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第316話 手が届かないからこその

 その日、讐弥はお忍びで旅行に来ていた。今回の目的地はトリコロールの翻る国、フランス。食に芸術にと目を引くものに事欠かない観光大国において讐弥の興味はまったく別に向いていた。


 洋服を着た西洋人ばかりのシャンゼリゼ通りで和服の東洋人がご機嫌の笑みを浮かべている光景はあまりに異質だが、当の讐弥は気にする素振りも見せていなかった。軽快なステップで目的地に到着した讐弥は珍しく上ずった声で心からの歓びを口にした。



「念願のパリ天文台に来られるなんて思うとらんかったわ。ええなあ、ほんまええなあ!」



 讐弥の興味はたった一つ。そう、天体である。何より星を観るのが好きな讐弥は仕事も放り投げてたびたび外国に旅行する。ナツキが現れるまでは名実ともに大日本皇国最強の男だけあって、讐弥は国内での能力犯罪者やネバードーン財団の能力者と戦うことも多い。二十八宿としての事務仕事もある。それらを最低限こなして強引にオフを作るのだ。

 聖皇も気がついてはいるものの讐弥の強さを知るからこそ、いざというときに備えて平時の息抜きは大目に見ている。要は黙認だ。



「ユルバン・ルヴェリエや! えらい老けとるわぁ」



 海王星を発見したことで知られる著名な天文学者の彫像に目を輝かせる。


 パリ天文台は単なる無機質な観測施設ではない。パリという小洒落た街の中心地にあり、天文学や数学を教える教育機関の役割も担っている。白いレンガ造りのゴシック様式建築はシンプルながらも細かなアーチ状の装飾やなめらかなカーブを描くドームなど重厚かつ繊細な印象を与え、ニッチな観光施設にもなっている。 


 ニッチな、というのも、パリには他にたくさん観光する場所があるためわざわざパリ天文台に訪れるのは讐弥のような熱心な星好きくらいのものなのだ。


 ゆえに。讐弥は自分以外にも天文台でフラフラしている少女を見つけるのにそう時間はかからなかった。



「知っとる? ここの初代天文台長のカッシーニが土星の輪っか見つけたんよ」



 少女の真横に立ち、警戒されないギリギリの距離感を保ちながら流暢なフランス語でそう言った。その少女は讐弥より頭一つ二つ背が低く、美しい金髪のツインテールで年齢は中学生くらい。その割に胸は大きく讐弥の視線を否応なく引き寄せる。


 少女はチラリと視線を讐弥に向けると、彼が日本人であることに一目で気が付き、流暢な日本語でこう言った。



「知ってる。フランスの人ならみーんな知ってるよ。おにいさん、そういううんちくは嫌われるから女の子にはあんまりしない方がいいよ」


「はは、手厳しい。綺麗な女の子の前でカッコつけたくなるんは男の(さが)やねん。 ちゅうかきみ、日本語上手やね。これから僕とお茶でもせえへん? ほら、僕ここら辺詳しくないやん。旅は道連れ世は情けって言うやろ? カフェでグリーンティーの一杯や二杯」


「ナンパ?」


「ちゃうちゃう、お誘いや。お、さ、そ、い」



 ニコニコと讐弥は人当たりの良い表情と整った容姿に軽妙なトークも加えて少女の心の壁を取り払おうとにじり寄る。これが並大抵の女性であればあっけなく靡きカフェに相伴するどころかホテル直行ルートなのだが、小学生の頃から初恋の少年に一途なその金髪ツインテ巨乳少女──揚羽ノワールはむしろ讐弥を利用してやろうと心の中でほくそ笑んだ。



(……パパの会社が運営に出資してるからって無料入場券もらって、もったいないから仕方なく来たけど。日本人の、それも二等級の能力者と会えるなんてラッキ~……)



 ノワールは紫色の両眼を淡く光らせる。彼女の能力は他者への催眠、支配。自身に好意を持っているという条件が必要なものの、少なくともナンパしてきている以上は問題ないだろう。

 アメジストのような瞳で讐弥に上目遣いを送る。



「さあ、日本に戻って田中ナツキについて調査して。写真も撮ってきてくれると嬉しいなぁ。それでね、私はもう少ししたら日本に行くから。そのときは、私がナツキくんと二人きりで孤立するように……」



 そうしてノワールは今回の事件のあらましを讐弥に命じた。空港で授刀衛の能力者二名を殺す映像を用意し、ナツキに庇ってもらう自作自演。

 しかし、讐弥はノワールの能力発動をいち早く察知していた。能力者との戦闘経験が並外れている讐弥からすればそういった血生臭い世界を知らないノワールは無警戒すぎる。ノワールが何らかの能力を発動しようとしていることは間違いないので、本能に近い速度で讐弥も能力を使った。



「……海王星──大らかなるネプチューン」



 雄大な海にインクを一滴垂らしたところで海色はひとつも変化しない。海王星の権能は讐弥自身に干渉する能力を無効化する。それは偶然にも海王星を発見した学者の彫像の前で。


 結果としてこの場にあるすれ違いが生まれた。

 心宿讐弥への催眠に成功していると勘違いした揚羽ノワール。

 揚羽ノワールからよくわからない内容の命令をされた心宿讐弥。


 別に無視するのは簡単だった。田中ナツキとやらについて調べる必要もない。ノワールのお願いを聞いてやる義理もない。それどころかこちらを利用してきた悪女ではないか。能力の悪用なのだからこの場で自分に殺されたって仕方ない。


 それでも。

 この儚くも美しい刹那的な少女の願いを叶えてあげたくなった。讐弥は今まで多くの女性に軽口を叩き関係を持つこともあったが、このときの感情だけは今でもなおよく覚えている。


 恋だった。きっと、初恋。それまでの恋愛がただの肉欲なのだと理解した。讐弥はノワールに対してあまりに純度の高い恋心を抱いてしまっていた。頭から振り払うことはできず、どれだけ能力が強かろうが剣の腕が優れていようが知能が高かろうが避けることのできない直感的感情。

 

 だから讐弥は手伝った。ノワールのためにナツキの写真を盗撮して送ってやったし、日本に来た際には彼女を殺人犯ということででっちあげた。その後も英雄を使って彼女を追い詰め、ノワールとナツキの二人が孤立していくように裏から工作した。


 歪だと自分でも思う。

 初恋の相手の恋路を手伝うなんて普通じゃない。讐弥はノワールを本気に好きになったからこそノワールとナツキの恋愛を手伝ったのだ。



(僕にとってはノワールちゃんは星と一緒なんよ。ほら、夜空に浮かぶあの星々や。どんなイルミネーションも到底かなわへん、自然な美しさ。天文学者がどれだけ願っても決して手が届かない遠くにおる憧憬。僕ら星好きは……本当に綺麗だと思って恋した相手に手を伸ばして、そんでその手が空を切ることをわかっとる。それでいいと思っとる。それこそが正しい想いの形だと信じとる)



 物理学者は目の前の物理現象を解明する。化学者は実在の物質を反応させたり発見したりする。気象学者も地質学者も数学者も医学者も、皆、手の届く世界で科学する。

 でも天文学者だけは違う。コペルニクスもガリレオ・ガリレイもレオナルド・ダ・ヴィンチも、人類史にその名を刻む希代の天才たちですら星には絶対に届かない。レンズを通して観察することでしか触れ合えない。


 讐弥にとって揚羽ノワールという少女は、美しく輝く綺羅星だったのだ。



〇△〇△〇



 重たい瞼を開ける。背中の冷たさから地面に仰向けになっていることが知覚できる。その脳の動きが呼び水となって意識が徐々に覚醒する。腕をついて起き上がろうとすると全身に激痛が走るので、再び仰向けに逆戻り。満天の夜空で煌めく星々を静かに見上げることしか今はできない。



「僕の、負けや。完敗。さすが現日本最強の男やね」


「ククッ、それはどうかな。トドメを差したのは俺であって俺じゃない」


「それは……そうや! 僕が作った光の繭をどうやって!?」



 クロアゲハの羽根はためかせるナツキに裏拳を打ち込まれて墜落した讐弥は神田明神の石畳の上に大の字になって寝ころび、辛うじて痛みのない首だけ動かして視線を向け、本殿にもたれかかっているナツキに尋ねた。



「あー……まあそうだな。『夢を現に変える能力』は元々あいつのものだが、今回は俺も少し手伝ったんだ。仕組みも一応俺が作った。黒い蝶の羽根はマイクロブラックホールみたいなもんだよ。それを薄く引き伸ばした。知ってるだろう? ブラックホールは光すらも脱出できない」


「せや、あのとき黒い羽根は青く光っとった。チェレンコフ光放射やな……」


「ああ。光が光速より遅くなったとき生じたズレの分だけ波長が青くなって放射される。ま、所詮それは副産物だけどな」



 もう一度夜空を見上げて、肺いっぱいに夜の冷たい空気を吸い込み、空に向かって吐き出す。完敗だ。やれることは全てやった。その結果として負けた。後悔はない。

 爽やかな表情になった讐弥に対してナツキも声をかけた。



「俺からも一個質問してもいいか?」


「なんや? 僕に答えられることならなんなりと。勝者の特権はどんどん使ぃ」


「ククッ、いいや大したことじゃない。ただ、まだお前の『私怨』を聞いていなかったなと思っただけだ」



 ナツキは己の精神世界に入ったとき幼い自分に讐弥と戦う理由、『私怨』の内容を話した。しかし讐弥の方がどんな私怨でナツキと戦っていたのかはわからない。

 日本最強の称号を奪われた腹いせ? いいや、讐弥がそんな小さなことでケンカを売るような小物でないことくらいナツキだって理解している。男は一度拳を交えれば言葉以上に相手をよく知る生き物なのだ。



「ノワールちゃんが撃たないで言っとったのに、僕、きみに金星の光線ぶっ放したやろ?」


「ああ、夕華さんが俺たちを庇ってくれたときのアレか」



 一応あの時点では主人格は黄昏暁ではなく幼い方のナツキだったのだが、精神世界の内側から見ていた。だから覚えてはいる。



「ほんまはね、僕はノワールちゃんの恋路を応援するつもりやったんよ。現に催眠なんてかかっとらんかったけど手伝っとったやろ? でもあんとき」



 あのときノワールはナツキを抱き締めこう言った。『ナツキくんには私さえいればいいし、私はナツキくんさえいればいい』と。他にもナツキへの愛を喚き散らし続けていた。



「僕はね、これでも二十年くらいは生きとるんやけど、実は最近になって恋ってもんを知ったんよ。いやぁ大人になっても初めてだらけやで。この歳になってもいろんな自分の心と出会うんやから人生ってけったいや」



 そう、恋は星と一緒だ。天文学者が手の届かない星を追うように、自分も手の届かないノワールを追い続ける。たとえ彼女が誰かのものになるとしても、今この瞬間に遠くから彼女の美しい煌めきを見ることができればそれで充分。

 そう思っていたはずなのに。



「嫉妬。それだけや。アホらしいやろ?」


「いいや。そんなことはない」



 あのとき自分はナツキに嫉妬していた。讐弥はそんな自分の心の揺れ動きに我が事ながら驚いていた。恋をした少女が自分以外の男への愛を謳い、抱き合っている。その光景がたまらなく悔しかったのだ。


 心宿讐弥と幼い田中ナツキ。終わってみれば、つまるところ揚羽ノワールに初恋を捧げた二人の男の意地の張り合いだったというわけだ。


 アホらしいと自嘲する讐弥をナツキは穏やかに笑って否定した。ナツキもまた夕華という恋人がいるから気持ちはわかる。惚れた女の前でカッコつけられないやつは男ではない。



「さて、こんな風に心宿讐弥は言っているが。お前は当事者としてどう思う? 揚羽ノワール」



 ナツキが声をかけると、狛犬の台座の陰からノワールが顔を出す。

「僕の女性の好みはおっぱいが大きくて長い金髪の娘やからね」第300話の心宿讐弥のセリフ。

パリ天文台や彫像の話は本当です。

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