第3話 元始、天気予報は予言であった
「ただいま」
二階建ての庭付き一軒家。豪邸というほどではないがこの辺ではかなり大きな家で知られている。と言っても、この時間はまだナツキしかいないので返事はない。同居人が一人いるが帰宅は大抵ナツキより遅い。
がらんとしている自宅。その二階の自室にバッグを置くとさっさと一階に降りて夕飯の仕込みをする。この家では夕飯の準備は早く帰宅するナツキの担当だった。
「ククッ、今日の洗濯物は最初から部屋干しだ。残念だったな天界の神よ! 貴様は俺たち人類の叡智、空巡る天候の予言には敵わなかったようだ!」
鍋の中身が温まるのを待つ間、庭に面した窓に向かってキッチンからおたまを突き付ける。『晩から早朝にかけて大雨が降り続くが、午前中にはやんで、正午以降はカラッと晴れる』という今朝のニュースで見た天気予報のことをスカイプロフェシーと称しているようだ。
それから鍋の火を止め、包丁で野菜を切り、炊飯器のタイマーをセットした。あらかたの準備はこれで終わりだ。
再度二階に上がり、部屋干し室と化している空き部屋の扉を開ける。洗濯バサミから自身の衣類やタオル、そして女性ものの下着など諸々をカゴに入れ、それをまた一階に持って行った。畳んでタンスやクローゼットにしまっていくためだ。
「ク、ククッ、鮮血の黄昏と称されたさすがの俺もこれは貧血になるな……」
ティッシュを鼻に詰めながらリビングで洗濯物を畳む。家族でもなんでもない異性の下着。思春期真っただ中のナツキにはあまりに刺激的で魅惑的。そんな血縁関係にない相手のセクシーな黒い下着ともなると、どれだけ無心になるように言い聞かせても理性が本能に食い尽くされそうになる。
「よし……終わったぞ…………」
どうにか変なことはしないまま、洗濯物の片づけも終わった。
日中の家事は彼の担当だ。中学生で時間のあるナツキとは違い同居人は社会人として働いている。その収入に頼っているわけではないので対等と言えば対等なのだが、ナツキの男として或いは家の主としてのプライドが基本的な家事をこなすという形で表れている。朝食だけは同居人の担当だが、掃除洗濯炊事と昼や夕方の家事はもっぱらナツキが行っているのだ。そうした生活をし始めてしばらく経ったので家事をこなすペースも上がってきた。今となってはこうして時間が余っているほどだ。
ナツキは三度自室に戻り、部屋の隅に立てかけられている木刀を手に取って一階に降りた。庭に出ると空は一面マーマレード色になっている。もう夕方だ。
庭の芝には今朝の雨露がまだ残っていて、夕陽に照らされキラキラと光り輝いていた。裸足のまま縁側から芝に降りる。露の冷たさが足裏の感覚を普段よりも鋭敏にさせ柔らかな芝生がチクチクと刺さってくすぐったい。
ナツキは木刀を構え、昨晩視聴したアニメの主人公と同じ体勢を取る。まさに先ほどの授業で夢に出てきた刀使いだ。抜刀モーションから木刀を振り抜き空を切り裂いていく。
きっと誰しも一度はそうした創作の技に憧れを抱くだろう。ナツキはそれを中学生になっても愚直に続けてきた。木刀から斬撃の衝撃波など出るわけがない。頭ではわかっていても、しかし心は納得しないものなのだ。彼の妄想の中では確実に斬撃を飛ばしている。そんな夢想を本気で信じて行動に移すのが中二病である。
それからも、同居人の下着に対して抱いてしまった邪念を振り払うかのように木刀を振った。どれもアニメやゲームで見かけた剣技だ。
ナツキが小学校の修学旅行で行った日光の土産屋で購入したこの木刀も数年間振られ続けてボロボロだ。掌にできた血豆が潰れては出来また潰れては出来、と繰り返しているので柄の部分だけは木材らしい茶色さはなく、赤黒くなっていた。
数分、数十分、一時間、二時間、と黙々と木刀を振り続ける。
昼間、担任の空川夕華が呆れ顔で言った。この時期にそのマフラーは暑くないのかと。暑い。暑いに決まっている。休みなく二時間も身体を動かせば誰だって汗をかく。ダラダラとナツキの顔を流れ落ちる汗を見ればそれは明らかだ。
「だが……剣を振るときに風でなびくマフラー……ククッ、かっこいい」
何かのゲームで見た主人公に自身の姿を重ね合わせて悦に入る。
空が暗い。集中していて気が付かなかったがもう夜になったようだ。ふいに、夜風が吹き抜ける。額や頬の汗が気化して身体の熱を奪っていってひんやりと気持ちが良い。
視界の端で、庭に植えてある木から葉がひらりと落ちるのが見えた。今の風のせいだろう。
ナツキはだらりと腕を垂らしいている。その脱力した状態から全身の筋肉を捻り、回転するように木刀を振りぬいた。独楽のような全身の回転円運動。いや、一定の速さで持続的に回る独楽と違い、筋肉をバネのようにしているだけ瞬間的に発揮される力は大きい。
はらり、はらり、と真っ二つに割けた木の葉が地に落ちる。
もうすぐ、同居人が帰宅する。ナツキは家の中に戻りシャワーを浴び終えると夕飯を食卓に並べた。
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