第334話 世界がわたくしを放っておかない
現代の科学技術において透明人間は実在しない。世界中の学者が異口同音にそう述べるはずだ。しかしながらヒトの脳を騙して透明に見せかけるトリックならば確かに存在する。少なくとも、このアラビアの大地には今この瞬間目の前に存在するのだ。
それは熱波ほとばしる砂漠で旅人が見た蜃気楼の幻想か。テロリズムに駆られた信徒の一人は、自分がこんなにもポエムを心の中で吐き出す人間だとは思わなかった。きっとこの建物は人を詩人にさせる神秘が込められているのだ。そう思わざるを得なかった。
アラビア語において『マラヤ』は『反射・反映』を意味する。このマラヤ・コンサートホールがその名に『マラヤ』を冠するのは直方体の六面が全て鏡になっているからだ。
砂埃が舞い巨大な岩のような小山が立ち並ぶ砂漠のど真ん中。気が狂いそうになるほど無味乾燥で代わり映えのしない景色の中で全面が鏡面になっている巨大は箱がある。
マラヤ・コンサートホールと呼ばれるサウジアラビア屈指の名所である。その名の通り音楽イベントはもちろん、講演会や展示会、大企業のちょっとしたカンファレンスも行われる。
外観は何度も繰り返している通り傷一つない鏡面だ。立地は砂漠と最悪だが、中に入れば空調は効いているしネット環境や水、電気も最新のものが揃っている。
そんなマラヤ・コンサートを黒ずくめの男たちが取り囲んでいる。その数は百や二百ではない。ざっと五百人。
黒い目出し帽で顔を隠しているのは雇われの傭兵で、顔を露出しているのはとある宗教の過激派だ。そのため一目で区別がつく。数は半々ほどだろうか。宗教が行動規範になっている者たちは基本的に恥じ入ることはないので素性を隠さない。
「本当にこの中にいるのか? 今日はただのクラシックコンサートだって聞いてるが」
「ああ。いるんだよ。長年この国を治めていた王族を全て排斥し、宗教弾圧を繰り返しているクソアマがな」
目出し帽の男は近くでアサルトライフルの銃身を撫でていた男に話しかけた。傭兵はカネさえ払われれば誰にでも手を貸す。それがたとえ宗教上の理由であれ、だ。
「そうかい。まあ俺は仕事をするだけだ。あんたらの信仰なんて少しも興味はないが、殺せと言われれば殺す。そうだろう?」
「そうだ。それでいい」
共感はできないが、良い客である。信徒たちが肩から提げているアサルトライフルは全て傭兵たちが貸与したものだ。傭兵たちを雇うだけでなく武器貸与まで含めたプランなので、その金額は日本円で優に億を超えている。
(宗教に溺れてる奴らは、信仰が篤けりゃ篤いほど金払いがいいんだよなぁ。これだから傭兵はやめられねぇ)
喜捨や清貧など、名前は違えどどの宗教にも贅沢を禁じる戒律が存在する。そうして生活を切り詰めて貯まった蓄えが全て傭兵や銃火器という暴力と交換させられたのだ。
「さあ、みんな! あの女を討ち滅ぼすぞ! これは聖なる戦いである!」
リーダーと思しき男は野太い声で全体に向かって宣言し、空に向かって何発か発砲した。宗教的に何やら深い意味のある白いローブを纏い、頭には黒い輪で日避けの白布を押さえて首のあたりに垂らしている姿は一見すると石油王のようだ。
呼応するように信者たちは『うぉぉぉぉぉッッッッ!!!!』と大地が震えるほどに声を上げた。
傭兵たちは目出し帽の下で苦笑いを浮かべ、互いに視線を合わせてやれやれと肩をすくめた。宗教信者は戦争やスポーツとはまた違った不気味な熱量がある。
リーダー格の男は別の信者からスレッジハンマーを受け取った。本来は建造物の解体に使う道具である。思い切り腰を捻って助走をつけ、ハンマーが鏡面を叩き割る。それが信者たちを雪崩れ込ませる合図となった。
傭兵の男は軍用ジャケットの胸ポケットから一枚の顔写真を取り出す。信者どもから殺しのターゲットと聞かされていた相手は、息を呑むほどに美しい女性だった。
気品溢れるドレスと乱れのない縦ロールウェーブの黄色い髪。透き通る白い肌には凛とした笑みと強気な瞳。
「カナリア・ネバードーン。旧王家を追い出した現代のサウジアラビア女王か。美人な若いねーちゃんを蜂の巣にする趣味はねぇんだけどなあ。ま、仕事ならしゃあない」
傭兵たちも手に馴染む銃の調子をたしかめながら信者たちの後に続いた。
〇△〇△〇
「高~貴な人間には高貴な音楽がよく似合いますわ! ですわ!」
ふぁっさふぁさの羽毛が鬱陶しいファビュラスな扇で口元を隠したカナリア・ネバードーンはマラヤ・コンサートホールの最前列で満足げに言った。
ステージ上では楽団がクラシック音楽の演奏をしている。公式な演奏会ではない。観客はカナリア一人だからだ。楽団員たちの報酬や一流の楽器の用意、移動費や宿泊費などあらゆる費用はカナリアが負担している。要は金持ちの道楽である。
それゆえに彼女の私語を窘める者も迷惑を被る者もいない。全てが彼女の思うがままなのだ。
ピンと上を向いた長いまつ毛の目を閉じて音色に耳を澄ませる。弦楽器の弾むような音が管楽器のたくましい音に支えられ、ピアノが作った音階の階段を昇っていく。そんな情景が彼女の瞼の裏にはありありと描かれていた。
「とってもウットリ、ですわ。わたくしが音楽を聴くのではなく音楽の方がわたくしに聴かれに来ているんですわ」
ふかふかのクッションシートの座席に身を預けて演奏を耳で味わうカナリア。しかし、怒号と破壊音がそれを遮った。
ホールは舞台や舞台に近い席が最も低く、後ろに行くほど席は高くなっており見下ろす形となっている。これは前に座っている人が邪魔で舞台を見られなくなってしまうことを防ぐためだ。
そんな最後方に出入口も位置している。左右に二カ所、両開きの扉。その扉を蹴破った男は舞台を──正確には舞台を間近で観覧する黄色い髪の女を見下ろした。派手な後ろ姿を見間違えることはない。
最初に入って来た男に続きぞろぞろとさらに大勢がホールに闖入してきた。
演奏は乱れた後に尻すぼみになって途切れた。指揮者をはじめ演奏家たちは、あれが客なのかカナリアというワガママ娘の用意した演出なのか判断に迷う。しかし彼らが肩から提げている黒光りした銃が一気に血の気を引かせた。
演奏家たちが楽器も置いて舞台袖へと逃げ惑う。その混乱に満ちた叫び声が引き金となり、信者と傭兵の混合テロリストのスクワッドは銃口をカナリアへと向けた。
「はぁ。せっかく素晴らしい、このわたくしに相応しいほどに素晴らしい音楽を聴いていましたのに。やはり世界はわたくしという究極の淑女を放っておきませんのね。わたくしなんて罪深いのかしら」
テロリストたちの方に振り返ることもせず心底悲しそうにカナリアは呟いた。その呟きがテロリストたちに届いたかどうか……。
それは誰にもわからない。彼女の言葉を掻き消すようにテロリストたちは一斉に発砲したからだ。
カナリアを蜂の巣にすべく隙間なく二四口径の銃弾が火を吹いた。個々の発砲音が重なり合うことでもはや爆発音に近いものへと膨れ上がる。音を漏らさないコンサートホールの環境が余計に音を増幅させた。
(こりゃあ即死だな。ラクに死なせてやれたのはせめてもの温情か)
傭兵の男はそんなことを考えながら硝煙の曇りと銃弾の雨の中に消えてしまったカナリアを哀れんだ。
テロリストたちは弾倉が空になるまでセミオートの引き金を指で押さえ続けた。
鉛の煙の臭さに顔をしかめながら煙が晴れるのを待つ。カナリアの遺体をその眼で確認し、信徒たちと共有するためだ。聖地で磔にでもすれば熱心な信徒たちは皆おおいに喜ぶことだろう。そんな期待を込めて。
「臭いですわ。ああ、なんと臭いのかしら! そう思わないこと? わたくしの騎士たち」
パラパラパラ、と銃弾が床に落ちる。テロリストたちはあんぐりと口を開けた。三メートルほどの巨人がカナリアを庇うように立ちふさがり、銃弾はすべて巨人の身体に弾き返されていたのだ。
巨人の顔は舞台上に放置されていたチューバだった。身体は座席だ。カナリア以外は空席だった深紫色が艶めく天鵝絨生地の座席が胴体を形成している。
そしてコンサートホールの外で砕いた鏡面の破片がステンドグラスのように継ぎ接ぎに連なり巨人の背中にたなびいている。それはさながら騎士のマント。
何よりテロリストたちにその巨人を騎士のようだと思わせたのは、まるで騎士がロングソードを構えるかのようにチェロのフロッグ──演奏するとき右手に握る弓──を手にしている点だ。
そんなバケモノのような巨大な騎士が、ざっと二十。身体のパーツになっている楽器がそれぞれ異なることもあって一体として同じものは存在しない。
カナリアが座っている席以外は全て騎士の身体に吸収されていて、ポツンとカナリアだけがホールの最前列にいる。まっさらな床の上で、騎士たちは整列した。カナリアを守るように横一列に。
「ひ、怯むな! 数も武器の質もこちらが上だ! 弾幕を張れェ!!!!」
一人が声を荒げると、ハッとした他の面々も手早くリロードして銃口を騎士たちに向けた。
相手は人間ではないので急所がわからない。心臓なのか、脳天なのか。しかし人間ではないからこそ躊躇うことなく引き金を引ける。
ズガガガガガガッッッッと無数の銃口が火を吹いた。
カナリアは席に着いたまま依然振り返らず、扇で口元を隠したまま背を向けている。
銃弾は騎士たちの身体に吸い込まれ……貫通することなく、そのまま取り込まれた。自分たちの唯一にして最大の武器が通用することなく、剰え敵の力になっていく様はテロリストたちの心をぽっきりと折る。
「わたくしは淑女。この場から一歩たりとも動きませんわ。焦りや恐れ? そんなものは淑女に相応しくありませんもの。美しきこの世界が貴方たちのような下賤の民よりも高貴なわたくしを優先するのはまったくもって物の道理。この世界のあらゆる物体はわたくしのために命を懸けるのは当然ですわ」
テロリストたちが最後の心の拠り所にしていたアサルトライフルが、ガクガクと不自然に振動を始めた。肩紐を千切ったライフルはひとりでに動き出し、騎士たちに身体に吸収されていく。
「さあ、わたくしのレギオン。やっておしまいなさいな」
巨大な騎士たちが一斉にフロッグを高く掲げる。動きが寸分の狂いなく揃っている様は本当に騎士団のようだった。
丸腰になったテロリストたちは数瞬呆然とした後に、冷静に現状を理解し、じりじりと後ずさった。騎士たちはカナリアのそばにいる。ホール後方の出入口まではまだ距離的に余裕があるはずだ。逃げ切ることは充分に可能。
テロリストたちは叫びながら出入口の扉へと殺到した。逃げおおせるために互いを押しのけかき分けた。
が、しかし。バタン! と目の前で扉が閉まる。
「な、なんで扉が開かない!?」
「どけぇ! 道を開けろ!」
「うるせぇッ! 外側から鍵がかけられてんだよ!」
ノブをガチャガチャと動かしても扉はウンともスンとも言わない。その間にも騎士たちが迫って来る。
楽器や座席で作られた巨体が一歩ずつ近づく足音が二十。それが彼らにとっての死へのカウントダウンだった。
騎士たちが一斉にフロッグを振り下ろす。一人の騎士の一振りにつき、十人のテロリスト。都合二〇〇人が同時に首を刎ねられた。
血生臭い沈黙がコンサートホールに満ちる。カナリアはようやく席を立った。そして後方を振り返り、扇で隠れた口元はクスリと笑っている。
「ありがとう、扉さん。高貴なわたくしのために彼らを閉じ込めてくれるだなんて、称賛に値するわ。でもこの部屋、ちょっと臭いの。開けてくださる?」
まるでカナリアの言葉に呼応するように両開きの扉は一斉に開いた。手動ドアなのに、自動で。ひとりでに。
「世界を歪ませ命を宿し、わたくしのためにその命を懸けさせる能力。高貴なわたくしにこれほどピッタリな能力もありませんわ。そう思いませんこと?」
紫色の両眼は淡く光っている。騎士たちは膝をついて二列になって跪きカナリアのための道を作った。カナリアが通り過ぎるのに合わせて騎士たちはバラバラになって崩れ落ちる。
そうして出入口にまで辿り着いたときテロリストの遺体や楽器や座席、鏡面の破片があたり一面に散乱し混沌としていた。
実在するコンサートホールです。神秘的というか不思議な見た目なので是非ググってみてください。