第306話 神田明神での願い事
「学校サボってずっと京都にいるのってよくないよね……」
悪いことをしているみたいで気が引ける。結城英雄は根が真面目な小心者なので二学期が始まって二週間も登校できていないくらいのことで自分はまるで不良だと感じていた。
そんな英雄の姿は心宿家の屋敷の前にあった。正面から入るのではない。塀を乗り越えて無断侵入するのだ。
小さな体躯を使ってひょいと飛び越える。家の中にいる人たちにバレてしまわないだろうか。そんなことを心配するなんて泥棒みたいだ、やっぱりは自分は不良なのだ。そんな自己嫌悪は首を横に振って振り払う。
英雄がどうしてこんな犯罪じみたことをしているのか。それは讐弥の意図を探るためだ。揚羽ノワールを殺せという命令はやはりおかしい。彼はいきなりそんなことを命じるような無情な男ではない。
何か事情があるはずなのだ。それも自分には隠している何か重要な事情が。用事があると言って今日は讐弥は平安京内にいない。今こそ絶好のチャンス。
いつも讐弥が団子を食べながら月見をしている庭園から入り、縁側から屋内へと入る。襖で仕切られた迷路のような和室をいくつも抜けながら讐弥への書斎を目指す。
時折、誰かの足音や喋り声が聞こえてくる。屋敷にいる使用人だとか授刀衛の部下だとか。電気もない暗い和室の影に身を潜めて彼らが通り過ぎるのを待つ。
「何かヒントがあるはずなんだ。資料や報告書でもあれば……」
足音が鳴らないように畳の上をすり足で進む。暗くて周囲がまったく見えないときは能力を使い電気を小さく手元で弾けさせて光源の代わりにした。
そうして迷うこと四半刻。
英雄は覚えのある声を襖の向こう側から聞いた。
ほんのわずかに襖を開き隙間から片目だけで中を覗く。
「そんな……!」
〇△〇△〇
「うっわ酒くさ!」
ナツキの家の玄関にテレポートしてきたナナがリビングに入った第一声がそれだった。もう陽が落ちてきて夕方になろうかというのに部屋の電気もつけず、床にはビールの空き缶が転がっている。
ナナの視線の先にはダイニングテーブルで突っ伏して虚ろな目をしている夕華がいた。手には飲みかけのビールが握られていて、床だけでなくテーブルも酷い惨状だった。
時折ヒクッと小さくしゃっくりをしているのは酔っているからだけではない。その目元は真っ赤に腫れ端正で凛とした顔は見る影もなかった。
「ちょっと夕華、アンタ酒弱いのになんでこんなに飲んでるのさ」
「何か用? それとも恋人に棄てられた二四歳の喪女を笑いに来たの?」
テーブルの上には砕けた簪の破片がある。ナナがその破片の集合体を元は簪だと認識できたのは接着剤で立体パズルのように組み合わされ形を取り戻しつつあったからだ。
仕事にも行かず朝から酒に溺れ、嫌な記憶を酔って忘れようとしている。ナツキに拒絶されたこと。この年齢で初めて恋愛をし初めて失恋したこと。全てが夕華にとっては自分で処理しきることのできない、途方もない絶望だった。
「……まあ大まかに何があったか想像つくよ。アタシはアタシなりにアイツのことは見てたから」
ナツキを、というよりナツキと一緒にいる揚羽ノワールを星詠機関日本支部は監視していた。授刀衛からは手出し無用とのことだったが、現状揚羽ノワールは京都ではなく東日本にいるわけで。当然放置しておくわけにもいかない。
二人が同居していることは把握している。学校でイチャついていることも知っている。そして、唯一。ナナだけはある重要なことも知っている。
「夕華がもしもアイツにフラれたと思って落ち込んでいるんだとしたら、それは違うよ」
「……」
やつれた顔を上げた夕華は何を言っているのだとナナを見上げた。ナナはこれを話していいものか逡巡し思案する。
ナツキの姉のハルカ。ハルカとナナと夕華の三人は長年の親友だ。そしてナナだけがハルカから聞かされたナツキの真実。すなわち、人格が幼少期に分けられたこと。
(たぶん今のアイツは黄昏暁じゃあない。元々の田中ナツキ。アタシらがロシアに乗り込んで夕華を助けたときにアイツは夕華に告白した。でも今のアイツは告白したアイツじゃないんだ)
別にハルカに口止めされていたわけではない。ただ夕華の心を傷つけるかもしれないとは思っていた。つい数か月前に出会った自分と違って夕華はナツキのことを赤ちゃんの頃から知っている。だからこそ彼の人生に切れ目があることを知って平常心を保っていられるだろうか。
でもそんなことを言っている場合ではない。このままでは夕華は立ち直れないままだ。
「夕華、落ち着いて聞いてほしいんだ。アイツにはね、実は……」
〇△〇△〇
ナナがナツキの家にテレポートし夕華と会っていたのと同時刻。星詠機関日本支部は大勢の人間に取り囲まれていた。
星詠機関の本部や各支部は基本的にどこも高層ビルになっている。日本支部も例外ではない。近くには住宅街やスーパーのような背の低い建物しかないというのに明らかに浮いている超巨大ビル。それが日本支部なのだ。
最上階の窓から地面を見下ろす日本支部副支部長の片割れ、牛宿充は眼下の異様な光景に眉をひそめた。
「なんですかあれ。いつからゾンビ映画の世界に?」
あくまで比喩。しかしこの場に他の者がいたとしてもゾンビ映画と形容したくなる心情を理解しただろう。虚ろな目をしゆったりとした足取りで、日本支部のビルの四方を取り囲んでいる。そしてビルに両手をつき押したり叩いたり。
そこに意思は見られない。プログラミングされているかのような冗長な動きなのだ。ゆえにゾンビ。生気のある人間とは到底思えない。
牛宿は銀色の眼鏡を指で押し上げ髪をかき上げながら日本支部のメンバーたちに内線電話をかけた。状況報告の催促だ。
「おいあれはなんだ。一体全体どうなっている。敵対能力者か?」
そうでもなければわざわざこんな何をしているのか一般人にはよくわからないビルを包囲するなんてあり得ない。星詠機関という世界を股にかかける異能力者組織について知っている者が画策したと考えるのが自然だ。
一階で受付兼セキュリティをしている女性能力者は電話口で叫ぶように焦った声を荒げた。
『そ、それが、さっぱりわからないんですよ! 相手は人数が多いだけで無能力者だし、武器も何もない、動きの緩慢なただの一般人なんです! ……きゃぁッ!?』
悲鳴の直後、物音を挟んで今度は男の声が聞こえてきた。受話器越しにズガガガガガガとガトリングが火を吹き高速回転しているのがわかる。
『あーもしもし。こちら夏馬誠司だ。相手は無能力者。数は不明。目測ざっと数百人か。ビルを取り囲んでいて、一階のエントランスホールから侵入を試みているようだ』
「さっきからガトリングの音が聞こえてくるのだが……?」
『ああ、心配するな。実弾ではない。イノシシやシカのような小動物に使う麻酔銃だ。つまりだな、相手は丸腰の無能力者だ。ここのセキュリティは戦闘用の能力を持った能力者ゆえ、おそらく加減できずに傷つけ過ぎてしまう。ここは俺が足止めをする。だから北斗ナナに連絡をしてくれ』
「彼女に? それはまたどうして」
『目は虚ろで動きも緩慢。だがしかし、呪言のように呟き続けているんだ。北斗ナナを殺す、北斗ナナを殺す、北斗ナナを殺す、とな』
牛宿充は内線電話を切り、ダイヤルを打ち直した。かける先は北斗ナナのスマートフォン。相手が能力者ではないのなら夏馬らに任せておけば問題はないだろう。だが、これだけの一般人を動員している黒幕に対しては手を打たなければならない。
そのヒントはどうやら北斗ナナが握っているらしい。どこをほっつき歩いているのか知らないが、彼女の能力ならすぐにこちらに戻って来られるはずだ。
牛宿はネクタイを緩めながら舌打ちをした。どうせ面倒ごとにはあのガキが関係しているに決まっている。根拠もないのにそう直感した牛宿は頭からナツキの顔を振り払うように首を横に振った。
〇△〇△〇
排除すべきお邪魔虫リスト。揚羽ノワールが最愛の田中ナツキの周囲をうろつく女性をピックアップした一覧表である。
空川夕華の名前の横には丸マーク。碓氷火織の名前の横には三角マーク。そして、北斗ナナの名前の横にも丸マーク。
「今日一日使って秋葉原中の人たちに指示を出したからうまく消してくれてるといいなぁ」
「ノワール、どうかした?」
「ううん。なんでもないよナツキくん」
「それにしても空いてて良かったね。もっと混むかと思ってた。ここ、アニメか何かで有名らしいから」
秋葉原から歩いて数分の場所にある神田明神で参拝をし終えた二人は本殿前の石段に腰をかけて夕陽を眺めていた。ナツキの腕を取り、胸を当て、頭を彼の肩に乗せる。
人がいないのは当然だ、とノワールだけは知っている。今日一日デートで秋葉原を歩き回り、コスプレまでして注目を集めた。そうして秋葉原中の全ての人間に能力を使って催眠をかけたのだから。北斗ナナを殺しに星詠機関日本支部へ行ってこい、という催眠を。
(他の人なんていらない。私にはナツキくんだけがいればいいもの。私を地獄の底から救ってくれた王子様。うふ、ナツキくん好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き)
「ノワールは何をお願いしたの?」
「え?」
考え事をしていたら隣でナツキに話しかけられた。
もうすぐ陽が落ちる。帰宅しないといけない。ナツキはそれが嫌だった。寂しかった。ノワールとのデートは本当に楽しかった。だから間をつなぐために他愛もない雑談を仕掛けるのだ。この時間がずっと続くようにと。
「そんなの決まってるよ。ナツキくんと二人でずーーっと幸せに暮らせますように。あと子宝にもたくさん恵まれますようにって」
「そ、そっか」
ノワールはさらに距離を詰め『しゅきぃ……しゅきぃ……』と譫言のように連呼し子猫みたくナツキの首元に頭をこすりつけた。金色と黒色の髪の配色は猫というより高貴なアムールタイガーを想起させるが、密着して甘える様はまさしく猫である。
しばらくナツキを堪能して満足したノワールは上目遣いで尋ねた。
「そういうナツキくんは?」
「え? えっと……笑わない?」
「笑わないよ」
「……ノワールが誰にも狙われない世界になりますようにって」
はにかみながらそう言ったナツキの姿にノワールはハッと息をのんだ。嬉しくて言葉が出ない。身体の内側が燃えるように熱くなる。ジュクジュクと愛のマグマが溢れてこそばゆい。
「それはできんひん相談やなぁ」
睦言を囁き合うナツキとノワールに、軽薄な男の声が浴びせかけられた。ピシャリと水を打ったような静寂が空間を支配する。
おそるおそる、おもむろに視線を上げる。神田明神、入口。鳥居と呼ぶにはあまりに豪奢絢爛な朱色の門の名は随神門。その瓦屋根に一人の男が立っている。細身の身体は、しかし雄大なオーラを伴っている。夕陽を逆光にして表情に暗い影が差す。
「だって二十八宿最強のこの僕が殺しに来たんやからね。火星──麗らかなるマーズ」
掌がノワールに向けられる。ヴァイオレットの火炎の渦が手の中心を起点にして溢れ出し空気を焼き尽くしながら放たれた。誰もいない秋葉原の空に業火の紫煙が燻る。