第329話 ルパート王子の滴
「ゼェ、ハァ、ゼェ、ハァ……」
陽は沈みつつあり、地平線から平行の熱波を送る。息を切らしたウィスタリアの額から玉の汗がこぼれ落ち砂利の坂道を濡らす。ウィスタリアはカペラの乗る車椅子を押して未舗装の山道を進んでいた。
「あいつら……つくづく余計なプレゼントを残していったものだな」
カペラの膝の上には国民たちからもらった果物でいっぱい。当然その分だけ重量は増えておりウィスタリアはつい文句を口にする。カペラはリンゴをかじりながら尋ねた。
「かぷ……。能力でなんとかできないの? 私、ウィスタリアの能力よく知らないけど」
「ん? ああ、そうだな。できないこともない。俺に宿っているのは『左手で触れたものを概念的な下位互換にし、右手で触れたものは逆に上位互換にする能力』だ。そもそもこの車椅子だって普通の木のイスを上位互換の車椅子に進化させたわけだし。非力だが利便性の高い俺の能力なら、この車椅子をもう一段階進化させて電動車椅子にすることもできる」
「だったら……」
「いいや、そこはあれだ。俺の眼は紫色だからな。三等級程度じゃ能力に制約がある。一段階の退化や進化は特に問題はないんだが、二段階、三段階と重ねがけすると耐久時間が落ちるんだ。もしここでラクをするために車椅子をさらに進化させたら、五秒後には破裂してバラバラになった部品や車輪がまっさかさまに坂道を転がり落ちるだろうさ」
「クスッ、使えない」
風で乱れぬよう薄水色の髪を手で押さえ、振り返ってカペラは小さく笑った。しかしそこに嘲笑ったりバカにしたりする悪意は見られず、ウィスタリアは怒るに怒れなかった。
カペラは食べかけのリンゴを手に持って腕をのばし、後ろで車椅子を押しているウィスタリアの口元に運んでやった。ウィスタリアはぶすっとした表情のまま器用にかぶりつく。
「はい。水分補給」
「ああ。水分量八五パーセントの味だ」
「ふふ、何それ」
むぅ、とウィスタリアは訝しむようにカペラを見つめた。昨日屋根をぶち破って自分に襲い掛かってきたときは随分と物騒で、幼女のくせに抜き身の刃物のような態度だった。それなのに今ではよく笑う。この短時間の間に彼女の心の中で何か変化があったのだろうか。
「よく考えたらお前が航空機から飛び降りて俺に襲い掛かってこなきゃお前は脚を怪我しなかったし俺も車椅子押さずに済んだんじゃないか? お前の自業自得な気がするんだが」
「それは、そう」
「あのなぁ……」
「でも原因はウィスタリアにもある」
「は? いやいや、俺のは正当防衛だろう?」
「脚。ウィスタリアが私を振り払うために私を蹴らなかったら脚は無事だった」
「冗談はよしてくれ。どうして地上数千メートルからの落下では無事で俺の貧弱な攻撃で大怪我するっていうんだ。俺は格闘家になった覚えはないぞ。あとリンゴばかりは飽きるから他の果物もよこせ」
「じゃあはい、ブドウね」
房から千切ったブドウを一粒ウィスタリアの口元に持っていく。しかし。
「皮ごと食えるか!」
「最近の果物は品種改良しているから皮も食べられる」
「マダガスカルの大自然で育まれた果物が品種改良されているとお思いで?」
「……」
ウィスタリアの嫌味ったらしい言葉に対してそれもそうか、と思ったカペラは視線を逸らす。
「と、ところでウィスタリアは『ルパート王子の滴』って知ってる? オランダの涙なんて別名もある」
(こいつ露骨に話題をそらしやがって……)
車椅子を手押ししながらウィスタリアは一応頭を働かせる。カペラの述べた言葉に聞き覚えはない。
「ルパート王子? 仮にも俺は世界の政界と財界を牛耳るネバードーン当主の息子だが、その名は聞いたことがない」
「だって一七世紀の王子様だから」
「なおさら知ってるわけないだろアホか。で、そいつが何だって?」
「そのルパート王子が開発を支援したことで知られる、世界初の強化ガラス。それが『ルパート王子の滴』、またの名を『オランダの涙』」
「はあ。じゃあそのルパートって王子はオランダの王族だったのか」
「いやイギリスの人。単に工房がオランダにあっただけ」
(なんじゃそりゃ)
「ルパート王子の滴の特徴はとにかく丈夫なこと。ハンマーだろうが何だろうがどんな衝撃にも耐える技術で、誕生した一七世紀の科学水準じゃ原理は不明。魔法か何かだと思われてたみたい」
「じゃあ今は理屈が解明されてると?」
「うん。溶けたガラスをすごく冷たい水に落とすと、ドロドロのガラスの滴は内側がすごく熱いのに外側だけ急速冷却される。冷えて固まった外側から熱い内側へとっても強い圧縮応力が発生する。つまり現代の強化ガラスと同じ製法に四〇〇年前偶然たどりついたってこと」
「で、突然そんな人類の科学の産物の話をしてどうした? 結論ファーストで話すのはコミュニケーションの基本だぞ」
コミュニケーションに問題があるかのように言われたカペラはむっとしてジト目をウィスタリアに送る。ぷくりと口を膨らませる様子が風船のようで、ウィスタリアは車椅子を押しながら顔を下に向けてこっそりと吹き出し笑いをしてしまう。
「……つまり、私のチカラは『圧力を操る能力』。全身の骨に対して圧縮応力を発生させてた。硬度が四から五ある人骨は、鉄やガラスと同じかそれ以上に丈夫。そこに強化ガラスと同じ方法で強化したから現代の材料力学的に飛行機から飛び降りても無傷」
圧力を操る能力と聞いて、ウィスタリアはなるほどなと心の中で納得した。そう聞くと今までの現象も得心がいく。病室に入った自分を吹き飛ばしたのは二地点の気圧差による人為的な風の発生だろうか。バナナの射出だって皮の内部の圧力を上昇させれば勝手に身が飛び出るはずだ。
それにドクターが言っていた。骨のくっつき方や速度が異常だと。なるほど、圧力を加えたらなば粉砕骨折した骨を元の形に整形し固定することもできるだろう。
さすがは二等級。殺傷力も汎用性も高く非常に強力な能力だ。ウィスタリアは感心してカペラの綺麗な後頭部を眺めていると、ふと気が付いた。
「ちょっと待て。やっぱりその怪我に俺は関係ないじゃないか」
「……ルパート王子の滴は文字通りに雫、オタマジャクシみたいな形をしている。丸く膨らんでる部分はたしかに丈夫な強化ガラス。でも滴と言われるにはもう一つ理由があって……」
カペラは再び振り返り、皮をむいたブドウの実をウィスタリアの口に放り込む。
「雫の逆側の先端、つまり細い方は、とても脆い。ほんの少し手が触れただけで粉々に砕け散る。まるで綺麗な水滴みたいに……。丸っこい方は鋼鉄のハンマーで傷一つつかないのに、反対側の細い方は異様に壊れやすいから、その神秘的な不思議さが世界中の人たちを魅了した」
「ええと、つまりだな。話をまとめると……」
「馬乗りになった私を振り払ったことで、本当は衝撃を与えちゃいけない部分まで揺さぶられた」
ウィスタリアは車椅子を押しながら心の中で頭を抱える。
たしかに妙だったのだ。落下してきた直後は特に痛そうにしていなかったのに、自分が彼女を振り払って反撃しようとしたときから突然痛がり出した。それにドクターによるとただの骨折ではなく粉砕骨折。一度粉々になっていたという。カペラの言う通りなら、自分は彼女の骨をなんとか王子の滴のように砕いてしまったということになる。
「いやいや、ちょっと待てちょっと待て。だとしてもあのまま何もしなかったら俺は捕らえられていたわけだよな」
「うん」
「じゃあ不可抗力じゃないか!!」
「それもそう」
カペラはぶっきらぼうにそう言った。だがウィスタリアは彼女の後ろ姿からわかる。あの背中の不自然で小刻みな震え方、笑いをこらえている。
それを見て毒気が抜けてしまった。怪我も治るとドクターは言っていたし、何やらよく笑うようになったし。
ウィスタリアとしてはどこか切迫した様子の彼女は見ていて痛ましく、放っておけなかった。もしも彼女が言うように大いなるチカラを持つ者には成果という目に見える責任があるのだとしたら、そんな重圧が彼女に圧力を操る能力を与えたのだとしたら……。
伝えたいのだ。能力とはもっと自由で構わないと。能力者だろうが無能力者だろうが、誰もが好き勝手に生きていい。大きな事を成し遂げなくともただ懸命に等身大の幸福を手にする権利があるのだと。
ウィスタリアは要領よく生きてきた。責任感も呪縛もなく、美味しいところを享受できる最低限の努力だけをし、自分の好きなように生きてきた。自分にはクリムゾンやシアンを倒すなどという大きな事は到底成し得ない。しかしこの小国の代表者として悠々自適に生活し、ツキが回ってくるまで待つことはできる。
「そら、着いたぞ。俺はお前にここを見せたかったんだ」
最後の一押しに力を込めて車椅子は山頂へと到着した。山というよりは立派な丘と言った方が適切かもしれない。
カペラは思わず息を呑む。言葉が出ない。それは今まで成果への重圧に追われてきた彼女にとって意識を向けたことすらない心の感覚だった。
山頂から望むのは草原の地平線に漸近する太陽。ゆらめく輪郭は力強い炎のエネルギーを感じさせる。
森林の中ではキツネザルが顔を覗かせ、時折聞きなれない怪鳥の声がする。さらに遠くへと目を向けるとさきほど通った中心街の街並みが小さく見える。ぽつぽつと点在する人影は熱気と活力があり、間違いなく自分に果物をくれたりたくさん話しかけたりした人たちの街だと一目でわかる。
オレンジ色の大空はどこまでも広い。遮るビルもタワーもなく、どこまでも高く開かれていた。流れる細かい雲は大海原を旅する小舟のように気ままに進路を取っていた。
カペラはぽつりと言葉をこぼす。
「私……空がこんなに広いっっていうことすら忘れてた。もっと暗くて、押しつぶされそうな……それが辛くて、見上げることをやめてた」
「カペラはどこか心に余裕がなかったからな。何のトラウマか知らないが、この国を見てみろ。誰も誰かを縛らないし、縛られることもない。お前の心に蓋をするものは本当はありはしないんだ。好きなように生きて、好きなように力を振るえばいい。振るいたくないなら振るわなくたっていい。身の丈に合った生活をしてもいいし、大きな野望を口にしたって誰も笑わない。俺のようにふとした幸運に見舞われることもある」
ポン、と車椅子に座るカペラの頭に手を置いた。
「まあ、なんだ。この国はお前の心の自由を邪魔しない。苦しいときは泣けばいいし、嬉しいときは笑えばいい。昨日のお前はそれすらできていなさそうだったからな」
「……もっと、もっと見たい。もっと知りたい。ここの人たちは私にとってわけがわからないことばかりだった。でも不思議と嫌じゃなかった。だから」
カペラは頭に乗せられたウィスタリアの手を握る。あまりに突然のことだったので、その手の柔らかさに思わずウィスタリアも顔を赤くする。夕陽に照らされる彼女の横顔が少しだけ大人びて見えたからだ、と自分に言い訳でもするように言い聞かせる。
さらにカペラは空いているもう片方の手を地面へと向けた。掌と地面。その間、わずか二〇センチメートル。カペラの青い両眼が淡く光る。爆弾高気圧が手から発生し、そして──。
ドンッッッ!!!!
「ぬあぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッッッ!!!!!!??????」
空気の爆発する音が鳴った次の瞬間、ウィスタリアの身体は気味の悪い浮遊感に襲われていた。
飛んだ。或いは、跳んだ。
見渡す限り空。眼下には草原や森。どうやら山頂から高く高く大空へとぶっ飛ばされたらしい。絶叫するウィスタリアを現実へと引き戻したのはキュっと握られた手だった。そう、カペラも一緒に飛んでいた。
まるでスカイダイビングでもしているかのように二人は手をつなぎ、夕景の橙空を泳いでいたのだ。
「広い……! 今まで私の心を抑え込んでいたプレッシャーが嘘みたい!」
物静かで言葉数の多い方ではないカペラが、珍しく饒舌に。それも腹の底から楽しそうに声を張り上げる。上空特有の横風に声が掻き消されないようウィスタリアも負けじと声を張り上げる。
「ああ! そうだ! 俺たちは何にも縛られない! 一番にならなくたっていい! 成果を出し続けなくたっていい! だって、こんなにも空は広い!」
雲を突き抜けて自由落下するウィスタリアとカペラ。二人は声を上げて笑った。どうしてか、何もかも笑い飛ばしてやりたくなった。
カペラは今朝方ナースが言っていた言葉を思い返す。
『でもね、彼のことをよく知ってほしい。彼が守っているもの。背負っているもの。それをカペラちゃん自身の目で見て、その上で判断してほしいの』
星詠機関にもネバードーン財団にも縛られず、大日本皇国やロシア帝国のような大国に従うこともせず、ただ自由に普通の暮らしを送る能力者の国民たち。無能力者とも共存し、自分の気ままに能力を使う人たち。
それを見て、自分も自由を行使したくなった。だから飛んだ。成果を生み出し重圧に応える道具でしかなかったこの能力で、意味もなく成果もなく、ただただ大空へと飛んでみたのだ。
(ナースさん、私、わかった。ウィスタリアが守っているもの。背負っているもの。それはこの国の人たちが胸に抱く気持ち。それが、今、私のここにもちゃんとある)
凹凸の少ない胸にそっと手を添える。こんな晴れやかで温かい感情は初めてだった。自由。ありのままの『私』が許容される時間と空間。ウィスタリアはマダガスカルにやって来た人々のアイデンティティを、『私』が『私らしく生きること』を背負ってくれているのだ。
「ウィスタリア!」
「なんだカペラ!」
「……ありがとう。……ありがとう!」
「ああ! 気にするな! 言っただろう、敵は味方になるかもしれないってな!」
敵を恐れない。カペラは思う。たしかに彼の能力の等級が自分よりも低いが、きっと彼は自分よりも強い人間だ、と。
「ところでな、カペラ」
「なに?」
「絶賛落下中なわけだが、安全に着地する方法はあるんだろうな? なんとか王子の滴みたいに全身バラバラに砕け散るのは勘弁だぞ」
「……」
「おい! 不安になるから黙り込むな!」
「……」
「おいぃぃぃぃ目を逸らすなぁぁぁぁぁぁぁあぁ!!!!!!!!!!」
この日、国民たちは敬愛する大統領であり友人であるウィスタリアの絶叫がはるか上空から降り注ぐのを聞いたという。もちろん、そんなアホなことなどあるわけないかと気にも留めずに。
実在するガラスです。