第322話 藤色の三番手
ウィスタリア・ネバードーンという青年は要領良く生きてきた。少なくともそれを得難い才能だと彼自身は心の底から自負している。
たしかに長兄であるクリムゾン・ネバードーンのような一等級の能力はもっていない。彼と千回戦っても指一本触れられないだろう。
あるいは、長姉であるシアン・ネバードーンのようなカリスマももっていない。ちょっと近所のファミレスに足を運ぶくらいの勢いでイギリスという世界屈指の大国のトップに短期間で躍り出ることなんてできないし、国はもちろん自分の屋敷を管理することだって簡単ではない。
だが、少なくとも【色付きの子供たち】に選ばれなかった連中よりははるかに優秀だ。
ネバードン財団の当主であるブラッケスト・ネバードーンは若いころから世界各地の女に遺伝子の種を撒き散らしてきている。単に血の繋がりという意味では子女の数は三桁にのぼるだろう。隠し子が全員養育費を請求したら一国の国家予算にも匹敵するかもしれない。
しかしその中で彼の跡を継ぐ権利、すなわち継承権を持つ【色付きの子供たち】は多くない。
生まれ持った資質。それは異能力の存在はもちろんのこと、知力や身体能力、経営センスや人望まで多岐に渡る。
たとえばナツキとスピカが以前日本で戦ったグリーナー・ネバードーン。彼は年齢で言えばクリムゾンよりも上だ。しかしあくまでネバードーンの血筋における長兄はクリムゾンである。グリーナーはカウントされない。彼は能力の等級こそ二等級と優れていたが、他が劣っていたためブラッケストに認められることはなかったのだ。
逆に、美咲を連れ去ったアクロマ・ネバードーンは能力が三等級とやや見劣りするが頭のキレる男だったので、【無色】と末席ではあるが一応【色付きの子供たち】である。
ウィスタリア・ネバードーンは決してどの分野でも一番にはなれない。しかし、そこそこの資質とそこそこの運によって常に美味しい場面に滑り込んできた。彼は両手の指を折りながら一、二、三と数える。
「クリムゾンは新たに観測された一等級の能力者に倒されたろ? シアンは公共の電波でボコられたから脱落したも同然。無色のアクロマはハナっから論外。となると、ペナントレースに残っているのはひぃ、ふぅ、みぃ、そんで俺を入れて四人だ」
ウィスタリアはハンモックに寝そべり頭の後ろで手を組みながらこらえきれずにニヤリと笑う。十畳ほどの小屋の窓から吹き込む潮風には城下の街並みの香りが乗っていた。人々の活気や笑い声、それにアチャール──レモンや玉ねぎ、パインを酢漬けしたマダガスカルの伝統的な料理──の甘酸っぱい匂いも食欲をそそる。
こんなに狭苦しい部屋でもウィスタリアの邸宅は一番の高地──価格ではなく標高が高い土地──にあるので、一応は国家元首だ。クリムゾンが実権を握っていたロシア帝国やシアンが統治していたイギリスに比べたら遥かに小さく遥かに田舎である。
アフリカの南東部のインド洋に浮かぶ、ほとんどが草原に覆われ豊かな生態系を築く小島。それこそがウィスタリアの力で辛うじて手に入れることのできた小国、マダガスカルである。
部屋の壁から逆側の壁まで全部使って吊るされたハンモックから飛び降りたウィスタリアは前髪が目にかかりかけているおかっぱ頭をかき上げる。
「ああ、たしかに俺は非力だ。どうしてこんな聞いたこともない国で過ごすことになったのか俺もよくわからん! 偶然の巡り合わせだな! しかーーし! 機は熟した。十年ほどになるか? 動物と果物しかないこの国で堪え忍んだ甲斐があったというもの」
ウィスタリアは現代日本で言うところの新卒社会人の年齢だ。つまり、ネバードーン家の子供という豊かな暮らしから放り出されて十年、多感の思春期も爽やかな青春時代も苦難に満ちた放浪生活ばかりだった。
クリムゾンやシアンのように大国のトップに就ける実力もなく、グリーナーのようにブラッケストに認められるため狂気的な努力をする執念もなく、かといってアクロマのように下請けじみた仕事に徹するにはプライドが邪魔をする。
国盗りくらいしなければネバードーン財団の当主という地位を引き継ぐ資格はない。別にブラッケスト本人がそう言ったわけではないが、そんな暗黙の了解があった。というより、【子供たち】の間で競争をするには国の一つや二つ持っていないと純粋な兵力や経済力という意味で戦力不足なのだ。
かくして、どこでもいいから国のトップに立ちたいと放浪していたウィスタリア少年はそのうち青年と呼ばれる年齢になった。
そして偶然通りかかった国でマフィアの人質になっていた資産家の老人を助け、幸運にもその老人がマダガスカルの政治家とパイプがあり、なぜか性格を買われて選挙に出ることになって、口八丁手八丁で群衆をまとめ上げて選挙は連戦連勝、気が付けば大統領である。
「さあ、今こそ俺の時代だ! クリムゾンやシアンのような眼の上のたんこぶが勝手に脱落した今こそ好機。こんな小国さっさとおさらばしてネバードーン財団の全権を握って、そうしたら美人のねーちゃんをビキニ姿で侍らせて毎日贅沢三昧……!」
紫色のおかっぱはいつになくツヤツヤと照っている。狭い家の狭い部屋で、拳を握り歓びを噛みしめる。妄想に頬が緩まないよう唇を引き締めて不自然に頬がぴくぴく痙攣している。
「こういうのを極東の国では棚からぼた餅と言うんだったな。まああの国は聖皇率いる授刀衛の警備が厳しすぎて放浪中も立ち入ることはできなかったのだが……そんなことは今はいい! ともかくだ! 棚ぼただろうが何だろうが上二人が退いた今、一番追い風が吹いているのはこの俺、ウィスタリア・ネバードーン! ブラッケスト・ネバードーンの地位はもうすぐそこまでグゲュェッッ!?」
スドォォォォォン!!!! という激しい音を立て、ウィスタリアは視界が真っ暗になる。頭に何かぶつかったようで割れるように痛い。何事かと思い身体を持ち上げようとすると瓦礫や砂埃がパラパラと落ちる音がする。
ゆっくり瞼を持ち上げると眩しい光に襲われる。日光だ。屋内なのに日光? と疑問に思ったのも束の間、天井に大きな穴が開いているのを目に留めた。
そうして視線を上から下へと戻す。尻もちをついているウィスタリアは真正面を向いた。ポカンとするウィスタリアの紫水晶色の瞳と、彼に跨る少女の青い瞳が交差する。
少女は瓦礫の砂埃にケホケホと咳をすると、おもむろに口を開いた。
「さすがに地上千メートルから落ちるのはやりすぎ……」
「そ、空から女の子!?」
大きな声を出して驚くウィスタリアに少女は黙って冷たい視線を向ける。言外にうるさいと言っているようだ。
少女の薄い水色のミディアムヘアが天井に開いた穴から差し込む陽の光でキラキラと光る。その可憐で幻想的な輝きに似つかわしくない黒光りが少女の腰から閃いた。
「女の子じゃない。私にはカペラという名前がちゃんとある。……星詠機関所属、二十一天が一人、カペラの名の下に、ウィスタリア・ネバードーンを国際法違反の嫌疑で逮捕する」
拳銃の銃口がウィスタリアの額にピタリと当てられる。命を奪う冷たさが肌から伝わってくる。
張り詰めた空気の中でウィスタリアは目を瞑った。状況をゆっくりと飲み込み、理解し、そして……。
「逮捕だとォォォォォォォォォ!!!!????」
小さな国の小さな家の小さな部屋で、青年の絶叫がこだまする。少女はやかましいとばかりに顔をしかめてジト目を送り、引き金にかけた指に力をこめる。当のウィスタリアはその様子に一切気が付かないのであった。