第336話 掌握し、切り開く
スピカが京都に来て一週間が経過した。夏の暑さの余韻こそ残るものの九月も半ばに入り季節は秋だ。橘恭子が女将を務める旅館で寝泊まりしているスピカは、毎日欠かさず朝の五時には紫宸殿に訪れている。
そしてこの一週間、毎日同じことをさせられていた。
部屋の四隅には燭台が置かれている。スピカは部屋の中心で目を瞑り座禅を組む。聖皇はその間ずっと御簾の後ろにいるだけ。本当にただそれだけ。
(初日に私を試して以来、一度も戦闘に関する修業はない。それどころか私は能力すら使ってない!)
朝のシンと静まり返った空気は頭の中の独り言を余計にうるさく増幅させる。外の光は入らず光源は燭台の蝋燭のみ。目を瞑っていると蝋燭の長さもわからないので時間感覚が狂う。気が変になりそうだ。
練香は相変わらず部屋のどこかで焚いているようで白檀の甘く爽やかな香りがユラユラと鼻の前を行ったり来たりしている。
はっきり言って、強くなった気がしない。焦る気持ちが表情に出ていたのか、聖皇は御簾の向こうからスピカに声をかけた。この一週間で初めてのことだった。
「どうじゃ。感覚は掴んでおるか?」
感覚ってなんだ。何の感覚だ。聖皇の言葉足らずな物言いにムッとしたスピカは非難も込めて返す刀で聞き返した。
「……本当にこんな修業が役に立つの?」
「そうじゃな。それはおぬし次第じゃ。まあ人生の大先輩の言うことは聞いておくもんじゃと妾は思うがのう。本当に強くなりたいのならな」
「……わかったわ。やるわ。やるわよ。やればいいんでしょ!」
何百年前、それどころか千年以上も前から史料に名前が残っている聖皇に、それも一等級の能力者にそう言われてしまったらスピカは何も言い返せない。卑怯だ。
瞑想をし続けるだけの修業に何の意味があるのかはわからない。だが聖皇は『おぬし次第だ』と言った。精神統一や儀式が目的なのではない。まして意地悪をしているわけでもない。聖皇がこの瞑想に意味があり、そしてスピカならば実を結ぶと思っているから課しているはずなのだ。
(この時間を無駄にするのも力にするのも私次第、ってことよね。文句なんて言ってる場合じゃない。今はもっとがむしゃらに取り組むべよ。頑張れ私!)
顔つきが変わったスピカの様子を聖皇はすぐに感じ取った。『ほう』と声を漏らす。面白い。さすが彼と彼女の血筋だ。
聖皇は本当ならナツキと讐弥の戦いを見に行くつもりだった。一等級の能力者として覚醒し世界最強の一角となった黄昏暁こと田中ナツキ。自分に次いで授刀衛ナンバーツーの実力者でナツキが現れるまでは日本最強の男だった心宿讐弥。
聖皇にとってはどちらもよく知る相手だし、死人が出ないよういざというときは戦を止めるため近くで見届けようと考えていたのだ。
しかし。現にここ一週間彼女はここにいる。スピカの瞑想に付き合っている。それだけスピカの修業を楽しく興味深いものだと感じていたからだ。
(スピカよ。おぬしなら妾と同じ境地にまでたどり着けるはずじゃ。妾はそう信じておる)
能力とは、イメージである。想像力である。それゆえに中二病であるナツキは多彩な現象を発揮でき、讐弥や英雄のように技の名前を補助線とすることでイメージの形成の手助けをするケースもある。
聖皇にとって時間を止める能力は運命への反逆だった。イメージするのは椿の花。雪が積もり重みに耐えかねて地に落ちる血のような美しき花である。
花は散り、落ち、枯れる。時の経過はどんな強さも美しさも朽ちさせる。それが許せなかった。そんな当たり前を、常識を、運命を打ち破り反逆し反転させるのが聖皇の時間を止める──また場合によっては巻き戻す──能力である。
では、スピカにとって能力のイメージとは何か。
瞑想の最中スピカは自分の心と向き合っていた。
〇△〇△〇
「ここは……私の精神世界?」
昏い漆黒の空間にひと際白く眩しいスピカが座禅の姿勢で座っている。足元には薄く水が張ってあるようで、足元を少し動かす度に波紋が生まれる。
目を開けて下に視線を向けると水面に自分の姿が映っている。我ながら美しいと思う。でも。
「こんな明鏡止水は、私の心じゃない。らしくない。立ち止まることなく常に高みを目指す私の心はもっと激しく! 天へと昇り立つ龍のように!」
立ち上がったスピカの身体の周囲を空気の渦が包む。『流体を操る能力』なのに気体を操るのが苦手だった。だけど今は見える。空気の流れが手に取るようにわかる。
「そういうことだったのね。ずっと練香が焚いてあって、聖皇が一言も発さず一歩も動かなかったのは……そして私に座禅を組んで瞑想なんてさせていたのは、香りを通して目に見えない空気の流れや動きを理解させるため」
スピカが気体を操ることに苦手意識があったのは脳への負担が大きく体力や精神力がごっそりと削られるからだ。その原因はと言えば、気体が目に見えないことにある。煙なら目で見えるから簡単だ。でも透明な空気では難しい。
その苦手意識を克服するために聖皇は空気に香りをつけていた。香りが風に乗って右から左へ、下から上へ。透明な空気の動きを嗅覚を使って一週間教え込んだ。目を閉じて座禅を組んでいたので余計な視覚情報も入ってこない。徹底的に香りを通して空気の動きだけを追い続けた一週間だった。
空気の渦は足元の水面の水を掬い取り、さらに空気中の水分を集めてスピカを覆い隠す。大量の水は渦から激流となり、暗く果てのない空間で始点も終点もない無限の水流を形作る。
決壊したダムのように空間のあちらこちらから水が流れ込んでスピカはあっという間に飲み込まれた。足の先から頭のてっぺんまで水に浸かっている。
呼吸ができず身動きも取れない。水は全身の体温を奪い身体の芯から凍えさせる。
(でも、この痛くて仕方のない感覚が今はとても懐かしい)
それはスピカがまだスピカの名を星詠機関でもらうよりもずっと前のこと。
分厚い氷と凍える大地によって到底人類が住むことはできないと認定された|人類永久居住不可能地域の氷河に突き落された。
幼かったスピカは短い手足をばたつかせ、氷河の激流と凍てつく吹雪の中でもがき続けた。水も風も、あらゆる流体を掌握せねば流されて凍え死ぬ。そのような極限下においてスピカは能力に覚醒した。
聖皇の、時任聖という少女の時間停止の能力が『運命に反逆する能力』だというのなら。
スピカの、アルカンシエル・ネバードーンという少女の流体を操る能力は『運命を掌握し切り開く能力』。
膨大な水の塊の内側に閉じ込められていたスピカはたちまち水面へと飛び出た。ザパンッ! と水飛沫が上がる。身体を弓なりに撓らせて宙を舞う姿は絵本や伝承の人魚を思わせる。
そしてスピカは再び水に落ちることなく、水面のスレスレを滑空した。身体の周囲の空気の流れを掌握し自在に操ることで疑似的に空を飛んでいるのだ。
水面付近の滑空で助走をつけたスピカは加速に加速を重ねて方向転換し真上へと進んだ。暗闇の上空へと空気を切り裂き飛んでいく。スピカを守護するように水面の水は渦となって共に空へと突き進み、スピカの背をそっと優しく包んだ。
薄く広がったそれは半透明な翼だ。水という流体を操り、周囲の空気を操り、スピカは果てない空間をどこまでも高く飛んでいく翼を得た。
「これこそが私! 立ち止まることも平常心を良しとすることもしない。常に上へ上へと、より強くより美しく高みを目指し続ける力への意志!」
かつて哲学者フリードリヒ・ニーチェが提唱した『力への意志』をスピカは体現していた。
ここは他に誰もいない孤独な精神世界。それでもスピカは上を目指す意志を持ち続けていた。誰かに褒められるためではない。誰かに勝ち誇りたいわけではない。ただただ純粋にスピカという人間は己を高め続ける覚悟を備えている。それこそが彼女のアイデンティティだった。
暗闇の大空を突き抜けて、空間に罅が入る。水翼を一層強くはためかせてスピカの手の指先が罅に触れたとき。ガラスが割れるような音とともに暗闇は消えてなくなり極彩色の光が降り注いだ。
スピカが通った水面から上空までの道のりには七色の虹が架かり、空気を操って浮遊するスピカは虹の上を歩く錯覚さえ抱く。
「ここが本当の私の精神世界。虹は遥か高みへと架かる私の道程なのね。運命を掴み取る覚悟をもった人間だけが通ることのできる道を私はたしかにこの胸の中に抱いている!」
虹色の光がさらに輝きを増していく。
視界が塗りつぶされたと同時、スピカはぱちりと目を開いた。
そこは蝋燭しか明かりのない薄暗い部屋。木床の冷たさと練香の匂い以外に感覚はない。ただし、目の前には至近距離でこちらの顔を除いてくる聖皇の姿がある。
精神世界を脱して元の世界に戻って来たようだ。
「クックックッ、良い顔になったな。おぬしならば辿り着けると信じておった」
「ええ。感謝するわ。私は私のチカラの、そして私自身の何たるかを知ることができた」
「では、修業も次の段階へと進めるかのう。さすがに身体がなまっておろう?」
首をほんのわずかに傾げて尋ねる聖皇。艶やかな黒髪がさらりと流れ、紅の両眼は不気味にスピカを射抜く。
スピカは迷うことなく頷いた。こんなにも高みを目指すのに最適な環境もないだろう。一等級という自分より格上で最強と称される能力者が直々に教えを授けるなど滅多にあり得ない。
「結構じゃ。ではスピカよ。そんなおぬしに一つ良いことを教えてやろう。能力には等級のその先がある」
一等級という至上の高みに座す聖皇から放たれた言葉に対してもスピカは臆することなく笑い返してみせた。
なぜならそれは強さへの可能性だからだ。聖皇も、そしていずれナツキすらも。スピカにとって等級のその先の存在は虹色の希望に満ち満ちていた。
セリフが同じなのでお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、八章ラスト、318話の終盤はこのシーンになります。時系列的にやっと八章に追いつきました。