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第304話 私のぜんぶをあげる

 子供には相反する二つの性質がある。一つには残酷なまでに純朴な素直さ。捕まえた虫の羽根をもいでみたり、相手が気にしているコンプレックスをずかずかと指摘したり。しかしそこに悪意はないのだ。ただ目についたものへの好奇心で動く。

 二つ目に捻くれた生意気さ。本当は好きなのに意地悪をしたくなったり、クラスで何か失敗した子をつるし上げ指を差して笑ったり。


 ノワールは今となってはこうも思う。後者すら悪意ではないのだろう、と。子供は、特にこの二つの特徴に当てはまる者は、悪意をもてるほど知能が発達していない。子供というのは年齢だけでなく精神的な成熟具合についても言えることなのだ。



「や、やめてよぉ!」



 六年前。揚羽ノワール、八歳。小学二年生のときのことである。

 両親の仕事の都合で二年生の途中に転校してきた。そんな彼女は両親に買ってもらった可愛いピンク色のポーチ型ペンケースをクラスメイトの男子たちに取られて、教室でラグビーみたくパス回しされてしまっていた。


 返して、と追いかけるも彼女の短い手足では到底届かない。毎日運動している男子たちが手に持ったペンケースを高く上げ、何度もジャンプして腕を伸ばす。もちろん届かないし、届いたと思ったら別の男子にパスされてしまう。



「へへっ、イベリコ豚は遅ぇな!」


「ほうらこっちだよこっち! 豚もおだてりゃ木に登るってな!」



 もしも揚羽ノワールという少女が今のように美しい容貌をしていれば助ける者もいただろう。しかし、五年前の彼女には玉の如き美貌の片鱗すらもなかった。母親譲りの金髪や豊かな胸こそ今と変わらないが、背が低くでっぷりと太った体型はクラスメイトたちから笑い者にされるには充分すぎてしまった。


 ついたあだ名はイベリコ豚。太っているからブタで、ガイコクジンだからイベリコという理屈だ。

 ノワールはフランスと日本のハーフなのでスペインやポルトガルのあるイベリア半島は無関係。それでも幼稚な男子小学生たちにとっては詳しいことは知らないし、あだ名なんてその場のノリと勢いとわかりやすさで決まってしまう。


 男子が考えたあだ名はすぐにクラスメイトにも広まり、女子たちも裏でイベリコ豚と呼んでいた。おままごとではペットの子豚役ばかり。ブヒブヒとしか喋らせてもらえない。鬼ごっこに混ぜてもらえたと思ったら『豚インフルエンザが移る!』とばい菌扱いされた。


 この日も休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、男子の一人がバスケットボールのシュートを真似したフォームでペンケースはゴミ箱に放り投げられた。うまく入ったと男子同士でハイタッチして、女子たちはスポーツができてカッコいいとちやほやしている。


 重たい身体をのそのそ動かしてゴミ箱からペンケースを拾い上げた。埃で汚れてしまっているの手で払う。

 フランスから日本への転校は大変だろうけれど、少しでも早くノワールにお友達ができるように可愛らしいものを買ってあげよう。そう思ってノワールの母親が選んでプレゼントしてくれたものなのだ。


 ポロポロと涙が零れ落ちる。雫が何滴もペンケースに落ち、埃を洗い流す。日本に来てからクラスでイジメられ、元々の明るさは失われ根暗な性格になった。前髪は長くて目を隠すくらいあって、できるだけ誰とも目を合わせたくなかった。俯いたとき泣いているのがバレなくて都合がよかった。


 学校は楽しい? 家で両親に尋ねられたときだけは、無理に笑顔を作って強く頷くのだ。大好きな両親を不安にさせないために。

 ノワールは学校で一度も笑ったことがなかった。



〇△〇△〇



「おいイベリコ豚! 金髪は不良なんだぞ!」


「そうだそうだ! オレのママも言ってたぞ、コイツの家庭はムカつくって」



 その日もいつものようにイジメを受けていた。動物の飼育小屋や鯉の泳ぐ池、ちょっとした倉庫がある校舎裏で、髪を掴まれて引きずられていた。


 保護者たちは学校行事で見かけるノワールの母親に嫉妬しているだけだ。旦那は優秀な商社マンで本人はフランス人のモデル。カネも美しさも結婚相手も、全て素晴らしいものをもっているノワールの母親を妬んで悪口を言う。案外子供は家でのそういった愚痴を聞いているもので、平気で学校で口にしてしまう。


 二人組の男子に髪を引っ張られて痛い。涙が止まらない。大好きな母親やそんな母親から受け継いだ金色の髪を馬鹿にされて悔しくて、悲しくて、身体よりも心がズタズタにされたみたいで苦しいのだ。



「よく聞け、イベリコ豚! 今日はお前の汚い髪を綺麗にしてやる!」



 今日は何をされるのだろう。怖いという感情はもうあまりない。麻痺している。それに、両親が自分を想って買い与えてくれたものを隠されたり傷つけられたりするくらいなら、自分自身が痛い思いをする方が幾分かマシだった。


 男子の一人がノワールの髪を掴んだまま地面に這い蹲らせる。そしてそのまま引っ張って、頭を池の中に突っ込んだ。ノワールは顔を上げようにも頭を押さえられているので身動きが取れない。筋肉もない太った身体では暴れて抵抗することもできない。



「うひゃひゃひゃひゃブタの水飲みだ!」


「ちげぇよお前、鯉がいるから餌やりだろ?」


「たしかに!」



 ギャハハハハハという笑い声が聞こえる。でもノワールの耳には入ってこない。ゴボゴボゴボと池の汚い水が口いっぱいに広がり、喉を通って胃袋を泥まみれにする。息ができず脳がちかちかし眩暈もする。

 数秒水につけて、髪を引っ張り上げて息継ぎをさせ、また水に頭を押し込む。そしてまた引っ張り上げる。


 さすがに男子たちもずっと息ができない状態だと死んでしまうことはわかっているので適度に息はさせていた。しかしそれは余計にノワールの心を摩耗させる。やっと終わった、と安心したらまた汚水に閉じ込められてしまうのだから。


 こうした狡賢さもあってクラスメイトたちのイジメは教員たちにはイタズラということになっていた。子供のちょっとした遊び、おふざけ。コミュニケーションの一環。色々と表現こそあれ、教師からしても面倒事を避けられるに越したことはなかった。


 ブクブク、と鼻から空気が漏れる。口には泥や鯉の糞が混じった汚水が流れ込む。浮いていた落ち葉を吸い込んでしまうと気管が詰まって本当に呼吸ができなくなる。


 苦しい。死にたい。なんで自分がこんな目にあわないといけないの。ぼやける思考の中で子供なりにノワールは考えた。


 私は何か悪いことをしただろうか? 太っていて迷惑をかけた? 料理好きな母親が大きく育つようにと張り切って作ってくれただけだ。いつか私も母みたいに料理上手になりたい。

 金髪だって、父親はいつも撫でながら『お母さんに似て綺麗だね』と言ってくれる。横で照れくさそうにしている母親も一緒に撫でてくれる。自慢の金髪なのに、なんで汚いなんて言われないといけないの。


 涙がボロボロと流れる。頭を引っ張り上げられても池の水でビショビショなので泣いていることは気づかれていない。

 ああ、もう。死にたい。辛い。苦しいだけだ。もうイヤ。楽になってしまいたい。


 そうやって諦めかけていると両親の顔が脳裏に浮かぶ。優しくて温かい両親が。


 嫌だ。死にたくない。

 誰か、誰でもいいから。


 ──助けて!


 

 そう強く願ったときだった。ゴフッ、と鈍い音が響く。髪を引っ張っていた手の感触がなくな自由に動けるようになった。

 顔を上げたノワールが目にしたのは、自分と同い年くらいの男の子が二人の男子を思い切り殴り飛ばしているところだった。



「い、いきなりなんだよお前!」



 男子たちも拳を構えてその男の子に突進するが、ひらりと躱して顔面に膝蹴りを入れた。もう一人にはヘッドバットをかまし突き飛ばした。

 顔に痣やコブができてダラダラと鼻と口から血を垂れ流している男子たちは尻もちをつき、男の子を睨んで言い放った。



「せ、先生に言ってやる!」


「ママにも言いつけるからな!」



 捨て台詞とともに逃げていった男子たちをノワールはわけがわからないとばかりに見届けた。そして一人の少年と目があう。なぜか自分を助けてくれた男の子。顔に見覚えはないのでクラスメイトではない。



「ゲホッゲホッ、あ、あの、ええと……」



 お礼を言わなければ。頭ではわかっていても、まだうまく呼吸ができない。咳き込んでいると彼はずかずか近づいてきた。他人恐怖症に陥っていたこの当時のノワールはビクッと身体を震わせ身を強張らせる。怖くて目を閉じる。

 ノワールの背中に何かをかけられた感触がある。『え……?』と目を開ける。



「ごめん。あったかいもの持ってないからこれくらいしかできないけど……」



 そう言ってその男の子は着ていた上着を脱ぎノワールへと羽織らせた。ポケットからハンカチを取り出しノワールの顔や頭を拭いてやる。ノワールは顔から火が出るほど熱くなったような気分だ。



「き、きみも汚れちゃうよ……」


「いいから」



 ハンカチを広げてごしごしと髪を拭く。ノワールは肩に羽織った彼の上着を握りしめ、なんて温かいのだろうと感じた。ビショビショに濡れて寒かった。でもどんなドライヤーよりカイロより彼が自分を気遣ってくれた心の方が温かった。

 彼は拭きながら真面目くさった顔で呟いた。



「綺麗だな」


「え……?」


「綺麗な金髪だ。よく手入れされている。俺は見ての通り黒髪だから、こんなに美しい金髪は羨ましい」



 初めてそんなことを言われた。嬉しくて言葉が出てこずに詰まる。金髪はノワールにとってアイデンティティであると同時に家族とのつながりで、それを褒めてもらえるのは他の何よりも嬉しい。



「あの、ええっと……ありがとう。さっき助けてくれて」



 びしょ濡れのまま校舎に戻るわけにもいかないので乾くまで校舎裏で壁に寄り掛かって座っていると、その男の子も隣に座ってきた。曰く、あいつらがやり返してこないように付き添うとのことだ。

 やっと気持ちも落ち着いたところでノワールはようやく礼を言えた。しかしその男の子はあっけらかんとしている。



「気にするな。またイジメられたら俺を呼べ。何度だって助けてやる」


「で、でも、そしたらきみまでイジメられちゃうよ……」


「問題ないな。学校の奴らに好かれても仕方ない」


「わ、私デブだし暗いし……」


「いいんじゃないか? 誰だってなりたい自分になればいい。太っていて暗い性格の自分がいいならありのままにそうであればいい。もしも違う理想があるのなら、その理想に向かって努力をし続ければいい。なれるかどうかじゃない。なろうとする意思が大事なんだと思う。ま、俺もその道の途中なんだけどな」



 くしゃりと笑顔でそう言った。初めて笑っているところを見た。ノワールはつい彼の笑顔に見惚れてしまう。



「なれるかな。私でも」



 昼下がりの放課後なので徐々に太陽が低くなり、校舎の影が長く延びる。座っている二人の目の前をヒラヒラとアゲハ蝶が飛んで通り過ぎていく。



「なれるさ。芋虫だってサナギを経て、美しいアゲハ蝶になるんだ。誰だっていつかは理想の自分になれるんだ。周りから色々酷いことを言われることもあるだろう。だがそれは、ゴールまでの過程だと俺は思う」



 その後、さっきの男子二人が担任教師を連れて戻ってきた。いきなりアイツに殴られた、と泣きながら。顔から血を流していたこともあって教師は血相を変え、怒鳴りながら、ノワールを助けた少年の腕を引っ張って連れて行ってしまった。


 それから数時間。被害者の男子二人の保護者、それからノワールを助けた少年の保護者、学年主任や教頭といった教職員たちが集められた。少年の保護者の女性は制服を着ていた。被害者の保護者たちは怒鳴り散らし、少年の保護者はただただ頭を下げ続けた。



「一体家でどんな教育してるのよ!」


「そもそも親じゃなくて知り合いの女子高生が来るって……。はぁ、家庭環境をお察ししますわ」


「この度は本当に申し訳ありませんでした」

 


 亜麻色の髪をした制服の女性が少年の隣で頭をひたすら下げる。その拳は見えないところで固く握られていた。


 解放され帰宅できることになったのはそれから数時間が経った頃だった。オレンジ色の空が段々と暗くなる黄昏時だ。

 少年は女子高生の保護者と手を繋ぎながらぼそりと言った。



「ごめん夕華さん」


「なにが?」


「夕華さんがあんな奴らに責められる必要なんてないのに……」


「子供はそんなこと気にしなくていいのよ。それにナツキが暴力を振るうのはいつだって誰かを助けるときだもの。私は世界で一番ナツキを信じてる。だからどんなに(なじ)られても我慢できたわ」


「あ、あの!」



 校門をくぐりながら帰路につこうとしたとき。二人を呼び止める者がいた。そう。揚羽ノワールである。 

 夕華と呼ばれた女子高生は振り向くと膝に手をついて中腰になりノワールに視線を合わせた。



「どうかした?」


「あ、あの! ええっと……その子を怒らないであげてください! 私、ええっと、イジメられてて、彼は私を助けるためにあいつらを殴ってくれたんです。だから、だから、だから!」


「……大丈夫よ。怒ったりなんてしないわ」



 ついクスリと笑いがこぼれてしまう。これを伝えるために何時間も校門の前で待っていたのか。そして、やはり信じていた通り誰かを助けるためだった。夕華と呼ばれた女子高生は家に帰ったらナツキをたくさん褒めて抱き締めてあげようと心に決めつつ、ノワールの目を見てさらに付け加えた。



「私、いつか立派な先生になるわ。イジメなんて絶対に許さない。あなたやナツキみたいな目にあう子が出てこないように優しくて強い先生に。だからそれまであなたも絶対に負けちゃダメよ。もし負けちゃいそうなときは独りで背負わないで、信頼できる人に相談しなさい。きっとその人たちはあなたを守るために戦ってくれる」



 夕華はナツキのためならどれだけ傷ついても構わないと思っている。ノワールにもそう思ってくれている人がいると伝えたかった。ノワールにとってそれは両親。きっと両親は身を挺してノワールを守るために戦ってくれるだろう。

 ノワールは夕華の目をまっすぐ見つめて力強く頷いた。夕華はノワールの頭を撫でて、そしてナツキと手を繋いで帰って行った。



「ナツキくん、っていうんだ……」



 翌日だった。父の仕事の都合で再びフランスに引っ越すことになったのは。ナツキに別れも告げられず、それどころか自分の名前も素性も明かさないままだった。

 それでもノワールはナツキの顔も名も一時も忘れなかった。フランスに戻ってからは自分磨きに余念がなく、それは全てナツキに振りむいてもらいたかったからだ。母から料理を教わり、父から和食を習い、他にもダイエットをして、スタイルを良くしていった。


 ノワールにとっての理想の自分。それは自分を助けてくれた王子様に相応しいたった一人の女性になること。つまり、ナツキのお嫁さん。



「だからね、私の全部はナツキくんのものなんだよ。身も心も、ぜーーーーんぶあげるの。ナツキくんも運命だと思わない? 六年経っても私はまた同じようにナツキくんに助けられちゃったの。そう。そうだよ! 私とナツキくんは運命の赤い糸で繋がってるの!」



 話は戻って現在。ナツキに膝枕されていたノワールは、まくしたてるようにナツキとの運命を語りながら起き上がってソファにナツキを押し倒した。

 二人の位置関係が逆転する。ソファに横になったナツキに覆いかぶさるように抱き着いてきたノワールは唇を合わせ舌をねじ込む。



(そ、そうだ……。思い出した! あのときはもう『田中ナツキ』は僕じゃなくて黄昏暁だったけど、間違いなく金髪の女の子を助けている……!)



 ディープキスをされながらナツキは記憶の中のノワールと目の前のノワールを重ね合わせる。似ていない。到底似ていない。別人だ。仮にあのとき名前を聞いていたとしても同姓同名の他人だと思ったことだろう。


 ノワールはナツキが抵抗できないように手をつないで指を絡ませ、スカートが広がるのも気にせずにナツキに跨っている。胸や太ももをこすり付けるように身体を上下に揺らしながら口では唾液を送り込んでくる。



(あ、甘くて柔らかくて……これやばいかも……)



 キスに満足して口を離したノワールはハイライトのない瞳でナツキをじっと見つめ、耳元に顔を寄せて『しゅき……しゅき……』と囁きながら今度は耳の中に舌を入れてきた。そのあまりの快感にゾクゾクと背中が震える。

 これは本当にまずい。ナツキは赤い右眼に淡い光を灯らせて念じる。



(ええとたしか黄昏暁が使っていたのは……ハルニレの枝、ヒュプノスは枝を使って人間を眠らせる)



 夢を現に変える能力。夢想するのは夜の女神ニュクスの子にして睡眠を司るヒュプノスだ。ギリシア神話においてハルニレという木の枝を人間の額に当てて眠りへといざなったという。

 ナツキが能力を発動するとノワールは舌の動きを止め、目を閉じてすとんと寝てしまった。


 ソファで横になったまま、身体全体でノワールの存在を感じ、天井を見上げて考える。



(でも……結局ノワールが好きなのも僕じゃなくて黄昏暁なんだよね……)

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