第303話 愛、おぼえていますか
「ようこそいらっしゃいました。心宿讐弥様」
「久しぶりやねぇ恭子さん」
「いつもご贔屓にしていただいてありがとうございます」
京都、平安京。そこで随一のサービスを誇る旅館には熱心な客が多くいる。讐弥もその一人だった。以前ナツキが京都に招待されたとき寝泊まりした場所でもある。この旅館をナツキに紹介したのは英雄で、その英雄に教えたのは他ならぬ讐弥だ。
玄関で三つ指をつく恭子は頭を上げた。普段なら荷物をお持ちしますと言うべきところだが、常連客である讐弥にそれが不要であることはよく理解している。
讐弥は肩に一メートル以上ある天体望遠鏡を担いでいて、草履を脱ぐまではできてもしゃがんで下足箱に入れることはできない。恭子の仕事は草履を片すことのみである。
「いつもほんまにありがとうなぁ」
「いえいえ。仕事ですから」
ふふ、と恭子が上品に微笑む。客と女将ではあるが、互いに気の置けない仲なのでつい軽口をついてしまう。年齢が十ほど離れているので恭子にとっては讐弥は弟のような存在だった。
玄関に上がったところ、廊下からどたどたと走る足音が聞こてきた。足音は徐々に大きくなる。
「ママ! 大変なのです! ガスの調子が悪くて食材に火を通せなくて……」
紺色の子供用和服を白い襷で巻いて袖まくりしているおかっぱ頭の少女が息を切らしてやって来た。恭子の娘の橘桔梗である。
恭子が鋭いまなざしで睨む。桔梗は玄関に立つ細身長身の美青年の姿を目に留めて顔を赤くした。
「あ、えと、ええっと、ようこそいらっしゃいました、なのです」
慌ててその場に膝をつき頭を下げる。女将をママと呼んでいるところを見られた。仕事人としてプロ意識が欠落していると思われるのは嫌だしシンプルに年頃の女の子としては恥ずかしい。
讐弥は手をひらひらと振って笑っている。
「ええよええよ桔梗ちゃん。僕は客やけど客やないみたいなもんやしね。そんな固くならんでええ」
「ですが……」
「恭子さん、ええやないの。子供らの元気な姿を見られるんが僕ら授刀衛の一番の喜びなんやから。そいで、火がつかないん?」
「は、はい。厨房はガス機器の調子が悪いと何も調理ができなくて……」
「和食は火ぃ使わんと成り立たんからねぇ。野菜を生で食べる文化やって本来は西洋由来やし。ほなちょっと僕に任してくれへん? この時間やと夕餉は過ぎとるやろうから明日の仕込みやろ? それくらやったら手伝えるで」
「しかし心宿様」
「ええよええよ。恭子さん、僕いっつも泊まるわけでもないのにここ遊びに来とるやろ? ちょっとはお礼させてもらわんと顔が立たへんで」
お代は他の客と同じだけもらっているからお礼なんて必要ないのだが讐弥なりに恭子が気を使わないように気を回したようだ。恭子はそんな粋な計らいに気が付かないほど子供ではない。これ以上は何も言わないのが華、大人の対応である。
厨房の暖簾をくぐった讐弥の青い両眼が淡く光る。
「火星──麗らかなるマーズ」
讐弥の掌から紫色の禍々しい炎の渦が立ち昇る。天井すれすれまで燃え盛った火柱を制御し小さく抑え込む。コンロの火種を強引に着火させ、その間に桔梗が厨房内を走り回り火を通す必要のある食材を運んで急いで熱っしていく。
十五分ほど讐弥は手をコンロにかざしつづけた。桔梗が手ぬぐいで汗を拭きながら元気よく頭を下げる。
「ありがとうございましたなのです!」
「ええよええよ全然気にせんで。僕、桔梗ちゃんの料理大好きやからね。明日のお客さんにも美味しい桔梗ちゃんの料理食べてもらわな僕が悲しくなってまうところやった」
桔梗は顔を上げられない。今上げたら茹でダコのような真っ赤な顔を見られしまうから。まだ小学生程度の年齢の桔梗にとってこの感情の名をまだ知らない。
ちょうどそのとき恭子が厨房にやってきた。
「心宿様、望遠鏡の準備が整いましたよ」
「面倒かけてしもうたね」
「いいえ。これくらいはさせてください」
「この旅館の中庭、なんでか知らんけどよう星が見えるんよね。桜の木があるから夜桜と一緒に月見もできるし、空気が澄んどるから遠くの星もくっきりや。温泉の湯気が関係するんかな? ま、ええわ」
ナツキが円と逢引した中庭は讐弥にとってもお気に入りの場所だ。露天風呂では満天の星空が見え、望遠鏡を中庭に設置すれば普段はあまり見えない惑星も観察できる。
だから部屋に宿泊することはあまりない。もっぱら一晩中中庭にいる。だから讐弥にとってもこの旅館は特別な場所で、恭子たちにとっても讐弥は少し特殊で特別な客というわけである。
「よかったら二人も一緒に見いひん? 僕、星を見るときは隣に美味い団子とべっぴんな女の子って決めとるんよ」
恭子ですらも思わず頬を紅潮させる。天然なのか狙って言っているのかわからないが讐弥の言葉は大人の女性にも子供の女性にも効いてしまうのだ。
「そ、それでは少しだけお邪魔させていただきます」
「なのです……」
〇△〇△〇
「あーーもうむーかーつーくー!」
ノワールの手料理を食べ終えて満たされた腹をさすりながらソファで座ってお笑い番組を眺めていたナツキ。そんな彼の膝に頭を乗せてソファに横になっているノワールが足をばたつかせながら喚いている。
夕食を作っているときからこんな調子だ。一体何に怒っているのか聞いてみても乙女の秘密だからナツキくんには言えない、の一点張り。原因を教えてもらえないのでは慰めることも解決してあげることもできない。
「う、うん。よくわからないけど大変だったんだね。がんばったがんばった」
ナツキは苦笑いしながら暴れるノワールの頭をさすさすと撫でてやる。柔らかい金髪の間をするすると指が通る。そうすると落ち着いて猫のように身体を丸め、ナツキの腰に手を回して顔をぎゅっと埋めてきた。
「しゅきぃ……ナツキくんだいしゅきぃ……なんでもしてあげたい…………」
「ちょ、くすぐったいってば!」
ノワールはナツキの腹に顔を押し付けたままぐりぐりとこすりつけてくる。本当に小動物みたいだ。ただ膝枕の姿勢から身を乗り出して密着されると下半身にノワールの胸が当たるし、彼女が頭を動かすのに合わせてぶるんぶるんと揺れて目のやり場に困る。
スーパーで碓氷火織と偶然会った間にノワールの方は随分と嫌なことがあったようだが、このときナツキはどうしてか碓氷火織に会った話はしない方がいいと感じた。男の直感である。
「ノワールはさ、どうしてそんなに僕のことが……その、好きなの?」
ふとした疑問を投げかける。言いながら自分でも少し照れてしまったけれど。
揚羽ノワールという少女は田中ナツキのことが好きだ。それは自分ではなく黄昏暁の人格に対してだということはわかっている。嫉妬もする。
だが違和感があるのだ。少なくとも自分は六歳まで主人格だった。黄昏暁の人格に交代してからも精神世界の内側から黄昏暁と同じ景色を見てきた。基本的な記憶は共有している。
そしてノワールほど美少女なら一度会えば忘れるはずがない。仮に黄昏暁が何も思わなくても、現に彼女に一目惚れしている自分は覚えているはずなのだ。それなのに自分にも黄昏暁にも……つまり田中ナツキという人間に揚羽ノワールの記憶はない。
接点がまったくない男性を好きなるか? 別に芸能人というわけでもないし広く知られているわけでもない。星詠機関や授刀衛のような能力者界隈に属していれば噂話を聞くことくらいはあっただろうがノワールはどちらとも関係がない。
「ねえナツキくん」
「うん?」
ゴロンと膝の上で寝返りをうったノワールが仰向けになった。張りのある胸は形を保ったままツンと上を向いている。
見下ろすナツキと見上げるノワールの視線が交わる。わずかな空白の時間の後、ノワールがゆっくりと口を開いた。
「私と初めて会ったときのこと。覚えてる?」
「それは先週、このマンションで襲われていたところを……」
「違うの。もっと前。もっとずっと前。私とナツキくんは会ってるんだよ。……でもそうだよね。覚えてないよね。あ、ううん、怒ってるんじゃないの。むしろあの頃を忘れてほしくて今の私があるっていうか、なんというか……」
要領を得ない解答に困惑しているナツキの顔にノワールは手を伸ばす。頬に触れる。
「六年前。私がパパとママの仕事の都合で最初に日本に転校してきたときね……」
赤らめた表情のノワールは目を閉じて回顧する。それはナツキとの本当の出会い。彼女にとって人生で最も大切な出会いである。