第337話 絶望の再始動
「ドクター、あいつの脚どうだった?」
「今日の朝にはもう普通に街を歩き回っておったんじゃぁ。それが何よりの証拠。違うかのぅ?」
「後遺症の類は?」
「まったくなしじゃぁ。ワシの能力はそこいらのレントゲンより緻密に患者の状態がわかる。その上で断言しよう。完治じゃぁ」
夕方。診療所の窓から夕陽が差し込む。本来は患者のために設えられているベッドで横になり頭の後ろで手を組んでいるウィスタリアはカルテを眺めるドクターに尋ねた。
いましがた診察を終えたカペラは既にナースとともにナースの家に帰っている。ウィスタリアはドクターから完治の報せを聞くと、錆びた手術道具に右手を触れた。
「進化・上位互換。あいつの診察代くらいにはなるだろう?」
「あほう。メスが電気メスになってもここに電源ないじゃろぅ」
それもそうか、とウィスタリアは左手で電気メスに触れる。すると青白く発光し先ほどまでの錆びたメスに戻った。再度右手で触れると今度はシンプルだが傷ひとつない新品のメスに生まれ変わった。
「そんなことせんでも、もう充分にワシらは見返りをもらっておるよ。この国でこうして自由に生きられる。それが何よりの報酬じゃぁ。それにしてもウィスタリアや。お前さんがここまで入れ込むとはのぅ。カペラちゃんに惚れたんかい?」
「冗談はよせやい。そんなじゃない。俺は仮にもこの国の大統領だ。外からの客人に怪我を負ったまま帰らせるわけにはいかんだろう。……というのが建前なことくらい、ドクターにはお見通しなんだろうな」
「ワシの能力は心の不調すら見抜けるからのぅ」
「それはさすがに嘘だろ?」
「お茶目な老人のジョークじゃ」
カルテを棚にしまったドクターは白衣を脱いでウッドコートハンガーにかけた。
ワイシャツにネクタイ、そしてフォーマルなベルトのオーバーオールと紺のスーツパンツ。背が低く白い毛髪もさびしい草原になりつつある彼は白衣を脱ぐと随分と小さく見えた。定年間近のくたびれたサラリーマンのようだ。
ドクターはカルテをしまう棚の一段下を床に這うようにして開けて腕を伸ばした。
そして中からの取り出しのは琥珀色の液体。立派なヒゲの生えた老人が瓶に描かれた世界で最も有名なウイスキーだ。
「久しぶりに一緒に飲まんか?」
「そんなところに酒を隠してたのか。またナースに怒られるぞ」
「ふむ。おかしいのぅ。ワシには度数の高い消毒用アルコールにしか見えんが」
シラを切るドクターの態度がおかしくてウィスタリアはつい吹き出す。ドクターはグラスを二つ用意し三分目まで注いだ。水も氷もない。一口で飲み干せるいわゆるショットという飲み方だ。
二人はチンとグラスを当てて小さく乾杯し互いに一気に煽る。まずは頭が、次に顔、そして全身がぽかぽかと熱くなる。
「……似ていたんだ。俺はネバードーン家の子だから大勢の兄弟姉妹がいる。その中でも俺が家を出る最後まで心配していた妹に、あいつは……カペラはよく似ている」
ウィスタリアの顔は赤い。酔いが回って普段は言わないようなことまで口走ってしまう。
ドクターはさっきまでのお茶目さが嘘のように真面目な表情でウィスタリアの話に耳を傾けていた。
「顔や体が似ているっていうわけじゃないんだ。親の期待に応えないといけないと思っている幼さ。その結果として自分自身の心を追い詰めてしまう不安定さ。そういう放っておけないところがそっくりだ。まあ俺は十歳そこそこで家を出ることになったし、その妹ってのも……」
ウィスタリアは嫌な記憶を忘れようとテーブルに置かれたウイスキーの瓶をひったくりグラスになみなみ注いで腹に流し込んだ。
「ワシはお前さんの妹さんを知らんから何も言えんよ。だが、カペラちゃんの笑顔を見てワシはこう思うんじゃ。ウィスタリア。きっとお前さんの妹は救われたんじゃないのかのぅ。現にカペラちゃんがそうであるように、じゃぁ」
「だといいんだがな」
ウィスタリアは空になったドクターのグラスにも注いでいく。男くさい二人の飲み会は夜まで続いた。その晩はウィスタリアはナースの家に立ち寄らずまっすぐに自宅へと帰った。ナースの家でカペラと顔を合わせるのが気恥ずかしかったからだ。
カペラが開けた天井の穴はそのまま。瓦礫のそのまま。これじゃあハンモックは使えないな。それでも天井が開いているおかげで月がよく見える。ちょうど斜めになった瓦礫に身を預けて横になり夜空を眺めているうち、酔い潰れたウィスタリアはあっさりと眠りに落ちるのだった。
〇△〇△〇
ジッダ・タワー。英名をキングダム・タワー。サウジアラビアのジッダに建設された高さ一〇〇八メートルの超高層ビルである。言うまでもなく高さは世界一位だ。
その最上階はフロアを仕切る壁を設計段階から設けておらず一人の人間のプライベートルームとなっていた。
部屋は非常に簡素で物は多くない。艶のあるカーペットやカーテン、最低限のシャンデリアに花瓶に生けられたイエローエタニティという品種の黄色い薔薇。高級だが下品さはなく上品かつスマートにまとめられている。
ガラス張りの窓から雲がうっすらとかかった景色を望み、玉座を見立てて用意させた宝石の装飾が眩しいアンティークチェアに腰をかけるのはカナリア・ネバードーンである。肘掛に肘をつき手に顎を乗せて神妙な顔つきで外を眺めていた。
だだっ広い部屋の空間に黒い円が現れる。直径にして二メートルほど。そして黒円をくぐるように燕尾服の老人が出てきた。
「なんとなく……セバスが来るような気がしていた、ですわ」
「畏れながらカナリア様の能力はグリーナー様のような知覚系能力ではなかったと記憶しておりますが」
「そう思うのならわざわざ指摘しないでちょうだい、ですわ。こんなものただの勘です。或いは予感、直感と言ってもよいでしょう。わたくしは世界の寵愛を一身に受けた存在。超常的な感性に秀でているのですわ」
「さすがはブラッケスト様のご息女にあられます」
「世辞も御託も結構ですわ。さっさと用件を話しなさいな。使用人風情に長々と時間を使うほどわたくしはお暇じゃなくてよ」
扇で口元を隠しながら鼻をふんと鳴らす。
セバスが二等級なのに対してカナリアは三等級なので、もしも二人がこの場で戦ったらカナリアとて敗北する可能性はある。しかし強さとは別軸の基準として彼女は強者としての振舞から逃げない。
長兄クリムゾンの影響でもあり、長姉シアンから学んだ淑女としての矜持でもある。
立場はもちろん人間としての格を高め、下の者に対しては相応の振舞をする。それこそがカナリアなりのネバードーンの【子供たち】としてのスタンスである。
「では僭越ながら。カナリア様にはこちらをご覧いただきたいのです」
セバスの青い両眼が淡く光ると今度は天井に黒い円が描かれる。世界最高のビルのワンフロアを丸々使った部屋の天井は当然それなりに広く、円は真円というよりも引き延ばされた楕円のようだ。
そして黒楕円からドスン! と黒い塊が落下した。
床が抜けるのではないかと心配になるほど巨大な落下音にさしものカナリアもびくりと身体を震わせ、瞬時に立ち上がった。手元の扇で歪む表情を隠してカナリアは絞り出すように言った。
「これは……この醜悪な生き物は一体なんですの。まるでわたくしの動物的本能に直接はたらきかけてくるかのような気味の悪さ。もう生きてはいないようですが」
「もう生きてはいない、というよりも最初から生命体として生み出すことに失敗したようです。私はただ南極の研究所から運んだだけですので詳しいことは存じ上げません。ただ、いつの日か訪れる戦いの時に備えて予行練習に使うのが目的とは聞いております」
全身が黒い。甲殻のような固い皮膚に覆われていて眼はトンボのような巨大な複眼だ。一体ずつの体長は二から三メートル。鉤爪に太い尾などは爬虫類を思わせるが、下半身や大腿の筋肉のつき方は二足歩行生物に見える。
その屍の山が、夥しい数積み上がっている。おぞましい姿はカナリアの直感にどうしようもない嫌悪感を植え付けた。
「で、これをわたくしにどうしろと? わたくしはメリットのない提案を聞き入れるほど慈善的ではなくってよ。それも不潔で不愉快なものと関わるなんて言語道断、ですわ」
「カナリア様の能力で命を宿していただきたいのです。現代の能力者たちが、この醜悪なバケモノを相手にどこまで通用するのか。それをあのお方は知りたがっている」
「あのお方って……これはお父様直々の命なのですか!?」
「ええ。カナリア様にしか任せられない仕事だと。これは私見ですが、クリムゾン様やシアン様が失墜した今、ブラッケスト様もカナリア様に注視しているのでしょう」
「そうですか……そうですわね! その通りですわ! 今こそわたくしの時代! お父様もそれを理解してくださっているのね!!」
カナリアは扇も放り捨て晴れやかな表情で高らかに吠えた。先ほどまでの嫌悪感を翻し歓喜に打ちひしがれた。
圧倒的な強さを誇っていたクリムゾンやシアン、そして最もいけすかないウィスタリア。常に四番手として背中を追いかけていたカナリアにとって敬愛する父親から最も目をかけてもらえるというのは、この瞬間だけは『一番』になれたことを意味している。
胸が震える。カナリアは落ち着きなく縦ロールの黄色い髪を指先でいじりながら尋ねた。
「命を宿し使役するわたくしの能力でこのバケモノどもに命を吹き込めばいいのね。そ、それから?」
「先ほども申し上げた通り、ブラッケスト様は能力者がこの黒く醜悪なバケモノを相手にどこまで通用するのかに関心があります。よって、能力者が一か所に大勢集まっており、なおかつ証拠隠滅も簡単な場に放ってほしい。その指揮監督をカナリア様に取ってほしいとお望みの様子でした」
「なるほど、ですわ。複数名の能力者が集まっているところとなると……」
実家であるネバードーン財団は抜きにして、まず浮かぶのは星詠機関。国連加盟国の能力者たちは基本的にここに属している。
それから、国連に加盟していない国々。ロシアや日本だ。ロシアはクリムゾンこそ失ったものの能力者の戦力は多分に残っているし、日本においては聖皇や聖皇直属の授刀衛がいる。
カナリアは頭をフル回転させ損得勘定の算盤を弾いた。
条件一。複数の能力者がいること。
条件二。証拠隠滅が簡単なこと。
そしてこれはブラッケストに与えられた条件ではないが、個人的には。
条件三。他ならぬ自分にとって有利な結果となること。ブラッケストからの評価を得るだけでなくカナリア自身が当主争いで抜きんでることができるのは大きい。
瞬時に知識と記憶を条件で照合し、カナリアは閃いた。
「ああ、ぴったりな場所がありましたわ。能力者の住む街、証拠隠滅もしやすい小島国。何より、わたくしの最も嫌いな人間が統治している場所。ですわ」
「それではカナリア様、受けていただけるのですね」
「ええ。セバス、帰ったらお父様に伝えてちょうだい。このカナリア、必ずやお父様のご期待に応えてみせますわ、と」
カナリアの紫色の両眼が淡く光る。
カタ、カタカタ……。人類を嘲笑うように歯の鳴る音がする。黒い絶望が、再び動き出す。