第321話 ワインレッドの心
ブラッケスト・ネバードーン。一代で世界の財界政界を支配する一大財閥を築いた希代の天才経営者の名だ。既に中年と呼ぶべき年齢も過ぎているだろうに、肩のあたりまであるワンレンの黒髪や肌艶の良い顔は張りがあって若々しい。顔のシワとて無いわけではないが、歴戦の経営者たる彼の力強さを引き立てている。
演説台の前に立ったブラッケストは貴族の礼服の上から黒いマントを羽織っていて、同じく黒い瞳で座っている己が子ども達をぐるりと見渡した。執事のセバスは一歩引いたところで恭しく頭を下げたままじっとしている。
「テクノロジーが最も進歩する瞬間を知っているか?」
決して声を張り上げているわけではないののに存在感のある彼の声は部屋の空気を振動させる。三十人の子どもたちは無意識にブラッケストへと視線を引っ張られる。
さながら万有引力のようだ。質量が大きいほど引き付ける力も大きくなる。ブラッケストという巨大なオーラは否応なく彼らを虜にしてしまうのだ。
「格闘家が最も強くなるとき。学生が成績を伸ばすとき。なんでもいい」
クリムゾンですらまばたきも忘れるほど目を見開いてブラッケストの言葉へ耳を脳を傾ける。
「それは争いだ。戦争が、試合が、試験が、人を成長と進歩へ駆り立てる。強者にとって弱者は不要か? 断じて違う。弱者がその命を賭して強者に喰らいつくことで強者もまたさらなる成長をするのだ。命の超新星爆発が奇跡的に強者を乗り越えることもあるだろう。或いは、強者の進歩の贄となるだろう。いずれにしろ神の視点に立てば、種全体の大きな進歩の第一歩なのだ」
暗に周囲を見下すクリムゾンのことを言っていた。青年と呼ばれるほどの年齢に達しているクリムゾンはブラッケストの名代として財界にも顔を出している。ブラッケストにも一定以上認められているのだ。その上で、あえて弱者の必要を彼は説く。
「この場に集められたのは皆私の大切な子ども達だ。そしてお前たちは生まれてからこの人類永久居住不可能地域で指導を受け、異能力、運動能力、知力、統率力、あらゆる能力を開発してきた。知っての通り、見込みなしと判断された者はそれなりの末路を辿ってきた。さて、ここでだ。この中に私の跡取りとして相応しい候補者は何名いると思う?」
真横にいる幼い少女から順にぐるりと三十名を改めて見渡す。自信のある者もいればブラッケストの雰囲気に呑まれる者もいる。
ブラッケストは一度息を深く吐き、右から四番目、つまりシアンの隣に座る少年に目を合わせた。
「大体、ここまでだな。三十人いて四人。この世界を背負って立つに足る人材がたったそれだけなのだ。私は悲しい。本来であれば、世界を舞台に選りすぐりの子ども達を競争させようと思っていたのに、だ」
幼いアルカンシエルという白い髪の少女。ブラッケストの名代として既に社交界にも足を運んでいるクリムゾンやシアン。そして四番目に座っている、紫色の髪をした十歳ほどの少年。この四名までがブラッケストの考える素質ある人材だった。
目の前で線を引かれて区切られた、五番目に座るカナリアは下唇を噛んだ。もちろんそれ以外の面々も悔しそうな表情を浮かべている。
「私が何のためにこれだけ多くの子を成したと思う? 役に立たないのなら私の子ではない。あと半年やろう。私に証明してみせろ。競争の舞台に立つ資格のある人材であることを示せ。そうすれば、ネバードーン財団の当主跡継ぎ候補……【色付きの子供たち】に入れてやろう」
まだチャンスがある。少年少女の間で期待と緊張感が走る。
「そして究極の一人となるのだ。私の代わりとなれる万能の存在。私はそれを強く望んでいる。精々頑張るんだな」
それだけ言い残してブラッケストは演説台を離れた。セバスが後ろに続く。彼が部屋を出るまで誰も一言も発さなかった。
カナリアは自分とシアンの間に座る少年を睨みつける。紫色の髪をしていて、見るからにお坊ちゃん。ブラッケストの子の時点で経済的には全員ボンボンではあるのだが、とりわけこの少年は『良い子ちゃん』だった。
カナリアはこの少年のことが昔から気に入らなかった。ネバードーン家の一員であることに少しの誇りも気品も感じなかったからだ。
部屋を出たブラッケストは満足げに口角を上げていた。城の廊下を歩く速後が無意識に上がっていることからもその精神状態は窺い知れる。
「セバス、ワインを開けてくれ」
「どのボトルにいたしましょう。年代や産地に拘ったいかなるワインも……」
「一九九七年産だ」
「し、しかし、たった七年しか熟成させていないワインでは味は保証できかねますが」
「構わん。お前ならすぐに用意できるだろう」
セバスは執事である。主の言葉は絶対だ。セバスの青い両眼が淡く光る。白い手袋をした手を手刀の形にし空間を切り刻むと黒い長方形が空間に生じ、そこに手を突っ込むと一本のワインボトルを引っ張り出した。
人が住めず経済活動も行われないこの場所で彼らが食事といった人としての普通の営みを送れているのは、全てセバスの能力のおかげだった。食材も飲料水も自由に送受できる。
一九九七年は、アルカンシエル・ネバードーンが生まれた年である。
そのアルカンシエルが城を追放され氷河へと落とされたのは、それからほんの数日後のことだった。
〇△〇△〇
一面に広がる分厚く白い雲海を窓越しに見下ろしてスピカは赤ワインを口に含む。いやにいつもより酸味が強く感じるのは気圧のせいだろうか。
視線をラウンドソファへにいるナツキへと向けてみる。イギリスでシアン・ネバードーンらと戦い、その後紆余曲折を経て海水浴をして。疲れたナツキは子猫のように身体を丸めて寝息を立てていた。
ここはスピカのプライベートジェット。通常の旅客機のような座席はなく、ワインセラーや大量のグラスにカウンター、それから椅子とテーブルとソファが置かれている様はさながらクラブか何かのようだ。カーペットの薄暗い照明が洒脱な印象を与える。
ナツキが寝てしまったのは照明のせいかもしれないわね。スピカは窓際から立ち上がると手元のワイングラスを揺らしながらソファの方へと移動し腰かけて彼の頭を撫で、そんなことを考えた。深紅の水面が不自然な軌道を描く。ワインがグラスからこぼれないのは無意識に流体操作の能力を発動しているからだ。
スピカはワイングラスをテーブルに置くと寝ているナツキを押し倒すような姿勢でソファに両手をついた。プラチナにダイヤモンドを散りばめたようなスピカのサラサラと美しい白銀の髪がふぁさりと垂れる。顔をぐっと近づけて唇と唇が触れ合うギリギリにまで接近する。その髪に隠れた彼女の表情は決して明るいものではなかった。
目を閉じる。海水浴のときにシアンに相談したことを思い出していた。高宮薫に敗北したこと。その後もナツキの戦闘についていけずほとんど役に立てなかったこと。
ああ、自分には彼のそばにいる資格はない。
不愉快なまでに鈍重な思考が胸を蝕む。不愉快なのは図星の証拠であると自分自身よくわかっているのだ。それが余計に腹立たしい。この気持ちのやりどころをどうしたものかと手持無沙汰にさえなってしまう。
最もシンプルに表現するならば、スピカは田中ナツキを──黄昏暁を愛している。
目を開いて、押し倒した姿勢のままナツキを見下ろす。普段はどこまでも仰々しく大げさな態度の中二なナツキも、寝ているときはどこにでもいる普通の中学二年生の少年だ。どこかあどけなく、精悍な男らしさと繊細な少年らしさが共存している。
この場で彼に気が付かれずに唇を交わすことは簡単だろう。いや、意識のないこのタイミングならばその先だってできてしまう。スピカの流体を操る能力でナツキの体内水圧を操り、軽度な脳麻痺状態を作れば完全犯罪の完成だ。
でも、自分で自分を許せない。彼の隣に立って戦えるほど強くはなく、彼に守られなければならいほど弱いわけでもない。
なにより。
「そんなのって、美しくないじゃない」
正々堂々と彼に真正面から向き合ってもらいたい。こんな風に陰でコソコソと彼に性的なことをして満たされるほど自分は小さな器の女ではない。
そのためにはもっと強くならねばならない。空川夕華のようにナツキを見守り続けた女性には及ばないだろう。でもナツキに背中を預けてもらえる『特別なたった一人』にならばなれるはずだ。
「タソガレ・アカツキ。私はあなたの全てがほしい。信頼も、親愛も、そして深愛も! 私はもっと強くなる。私はあなたの隣に立つべくして立つの。常に前を進む……力への意志。私はそんな美しい輝きを心の最奥から放てる、あなたに相応しい女になってみせる」
いかなるルサンチマンも自己超克し力への意志の燃料と化していく。スピカはテーブルに置いていたワインの残りを一気に飲み干し、ブランケットを寝ているナツキにかけ、タブレットを開いた。
国連の異能力者組織である星詠機関……その幹部である二十一天にのみ支給される特殊なタブレットだ。連絡や通信はもちろん能力犯罪の映像を共有したり報告書を書くための文書作成機能があったりと仕事に欠かせない。
タブレットの画面にキーボードが表示され空中にはホログラムディスプレイが浮かび上がる。スピカは細く美しい雪化粧をした小枝のような指で、まるでピアノの旋律を奏でるかのように素早くテンポよくキーボードを叩く。
それはメールだった。宛先はできればあまり話したくない相手。なぜか自分にやたらと構ってくる、世界の能力者秩序の頂点。星詠機関のリーダーであるシリウスへのメールである。
後半に関しては時系列的に言うと六章と八章の間になります。