第330話 たとえば、時間停止
内裏とは建物の名前ではない。敷地の名前である。夏も終わり九月に入ったというのに、入口の建礼門から内裏に入ると狂い咲いた季節外れの桜が吹雪のように舞っている。まるで花弁の海を泳いでいるかのような夢心地だ。
聖皇がいるのは紫宸殿と呼ばれる正殿。床面積三〇〇坪以上は学校の二五メートルプール三面分相当だ。
星詠機関の世界各地にある支部はどこも高層ビルであることが多い。そういった縦に長いビルとはまた異なる威圧感が横に長い和風建築には存在する。荘厳で威圧感のある空気を既にスピカは敏感に感じ取っていた。
(あそこに聖皇がいる……。アカツキやシリウス、クリムゾンと同じ一等級の能力者が住まう場所。恐怖を通り越して神々しさすら感じる雰囲気ね)
桜並木の道を通り紫宸殿の入口へとやって来た。扉の両側には二人の女がいる。まるで平安時代を思わせる浅葱色、萌葱色、薄色と色とりどりな十二単の女房装束、黒い長髪は後ろに垂らし眉は丸っこく短い。
ナツキが最初に訪れたときと同じように、二人の女房は寸分たがわない呼吸で頭を深く下げた。スピカは存外歓迎されているようだと少し驚いたが気は抜かない。
女房たちが扉を開け、スピカはついに紫宸殿へと足を踏み入れる。部屋の中は暗い。木造和風建築に窓などあるわけがなく、女房たちが扉を閉めてしまっては本当に何も見えない暗闇だ。練香の焚かれた甘く清涼感のある芳香だけが五感を辛うじて刺激してくれる。
スピカはただ一点を見つめていた。視覚の封じられる暗闇でありながら、そこからは肌を差すオーラがたしかに感じられる。
(ロシアでクリムゾンに相対したときと同じね。圧倒的な強者、そして圧倒的なカリスマ。それらを備えた人間だけが放つ格のようなもの)
すると、スピカの目の前で二、三メートルほどの間を空けて二つの蝋燭がポウと灯った。続けて、四つ、六つ、八つ、十つ……と二列の燭台に順々に火が灯っていく。夜に着陸する飛行機を誘導する空港の電灯みたいだとスピカが感じたのは、彼女がプライベートジェットを所有する稀有な金持ちだからだろう。
誘われるように蝋燭が示す道を歩む。そのたび、心臓を握られたような緊張感が全身に走る。間違いなく近づいているようだ。
一体誰に近づいているのか。それは、御簾の奥に隠れ影法師のみが辛うじて認識できる人物。スピカは自分の頼みを受け入れてもらえた礼の意味も込め、また或いはナメられないように自分に気合を入れる意味も込め、御簾に向かって声を響かせた。
「はじめまして。聖皇陛下。私は星詠機関所属、二十一天のスピカ。シリウスが一体どんな手を使ったのか知らないけど、一国の代表者が私を強くするために修業をつけてくれるなんて思わなかったわ。まずは感謝を。どうもありがとう」
「ふむ。どうして妾が聖皇だと思う?」
御簾の奥から女性の声で返事があった。それは童女のようで、老婆のようで、美しくもあり残酷でもある声音。スピカは今まで生きてきてこれほどに重たい声を聞いたことがない。人間がたかだか数十年や百年生きたくらいではここまでの重みを宿すことはかなわないだろう。
スピカは生唾を飲み込む。気圧されてなるものか。自分はスピカ。いずれ黄昏暁の隣に立つ女だ。
(そんな女が、ここでびくびく震えて縮こまるなんて相応しくない。美しくない!)
あえて半歩前に出て、スピカは答えた。
「ここに電気が通っている様子はないわ。それなのに勝手に蝋燭に火が灯された。そしてこの場にはあなた以外に人の気配はない。もしあなたがただの発火能力者なら能力発動の気配を私が察知できないはずないもの。ということは、あなたは私に一切けどられることなくこの広い部屋の蝋燭に火を順々に灯していける能力者ということになるわ。そう、たとえば時間停止とか」
「……クックックッ、正解じゃ。優れた知能は祖母譲りということか」
御簾の向こう側から祖母、と聞こえたが、スピカは自分の祖母になど会ったことはない。聖皇は一体何のことを言っているのか。疑問も束の間。御簾がゆっくりと捲り上げられる。
まず第一印象は漆黒だった。姿を現した聖皇は長い黒髪をいわゆる姫カットにしていて、身に纏っている着物も宵闇のように黒い。
続いて純白。十代としか思えないほど瑞々しく透明感のある白肌に、着物をはだけさせこぼれおちそうな胸元から覗く白桃のごとき乳房。そして金色の牡丹の華があしらわれた白い帯。
そして最後に、赤。紅。朱。スピカと交わる緋色の双眸はおぞましくも美しい。そして聖皇こそが他ならぬ一等級、世界最強の能力者の一人であることを否応なくスピカの視界に突きつける。
「よう似ておる。プラチナのごとき白銀の髪。澄んだ瞳に芸術品のような柔肌。そして豊かな……」
豊かな乳、聖皇はそう言おうとしたところで口をつぐんだ。かつて中学二年生だった自分はいつか彼女のように女らしい体つきになれるだろうかと悩んでみたこともあったが、とうとう今となっては自分の方が熟れた肢体になってしまった。
御簾の向こうで座っていた聖皇は一瞬にしてスピカの目の前に現れ、グッと覗き込むように顔を近づけ瞳を覗き込む。
「クックックッ、しかし目つきは似とらんのう。あやつはもっと包み込むように穏やかじゃった。おぬしは……祖父にも似ておる」
「さっきから祖母とか祖父とか、誰かと勘違いしてない? 私の血筋は……」
「言わんでよい。今はまだ知る必要はないからのう……。して、修業だったか。構わん。おぬしになら妾の力を貸してやろう。では最初に」
次の瞬間、目の前にいたはずの聖皇は今度は再び御簾の向こう側に戻り座っていた。ただし今回は御簾がめくれあがったままだ。まるで瞬間移動。呼吸をするように時間を止めている。スピカは戦慄し息を呑む。聖皇は見下ろすように彼女を睥睨し、冷たく言い放った。
「妾を殺す気でかかってこい。まずはおぬしがどれほどやれるのか試してやろう」
血のように赤い両眼が淡い光を宿す。
同じ船に乗って旅をする友人たちの豊かな身体に憧れる聖:第189話