うわぁ。セレス、濃い目の青と緑、ううん、緑は薄い透明感のある色の方がいいかな。新しいの貰える?」
うつ伏せの姿勢で読書をしていたセレスはページを一枚千切るとそれをクシャクシャと丸めて握り込む。大空のような青い両眼が淡く光り、手の中で紙が形を変える。
物質変換。同質量の別の形、別の物質、別の構成を生み出す能力だ。セレスは本の印刷紙を新品のマニキュアに作り替えるとミザールの方には目も向けず後ろへ放り投げた。
綺麗な放物線を描きミザールの手元にぽすんと落ちてきた。さすがのエイム能力、日頃からダーツをしているだけある。
「セレスちゃん、本は大事にしないとダメですよ。もうこの星には本を書く人も設備もないんですから」
「……ごめん」
セレスは申し訳なさそうに目を逸らした。基本的に注意されたら素直に謝れる。セレスは真っすぐな人間だと私はよく知っている。
私やティアだけでなくセレスもミザールも風呂上りなので薄着だ。髪は少しだけ湿っていて、肌もツヤツヤしている。
ミザールにいたっては上半身裸で首にかけたタオルで胸元を隠しているだけだ。とても男連中に見せられるものではない。
「聖、一番風呂ありがとうね」
ミザールはペディキュアを塗る手を止めて私に声をかけた。
「二番風呂、ありがと」
セレスはベッドの上で起き上がってへたり込むように女の子座りをし私にそう言った。いつもはツーサイドアップにしている金髪を下ろした姿は魅惑的で同性ながらくらりとくる。
しかし私はここではたと冷静に我に返った。
「妊婦のティアには介助が必要だから妾と一緒に入るのはわかる。おぬしらは自分の部屋の風呂に入ればよかろう……?」
「ええ、一緒の方が楽しいじゃん。セレスもそう思うでしょ?」
「アタシは毎日聖と一緒にお風呂大歓迎だけど?」
私は頭を抱えて天を仰いだ。この船は元々巨大豪華客船なので部屋は余りに余っている。それなのにわざわざ私の部屋に集まって狭苦しいのだ。意味が解らない。空部屋の無駄遣いである。
まあ、ミザールの言うことも尤もか。私がベッドにダイブして顔を枕にうずめると背中に柔らかい衝撃が襲った。セレスが乗っかってきたのだ。わぷっ、と息が漏れる。
うん、ミザールの言う通り楽しい。顔は見えないがきっと楽しそうにしている私を見てニヤニヤしているに違いない。
「うむむむ、セレスよ、どかんか!」
じたばた手足を動かした私はぐっと力を込めて背中から抱きしめてくるセレスを引きはがす。
勢いあまって一回転し、今度は仰向けに転がったセレスを私が押し倒すような格好になった。セレスのくっきりとした顔に私の影が差し、なぜか頬を赤くしている。
「ちょ、ちょっと聖。アタシにも心の準備とか色々あるし、ていうかティアとミザールも見てるし、で、でも聖がどうしてもって言うなら……」
「い、いけません! 女の子同士なんて、そんな、そんな、ハレンチですーー!!」
ベッドの縁に腰かけていたティアがあたふたと上ずった声で首を横に振った。
私はすぐにセレスに一言謝って退こうとしたのだが……。
ミザールは『あ、そうだ』と呟いた。名案を思い付いた彼女の表情にはいたずらっ子の笑みが浮かんでいる。ミザールの青い両眼が淡く光る。
そのとき私の身体にズシンと押し潰されそうになる垂直方向の力がかかった。ミザールが重力を操る能力を使ったのだ。
咄嗟のことに私はそのまま身体を下へと引っ張られた。もちろん身体だけでなく顔も。そしてそのままセレスのプルプルと瑞々しい桃色の唇に……。
「時よ止まれ!」
唇と唇が触れ合おう直前に時間を止める。危ない危ない、あと〇.〇一ミリで私のファーストキスを捧げてしまうところだった。
ベッドから出て椅子に座っているミザールのそばに立ち、時間停止解除。そしてゴツンと軽くげんこつをミザールに見舞う。
軽く、と言っても後天的に能力者となった我々の身体能力で放たれる拳はほとんど凶器なのだが。
「あはは~バレちゃったか。聖は結構照れ屋ね」
「て、照れてなどおらん! 妾の眼を誤魔化そうとしてもそうはいかんぞ!」
「あ、今お腹の子が蹴りました!」
言い合いをしていたミザールと聖は、ティアの言葉を聞いて揃ってティアの方へと飛んで行った。もちろんセレスもだ。
三人の少女がティアの大きくなったお腹に集まり、掌でそっと触れたり耳を当てて音を聞いたりしている。
「ここにアタシの甥っ子がいるんだもんね。アタシの血も流れてるのは心配だけど、ティアの赤ちゃんならきっと賢くて良い子に育つよ」
「セレスちゃん、自分をそんな風に言ったらダメですよ。セレスちゃんも良い子です。とっても良い子です。この子には私の血も、セレスちゃんの血も、そしてあの人の血も……。みんなの素敵なところをぎゅーって集まってるんですから。もちろん、他のみんなの温かい想いもきっと届いています」
少しケンカっぽくなってしまっていた私とミザールは顔を見合わせばつが悪そうにした。
イタズラとか、げんこつとか、子供の教育にはよろしくない。ティアのお腹の赤ちゃんに悪影響を及ぼしたら大変だ。
「すまんのう」
「ごめんなさい」
私とミザールはティアのお腹を撫でながら掌を通して赤ちゃんにたくさんの愛情を送る。
するとむにっと押し返すような感覚があった。どうやら元気よくお腹を蹴っているようだ。
「ふふ、お返事してるみたいですね。ほら、とっても優しくて綺麗なお姉ちゃんたちですよー。早くお姉ちゃんたちに元気な姿を見せてあげましょうね」
お腹をさすりながら話しかけるティアの姿はまるで聖母だ。私たちまでも包まれるような気がしてくる。
それに、お姉ちゃんと言われたのは照れくさい。私もミザールも、そしてセレスも、もっとしっかりせねばと気を引き締める。
新たな命の模範になるように。そして平和に暮らせるように。
そのためには、まず世界から黒いヤツらを根絶やしにせねばならない。そして地球が攻め込まれないようにしなければならない。
ティアは女性ではなく一人の母親の表情をしていた。これを守りたい。守らないといけない。
彼女の美しい白銀の髪は穢れのない純心だ。それをヤツらに穢されるわけにはいかない。
絶対に。
そう、絶対に……。
〇△〇△〇
「……ティア!」
聖皇は叫びに近いほどの大声で親友の名を呼んだ。じっとりと汗をかいている。ここは内裏だ。薄暗い御簾の内側で、どうやら自分は寝てしまっていたらしい。
「何か聞こえたけど大丈夫?」
そのとき御簾をめくってスピカが顔を覗かせた。もう二週間以上が経ち、気兼ねもなくなってきている。
そんなスピカの容姿に親友の面影を重ねずにはいられなかった。
「クックックッ、シリウスがおぬしに目をかけているのもよくわかる」
「私としては少し鬱陶しいけど。まあこうやって聖皇の下で修業ができているのもシリウスのおかげだし感謝はしているわ。それより、ティアって叫んでだけと誰? あの聖皇の知り合いなんだからきっと強い能力者なんでしょうね」
ナツキに追いつこうと必死なスピカは少々バトルジャンキー気味になっていた。少しでも多くの強者と手合わせし自分の糧にしようとしている。
だからこそ聖皇が口にした人物にも興味をもった。名前からして日本人ではないので授刀衛ではない。かといって星詠機関でも聞いたことがない。どこかの国の強力な能力者だろうか、とスピカは純粋に疑問に思ったのだ。
しかし聖皇はゆっくりと首を振る。懐かしい友を偲ぶ。
「いいや。違う。能力者ではない。それは妾の友の名じゃ。強く、立派な……そして妾が守れなかった、友のな。いつかスピカにも聞かせてやろう。妾の、そして本当のアステリズムの物語を」
しかし一抹の不安が聖皇の背筋を不気味になぞった気がした。
どうしてあんなにも昔の思い出を夢で見たのか。地球を、友を守りたいと願ったあの日を。ヤツらを根絶やしにしたいと強く願ったあの日を。
本能なのだろうか。異星から襲来した黒い絶望が、すぐ近くにいるとでも言うのか。
(……いいや、まさかな)
聖皇は御簾をめくって外へ出る。さらに紫宸殿も出て陽の光を全身に浴びる。
さあ、続けるぞ。そう言って刀を抜き、スピカへの修業を再開するのだった。
夢の内容は五章と七章の間です。