第299話 大人の失恋
「おい、見ろよあれ」
「ああ、二年の転校生だろ? すげぇかわいいよな」
「うわぁ、お人形さんみたい。隣にいるのは……彼氏?」
「転校していきなり彼氏はないでしょさすがに」
学校に近づくたびに周囲のヒソヒソと話す声がよく聞こえてくる。今の人格のナツキはただでさえ肉体を動かすことにまだ不慣れなのに余計な注目を集めて胃が痛くなる。そんなナツキの腕を取り制服越しに胸を押し付けてにこにこ笑顔のノワールは周りの声なんて全然気にも留めていない様子。
(僕は黄昏暁みたいに他人の視線を気にせず生きるなんてできやしないし、カッコつけた格好も気取った口調もない。自信を裏付ける学力や運動能力もない。そんな小市民でちっぽけな僕は目立つのってやっぱり苦手だな……)
ナツキの腕を抱くノワールは軽くスキップ気味に歩いている。足元まである長い金髪のツインテールがそれに合わせてぴょこぴょこ揺れるのを見て他の生徒たちは翼みたいだと感じた。
鳥、竜、天使、どれでもない。言うならばまさに蝶。甘い蜜の香る花々の周りをヒラヒラと舞い踊る蝶のように、ナツキのそばにいるノワールは嬉しそうに軽快に歩いているのだ。
ナツキは周囲の視線が痛いなんて言いつつ、内心は満更でもなかった。恋をしている少女と一緒にいられることが嬉しいのはもちろん、一生学校に行く経験なんてないと思っていたこちらの人格のナツキにとっては女子との登校なんて夢のまた夢のその先である。
校門をくぐり玄関に入って下駄箱で靴を履き替える。黄昏暁の内側から眺めていたときの記憶を頼りに道順を辿り、自分の下駄箱を選んで靴を入れる。
ナツキの目の前では同じくノワールも靴を履き替えている。上履きの踵にはひらがなで『のわーる』と書かれている。
履き替えるにあたり、ナツキはしゃがんだ。立ったまま踵を潰してからつま先で床をトントンと小突いて履くような器用な真似はちょっとまだできそうにない。
履き終えたナツキは立ち上がろうとふと視線を上に向けた。別にしゃがまなくても、前かがみになって指で踵を入れれば履くことができる。現にノワールはそうしていた。しゃがんだら長いツインテールが床についてしまうからだ。
そしてしゃがんでいるナツキに尻を突き出すように前屈姿勢になって、『うん……しょ……』と上履きを履いた。他の登校してきた生徒たちにはただの履き替えている光景。でも、しゃがんでいるナツキからは全てが見えている。薄い水色のパンツ。丸くてふっくらと柔らかそうで張りのある尻が綿の布に包まれて秘されていて、下着独特の縫い目まではっきりと見える。
太ももはほどよい肉付きだ。黒いニーハイソックスと水色のパンツとの間に生じた純白の絶対領域は吸い付きたくなるほどの無限の引力を孕んでいる。
「なっ……」
沸騰し脳天から煙が出るほど顔を赤くしたナツキは言葉にならない声を喉から絞り出し、絶景を無意識に脳に焼き付けてしまった。
ノワールがすたっと真っ直ぐ立つといくらしゃがんでいるとはいえナツキからはもうパンツは見えなくなる。わずかな瞬間だったがナツキは見てしまったことに果てしない興奮を抱いた一方、一抹の申し訳なさにも襲われた。勝手に異性の下着を見るなんて最低だ。
そんなナツキの贖罪を知ってか知らずか、ノワールはちらりと振り返ってナツキを見下ろし、ウインクをしながら指をそっと口元に当てた。『みんなにはナイショだよ』、声に出さずとも口の動きと小悪魔じみたイタズラっぽい視線で彼女の意図ははっきりとナツキに届く。
放課後まで理性が保つだろうか。ナツキは贅沢な悩みに頭を痛めながら教室へと向かう。
〇△〇△〇
ナツキが教室にいる。それを見てまず第一に夕華が抱いたのは安心感だった。どうやら怪我をしている様子もない。制服を着ているから一度家には戻ったのだろう。よかった。朝のホームルームの間ずっとナツキの方を見てしまっている。
教師が生徒を依怙贔屓していいわけがないのに。教師として厳しくあろうと今朝誓ったばかりなのに。いざナツキを目の前にすると教師としての自分ではなく女としての自分が顔を出す。
「はい。欠席はいないようですね。それでは一限は数学なのでみなさん五分前には準備を終えて席についていてください。朝のホームルームは以上です」
本当は今すぐにでもナツキのもとへ駆け寄って彼を抱き締めたい。昨晩は何もなかったか、怖い目にはあっていないか、確かめたい。でも我慢だ。自分は教師。学校では恋人同士ではなく教師と生徒なのだから。
改めて自分に強く言い聞かせる。そうしないとおかしくなってしまいそうだったから。そうだ、昼休みなら。担任教師が生徒を呼び出すのは不思議なことではない。昼休みにナツキを呼ぼう。それくらいなら教師であっても許されるはずだ。
昨日のことを謝りたい。愛していると伝えたい。夕華の胸の内のナツキへの想いは朝から膨れるばかりだった。
〇△〇△〇
四時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、各々の昼休みが始まった。弁当を広げる者や食堂に行く者、購買でパンやおにぎりを買いに行く者、何も食べずにサッカーボールを抱えてグラウンドへと走る男子。
午前中の授業を終えてナツキはふぅと息をついた。本来の主人格である黄昏暁は自分よりもはるかに知能が高いので学校の授業なんて難なくこなしほとんど居眠りしていてもテストは満点だったようだが、六歳で止まっている自分の頭にはかなり難しいものばかりだった。
国語はまだいい。音楽と美術も無問題。だが数学はダメだ。算数がギリギリの自分の頭脳では中学数学は受け付けない。
ぐったりと椅子の背もたれに身を預けていると横からノワールが声をかけてきた。
「どーしたのナツキくん? 疲れてる? ……あ、そうだよね。昨日の夜に私を守るために戦ってくれたんだから疲れてて当然だよね。ごめん。今のは無神経だった。私、別にナツキくんの重荷になりたいわけじゃないの。ただナツキくんのことが心配で……」
「だ、大丈夫! 大丈夫だから! ノワールを見てたらむしろ元気になった!」
落ち込むノワールを慰めるために変なことを口走ってしまった。ニマニマと笑うクラスメイトたちからのじめじめした視線が痛い。誰がどう聞いても惚気である。
すっかり元気を取り戻し明るくなったノワールは大きめの巾着袋を手にしてナツキに突き出した。
「ねね、ナツキくん。お弁当作ってきたから一緒に食べよ?」
嫉妬と羨望で血の涙を流す男子がいる一方、女子たちは大胆なノワールに驚いたり、弁当を作れるほど料理の腕前があることに対して素直に尊敬のまなざしを送ったりしている。
ナツキとノワールは机を突き合わせて弁当を広げた。色違いの弁当箱にそれぞれ同じ料理が詰まっている。マカロニサラダ、小さなハンバーグ、唐揚げ、漬物の大根や昆布巻。そして主食は俵型に握られた丸っこいおにぎり。
男の子の好きそうな品目だけでなく栄養バランスも考えた渋い料理もある。ナツキは弁当の蓋を開くや否や目を輝かせた。
「うわ……美味しそうだね。朝食のときも思ったけど、ノワールはすごく料理が上手だ」
「えへへ、ナツキくんにそう言ってもらえると私も嬉しいな。ナツキくんのお嫁さんになりたくていっぱいお料理の練習したんだ。それじゃ食べよ? いただきます」
「いただきます」
まずおにぎりを一個手に取る。一口でちょうどよい塩味が海苔に乗って広がり、二口目で具材の梅干しが顔を出した。タネは取り除かれていてハチミツなどで多少甘くし食べやすくしている梅干しである。えぐみのない酸味がほどよくしょっぱさと混ざり合って何個でも食べることができてしまいそうだ。
「今朝早く起きて握ったんだよ」
そう言ってにっこり笑いながら両方の掌を見せてくるノワール。こんな可愛い女の子の綺麗で小さくて真っ白な手で握られたおにぎりなのだと思うと余計に味わい深い。少しだけいけない気持ちにすらなってしまう。
続いて唐揚げを食べようとしたナツキをノワールは『ちょっと待って!』と制止した。ノワールは箸で自分の弁当箱の唐揚げをつまみあげてナツキの口元へと持って行った。
「はい、あ~ん」
「あ、あーん」
餌付けされているような不思議な感覚だ。口を開けているだけでノワールが料理を運んでくれる。机を突き合わせて向かい合わせなのでノワールは毎回身を乗り出しており長い胸が重力に引かれて存在感をアピールしてくる。
もぐもぐと口を膨らませているナツキを見て幸せそうなノワール。
「いーっぱい食べて、ずっと健康に長生きしてほしいんだ。だからお肉もお野菜もたくさん食べてね」
「ん……ごくん。すごく美味しいし気持ちも嬉しいけど、その……太ったら嫌いになっちゃうでしょ? ほどほどでいいよ」
「ならないよ」
ナツキの言葉を遮るように食い気味にノワールは否定した。語気が強くナツキも少し驚いて呆けている。
「……あ、そうそう飲み物! はいナツキくん。あったかいお茶だよ」
パチンと手を叩いて空気を切り替えたノワールが水筒の蓋を開け手渡してきた。蓋がコップの代わりになるタイプの水筒だ。湯気の立つ緑茶は米とも肉とも相性抜群で美味しい。
続いてノワールも同じ水筒で茶を飲み、『間接キスだね』と悪戯っぽく言ってくるので再びドキドキしてしまう。
そんなときだった。教室の扉が開かれて夕華が入ってきた。教員は職員室で食事をすることが多いが、担任が担当の教室に来ること自体は何ら不思議ではない。
夕華はナツキの方へとやってくると遠慮がちに尋ねた。
「田中くん、ちょっと今いいかしら……?」
「せんせーナツキくんは今私と一緒に過ごしてるんだから邪魔しないでください」
「昨日は帰りが遅かったと保護者の方から伺ったのだけれど、何事もなかった?」
ノワールの横やりを無視して夕華は続ける。といっても人前でありのままを吐き出すわけにはいかないので、遠回しに。
こうなるとは思っていた。ケンカ中とはいえ本来の田中ナツキ、つまり黄昏暁の人格のナツキは夕華と恋人同士だ。まさか幼少期の人格と入れ替わっているなど夕華が知る由もなく、こうして学校で話しかけられるのは想定できたはずである。
だが、肉体の主導権を握ってしまったことやノワールの家に泊まることになったことなど昨日はあまりに多くのことがありすぎてそこまで気が回らなかった。どう返答すればいいのか困り言葉が詰まる。
「え、ええと……その……はい、そうですね、大丈夫、だった、でした……」
視線が泳ぐ。黄昏暁の方のナツキは夕華と恋人でも今の自分は夕華とは何でもない。もちろん六歳の時点で随分と夕華には世話になっており家族同然の深い付き合いだったが、それは姉のハルカと同じで姉弟のような距離感なのだ。
今のナツキからすると、たとえるなら数年ぶりに会った親戚のお姉さんに話しかけられたような気分だろうか。よそよそしく他人行儀にし過ぎるのも変だしフランクにし過ぎるのもおかしい。どんな風に会話すればいいのかよくわからない。
「ナツ……田中くん、昨日のことはごめんなさい。私も気が立っていてちょっとおかしかったの。まずはそれを謝りたくって」
うっかりナツキと呼びそうになるのを我慢して夕華は心からの謝罪をした。自分のつまらない嫉妬などでナツキに辛い思いをさせたくはないし、はやく家に帰ってきてほしい。大好きなナツキと一緒に過ごしたい。夕華の言葉の端々にははっきりとそんな愛情が見え隠れしていた。
でも。
そんな感情を向けられても今のナツキは困る。なぜなら夕華の恋人の人格ではないから。
「ええと、はい、その……大丈夫、だと思います」
かといって下手なことも言えない。あくまでこの肉体の田中ナツキは夕華と付き合っている。一時的に主導権の今の自分が握っているとはいえ、勝手に二人の仲を引き裂くことはできないししたくない。
しかし視線を逸らししどろもどろでなぎこちないナツキのリアクションが夕華には冷たく見えてしまった。拒絶とは言わないまでも受け入れてもらえていない感覚に襲われる。
「ねえ、せんせー。もういいでしょう? 私たち今お昼ごはん食べてるんです。はいナツキくん。もう一回あ~ん」
弁当箱に入るように三分の一ほどのサイズでこねられたハンバーグをさらに箸で割って一口大にしナツキの口元へ持っていくと、ナツキはつい先ほどまでの流れでパクリと食べてしまった。
冷ややかな視線が背中に重たくのしかかる。ナツキとノワールの親しげな様子を目の当たりにした夕華は表情から感情が欠落してしまっていた。
「……そう。ナツキはやっぱり私よりもその子を選ぶのね。…………。ごめんなさい。今まで鬱陶しかったわよね」
踵を返す。無言のまま教室を出る。すれ違う生徒たちに挨拶されても返事ができない。俯いたまま廊下を歩く。
職員室の近くにある教職員専用のトイレの個室に入った夕華は扉を閉めると寄り掛かってずるずるとしゃがみ、体育座りの姿勢になった。両膝の中に顔を埋めて肩を震わせる。嗚咽が止まらない。
どうしてこんなにも涙が溢れるのか。止まれ、止まれ、と命じても眼が言うことを聞かない。最初から叶わない恋愛だったのだ。教師と生徒。大人と子供。対等に付き合うなんてできっこなかった。
ただ彼を守ってあげたかった。隣にいなくても遠くで見守る選択肢だってあったはずなのに。彼を欲して欲して欲し続けて、手に入れて、失った。喪失。喪失感。こんな辛い思いをするくらいならロシアで告白されたとき断ればよかった。溶岩のように熱くドロドロとした後悔が胸を渦巻き感情の堰を破壊する。
たった十歳。されど十歳。そこにある人生の長さの大きな隔たりが夕華の心をズタズタに引き裂きバラバラに壊してしまうのだった。