第32話 進歩には二つの形がある
「進歩には二つの形がある。アルタイルはそれが何かわかるかい?」
「ん……そうねえ、生物学的な進化とか、科学の発展とか、身体や技能の成長とかかしら。二つには絞れないわねえ」
高級ホテルの高層階。窓の前でバスローブを纏ったシリウスは細長いシャンパングラスを揺らす。それを高く上げ、シャンパン越しに夜空を見つめていた。星々がシャンパンの炭酸とともに弾けて消えていく。
アルタイルはベッドでタオルケットにくるまっていた。美しい金髪はやや湿っていて、整えられておらず振り乱されている。タオルケットに隠れていない肩や腕から彼女が裸であることが窺える。
「そういう具体的で実践的な答えしか見つけられないのはきみの美徳であり欠点だね」
シリウスはシャンパンを一口味わって、続けた。
「人類の進歩の歴史は二つある。第一に争い、第二に平和だ。まず前者の争い……つまり戦争は我々人類の科学を大いに発展させた。あらゆる国家が敵国を倒すために膨大な予算をつぎ込むからね。それも強烈な成果主義という体制下でだ」
「インターネットとかGPSとかも軍事利用が最初だものねえ。今じゃすっかり動画の視聴で一日が終わったりドライブ中に地図を広げる習慣がなくなったり、これじゃあ進歩しているのか退化しているのかわからないわ」
「はは、アルタイルは着眼点が面白いね」
そう言ってベッドのアルタイルへと振り返るシリウス。彼が浮かべた微笑にアルタイルは生娘のように頬を染めてタオルケットの中に顔を隠した。
「後者の平和。これはただ享受するだけではいけないんだ。今アルタイルが言ったように、人類はどこまでも堕落していくからね。だからそうならないように徹底的な監視と管理が必要になる。効率的な知識の供給、或いは締め付け、これらを誰かが適切にもたらすことで、人類は種全体として最も正しく上のステージに進める。そのとき戦争なんてものは本質的にノイズにしかならない。最高効率の前では戦争による自然淘汰と切磋琢磨の進歩はあまりに遅すぎるんだ」
アルタイルはまだじんじんと熱い下半身を気遣いながらゆっくりとベッドから出た。そしてモデル顔負けのスタイルを惜しげもなく晒す。
蛇に唆されて禁断の果実を口にしたイブは神の怒りに触れ、そのとき人類は初めて恥という感性を得、アダムとイヴはイチジクの葉で局部を隠したと言われている。
ある意味で『人間らしさ』の象徴でもある被服。アルタイルはそれらを全て脱ぎ捨て、最も原始的な美を振りまきながらシリウスの下へと歩み寄った。
「ええ。だからあたしとシリウス様の二人でそういう世界を作りましょぉ?」
シリウスを背後から抱きしめ、彼の耳元で猫のように甘い声で囁く。アルタイルはその美しい指でシリウスの胸元にぐるぐると円を描いている。
「……ああ。そうだね。そのために私たち星詠機関はこの星の平和と秩序を守るのだから」
アルタイルが送る秋波などまったく意に介さず、シリウスはシャンパンを一気に飲み干した。
〇△〇△〇
グリーナー・ネバードーンが日本に来たことに深い理由はない。兄弟たちから逃れる中でこの土地に落ち着いたに過ぎないのだ。
自身の子供たちを争わせることでネバードーン家の次期当主を決めると現当主のブラッケスト・ネバードーンが発表して十年。それまで研究ばかりしていたグリーナーも、『次期当主になる可能性がある』というただ一点において異母兄弟たちから命を狙われることになった。
もしも以前からグリーナーが家から離れていたら、まだ後回しになったかもしれない。
しかし彼の思想はただ一つ。敬愛する父、ブラッケストの役に立つことだった。科学しかできない彼にとってその道を究めることは父への貢献のプロセスでしかない。
そしてこれが災いした。兄弟たちからは、当主の座を狙っているように思えたのだ。
グリーナーは口下手だった。権謀術数を巡らせるほどの腹芸などできるわけもない。だから何も言わず無様にも家を出た。……皮肉にも、父であるブラッケストには研究に目が眩んで出奔したと思われてしまっているのだが。
いいや、その勘違いがなくともブラッケストはグリーナーのことを馬鹿息子だと断じたであろう。
ブラッケストの思想はシンプルだった。『争いによって人は進歩する』という。それ故に自身の子供たちを争わせた。であれば、その争いというゲームのテーブルから降りたグリーナーはブラッケストにとって愚か者以外の何者でもない。
だがグリーナーには研究しかない。ただ愚直に父の力になることをするだけなのだ。
口癖のようにブラッケストは言っていた。争いこそが進歩だと。だからグリーナーは能力者を増やすという研究をここ日本で始めた。能力者がこの世界で絶大な力を持っていることは、兄弟たちに襲われることでいやというほど痛感したのだ。そんな兄弟たちと同じ二等級の強さをもつ能力者を生み出すことができれば、父は他の誰より自分を評価し愛してくれるのではないか。
「我は……我の研究は完成したのだ……やっと、やっとだ! ここまで来るのに十年かかった……我の全てはあのお方……父上のために…………!!」
こんなことをしてもブラッケストのグリーナーへの評価は覆らない。
それを知らずに、しかしグリーナーは研究という名の暴走を続ける。なぜなら彼にはそれしかないのだから。
〇△〇△〇
研究が完成した今に至ってはもはやこそこそと隠れている必要もない。もうあの地下室に戻ることはないだろう。かと言って目立つ行動は避けたかった。
いくら研究一筋のグリーナーと言えど、この日本という土地で勝手をしていることがバレたら日本のトップである聖皇をはじめその配下たちに狙われることくらはわかっているのだ。もちろん、だからこそ兄弟たちから逃れるには最適な土地でもあるのだが。
『成果』を聖皇からも兄弟たちからも見つからないように父のところへ届けること、それが今のグリーナーの至上命題だ。
実のところ、グリーナーは数十人のブラッケストの子供たちの中でも弱いほうではない。半分に区切ったとき間違いなく上半分の強者側に分類される。
しかしグリーナーより弱い兄弟たちは、グリーナーより強い兄弟たちにほとんどが狩り尽くされた。生存する子供たちの中では相対的にグリーナーは弱い。故に決して見つかるわけにはいかない。目をつけられて勝ちを運よく拾えるほど甘くはないことをグリーナーは知っていた。
ある廃ビルのワンフロア。割れた窓ガラスが散り張り、壁のコンクリートは剥がれて内側の鉄筋を露出させている。足が中途半端なところで折れてガタつくテーブルの上にグリーナーは地図や路線図を何枚も広げていた。
わざわざ地下室から出て移動したのは、このビルからなら街を一望できるからだ。本来であれば商業施設でも入っていたであろうビル。窓こそ割れてはいるが、その広々とした窓枠からはきっと眺めの良いレストランにでも利用される予定だったのだろうということが察せられる。
街を出て、国を出て、『成果』を連れて生家に帰る。そのための方策を練り上げる。
グリーナーの優れた頭脳、そしてその頭脳と最も相性の良い彼の能力は、街の周辺地域に限らずこの日本という国のあらゆる交通インフラのシステムを解析し理解していった。
しかしそれは答えを導出することとイコールではない。彼は全知を解析することはできても全知に対して全能ではないのだから。
何か良いアイデアがないものかと苦心しているグリーナーに、『成果』が話しかけた。
「そんなに弱気でいいの?」
「なんだと?」
弱気と評されたグリーナーは骸骨のように痩せこけ不自然にくぼんだ両目で『成果』を睨んだ。
「あなたがボクという成果を本当にお父さんにアピールしたいなら、誰が相手でもボクは負けてはならないはずだよ。でないとあなたの研究は無価値ということになってしまうんだから」
それもそうだ、という意味を込めてグリーナーは喉を鳴らす。
「ボクをあなたのお父さんに見せるんじゃない。あなたのお父さんの方から目を向けてもらうんだ。そうなって初めてあなたはあなたのお父さんの視線を……寵愛を独占できると言えるんじゃないの?」
父の独占という言葉がグリーナーに響いた。そして、それを後押しするように『成果』はボクのアイデアはボクを生み出したあなたのアイデアだ、と嘯いた。こうして『成果』の案を受容することへの抵抗が完全に消失したグリーナーは無言で頷き彼の言葉を聞くことにした。
「ボクがあえて強い人と戦うんだ。それもとびっきりに派手にね。あなたのお父さんがもう注目せざるを得ないってくらいにさ」
『成果』はそれからも自身の考えをグリーナーに伝えていった。そのたび、グリーナーは納得するように頷く。それもそうだ。グリーナーにとって『成果』の発言を評価し肯定することはそれを生み出した自分自身を評価し肯定することにほかならないのだから。
(ボクにお父さんはいないからこの人の気持ちは全然わからないなあ。でも、登場人物の心情を考えるのは結構得意なんだよね。国語みたいにさ)
『成果』はその場にいない一人の少年を思い浮かべて微笑んだ。
(だって、ボクにそれを教えてくれたのは黄昏くん、きみなんだから……)
突然寒くなってきましたね。皆さんもお体にお気を付けください。
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