第308話 ギリシア同士
神田明神の参道を少年が疾駆した。赤い右眼がギラギラと光を灯す。走りざま両の手に黒い刀がそれぞれ出現したのをがっちりと握る。
風を切り一目散に走るナツキを見て讐弥は口角を上げた。あまりに直進的だ。捻りがない。これが本当に噂に聞く黄昏暁なのか? と疑念を抱いたほどだ。讐弥はナツキになど目もくれず先ほど土星の力で岩山を生み出したときに散らばった小さな瓦礫の位置と数を確認した。
「天王星──厳かなるウーラヌス」
ナツキの背後にある石礫が輪郭をなぞるように青い光で包まれ、浮遊する。ある瓦礫は高く。ある瓦礫は足元ほどの高さで。そうしてまばらに浮き上がった瓦礫は讐弥の意思に従って加速しナツキに襲い掛かる。
「天王星って洒落てると思わん? 満天の星空にあって天の王の名を冠されとるんやから。ウーラヌスってギリシアやと天そのものの具現なんよ。そんで与えられた称号は『星ちりばめたる』、王の権能でもって自由に星を散らすんや」
すなわち、物体を支配下に置く力。サイコキネシスである。浮遊する瓦礫の破片は讐弥の支配下に置かれナツキの背を、脳天を、足を狙って一直線に加速した。ナツキは視線だけかすかに後ろへ向けるとトンと地を蹴って軽く跳んだ。
ナツキがもつ『夢を現に変える能力』はどんな夢想すらも現実にしてみせる。ゆえに願え。強く願え。ナツキはあの晩に黄昏暁が使ったのと同じ力を再現する。それは皮肉にも讐弥と同じくギリシア神話由来の夢。
「イカロスの翼!」
肩甲骨のあたりから白くドロドロとした液体が吹き出し瞬時に空気によって冷却され一対の翼の形を成す。フワっと身体が地面から離れて浮遊感に襲われる。そのまま後ろ向きに宙返りし、空中で逆立ちの姿勢になることで射出された瓦礫を躱す。さらに躱しきれない分は両手の黒刀二刀流で弾き返した。
「火星──麗らかなるマーズ……土星──慥かなるサターン!」
大地のいたるところに穴が穿たれ、そこら中から紫炎の火柱が立ち昇った。数多の噴火。奈落の底の地獄のごとき景色に冷や汗をかく。滴る汗は高温に熱された大地に落ちた瞬間に蒸発した。火の粉が皮膚を焼きナツキの服を焦がす。
地面を滑空するように高速低空飛行でいくつもの火柱を華麗に避けていく。火柱と火柱との間を縫うように飛び回り、讐弥へと一歩また一歩へと近づいていく。
「水星──清かなるマーキュリー」
讐弥がナツキに手をかざすと、讐弥の両側の地面から水でできた触手のような鞭が二本生えた。数メートルまで伸びた水鞭はナツキを叩き潰そうと助走をつけて振るわれる。ナツキは滑空したまま身を捻らせて一本目を回避、二本目は両手の黒刀で斬り両断する。讐弥まであとほんのわずかだ。
「ノワールはただ僕と平和に暮らしたいだけなんだ! だから! 彼女を脅かす全てを僕がこの手で打ち払う!」
誰もいない街に響く少年の咆哮。讐弥との距離が三メートル、二メートル、一メートルと徐々に接近し、二人の視線がほぼゼロ距離で交差する。ナツキの両手に握られた二刀が夕暮れの薄墨に鈍く冷たい風を吹かして振るわれる。
しかし。ナツキの願いは届かない。ガクンと重力に引かれて地面に落下し顎を強く打ち付ける。翼がなくなっていたのだ。
正確には翼が消え去ったというわけではない。ナツキが用いたイカロスの翼は蝋でできている。讐弥が生み出した大量の火柱が周囲の気温を爆発的に上昇させることで翼は融解を始め、さらにドロドロに溶けているところに水の鞭が水分を与えたことで完全に固形を維持する強度を奪い去った。
初めから火柱も水鞭もナツキ本人を狙っていなかったのだ。回避されることも斬られることも織り込み済み。全てが讐弥の掌の上。
讐弥は刀を抜き、地を這うナツキの顔面へと切っ先を向けた。
「よう掻い潜ってここまで来たね。大したもんや。ま、僕の方が一枚上手やったみたいやけど」
そうして自由に飛ぶ翼を失ったナツキは讐弥の刀によって命を奪われる。そのギリギリの瞬間までナツキは希望を失っていなかった。窮地こそ最大の好機。ナツキの赤い右眼は以前まばゆい。
「ハルニレの枝。ヒュプノスは枝を使って人間を眠らせる」
それは以前、ナツキを押し倒してきたノワールに用いた眠りの力。眠りを司る神ヒュプノスは枝をかざすことで人間を眠らせたという。
地を這うナツキは右手に握った細く脆い枝を讐弥の足に軽く当てた。目には目を。歯には歯を。ギリシア神話にはギリシア神話を。惑星と縁のあるギリシア神話の力を行使する讐弥に対して同じ神話体系で反撃する。自分がトドメを差されるこの瞬間こそ最も彼に近づくことのできる好機なのだ。
殺害まではする気はない。讐弥とて仕事として揚羽ノワールを追っていたのだろう。だから無闇に命を奪うことはしない。その代わり、今はここで眠っておいてもらおう。
よくやった。本当に自分はよくやった、と強くそう思う。黄昏暁のように優れた身体能力も優れた知能もない。それでもこうして裏の裏をかき最後には逆転できた。案外、自分もやるじゃあないか。
ナツキはほくそ笑む。それなのに。
讐弥はナツキを見下ろしたまま。刀の切っ先を落とす動作が止まる様子はない。
「海王星──大らかなるネプチューン」
大海原に一滴のインクを落としたとして。海の色が変わるなんてことがあり得るか? 海の雄大さに対して人はあまりに矮小だ。海王星はそんな青き海の絶対的な強さを司る。
讐弥は自身を大海原と定義した。ナツキの能力が生み出したハルニレの枝などいわばインク一滴にすぎない。海色を変化させるには到底届かぬ悪あがき。
すなわち、自身への能力の干渉を無効化する力。それが海王星の権能である。