第298話 和食はショック?
肉汁の溢れる焼き鮭は身が締まっていてなおかつ新鮮。捌く段階で骨を全て取っているのは彼女なりの気遣いだろう。ほうれん草のおひたしは塩分控えめの様子で、その代わり風味付けで置かれた梅の花が香りでも食欲を刺激する。
白味噌を使って作った味噌汁は豆腐やワカメといった具材の王道だけでなく人参やジャガイモ、そして豚肉など、食欲旺盛な男子中学生の身体に充分な満足感を与えるラインナップだ。
何より白米。自分が青色で彼女が桃色の色違い茶碗によそわれた白米はダイヤモンドのように艶やかに照っていてふっくらと盛られている。
急須で茶を注ぎながらノワールはナツキの顔を覗き込んで尋ねた。
「どうかな……? イマドキ和食なんて流行らないかもしれないけど、ナツキくんには美味しいごはん食べてもらいたくて頑張ってみたんだ」
「すごい! すごいよ! とっても美味しそうだ!」
黄昏暁の方は料理が得意だけれど、こちらの人格のナツキは六歳時点で止まっているので当然料理の技術なんてものはない。ノワールはフランスでの生活が長いと聞いていたが、随分と凝った和食だ。
ノワールはエプロンを脱ぎ既に制服に着替えている。ナツキに褒められたのがよほど嬉しかったのか小さくガッツポーズをし満面の笑みを浮かべている。
「さ、たーんと召し上がれ」
「いただきます」
二人でダイニングテーブルに向かい合って座り朝食を取る。どれもできたてで温かく美味しい。味噌汁を飲んでホッと一息ついた。
黄昏暁の人格を追いやって主導権を奪ってはみたものの、不安はあった。この身体で食事ができている。つまり自分は生きている。温かい料理がそんな安心感を与えてくれた。
ノワールは自分の食事の手も止めて、そんな緩んだナツキの表情を正面からうっとり見つめていた。手料理で大好きなナツキが幸せを感じている。それが自分の何よりの幸せである。相手の幸せが自分の幸せだなんて、朝から一緒に食事だなんて、これはまるで。
(私たち、夫婦みたい)
ハートマークを全身から溢れさせながら熱い視線を送られ続ければさすがのナツキも気が付いた。どうかしたの? と訝し気に尋ねても、ノワールは笑顔のまま『ううんなんでもない』と首を横に振るだけだ。
そうしてノワールの料理に舌鼓を打つ。あらかた食べ終えたところでナツキはふと声をかけた。
「ええっと、揚羽ノワール、さん」
「下の名前で呼び捨てがいいな」
「じゃあ、ノワール」
「はぁい。なあに?」
「ノワールはその……能力者なんだよね」
「うん。三等級の能力者だよ。他者に私のお願いを聞いてもらう能力。ただし条件として、少しでも私に対して好意をもっていないと発動できないの」
ちょっとした催眠能力だね、とノワールは微笑んだ。対してナツキは呆気に取られてあんぐり口を開けている。いくらナツキがノワールに守ると誓ったとはいえ、そしてノワールがナツキに好意を寄せているとはいえ、やすやすと能力を他人に開示するとは思わなかった。まして発動の条件まで。
まだ主導権のある人格が黄昏暁だったとき、きっと催眠能力には制約や条件があるという話をナナとしていた。幼い人格の方のナツキも内側でそれを聞いていて、それこそがノワールの能力の弱点だろうとぼんやり考えてはいた。
「ノ、ノワール、そんなにあっさり能力の詳細を話しちゃっていいの?」
「いいよ。だって私はナツキくんには能力じゃなくて本気の心で好きになってほしいから。ナツキくんへの恋心がきっかけで発現した能力だけど……。でも、私はやっぱりナツキくんと真剣に未来を描きたいの。一時の拘束よりも一生の伴走。それが私の夢」
まっすぐなノワールの言葉を受けてナツキは顔を赤くし頭を抱えた。本来の主人格である黄昏暁には申し訳ないが、ああ、自分はやはりノワールのことが好きだ。恋をしている。こんなにシンプルな愛の言葉にどうしようもないほど絆される。
「そ、そうだ。学校はどうしようか。ノワールが狙われているっていうのなら外出は危険だよね」
「私はナツキくんとの学校生活に憧れがあるから、できれば普通に登校したいんだけど……」
どうかな? と視線で訴えられる。今のナツキにノーと言えるはずもない。裸エプロンから制服に着替えた時点でそんな気はしていた。
しかしそうなるとナツキは制服がないので困る。鞄や教材なんかも取りに一度自宅に戻らないといけない。
(黄昏暁の生活を内側から眺めていただけで正確なタイムスケジュールを把握しているわけじゃないけれど、たしか夕華さんは部活の朝練で早く登校する生徒たちに合わせていたから、もうこの時間はとっくに家を出てるよね。となると自宅はもぬけの空のはず)
「ノワール、一旦着替えとか荷物とか取りにウチに寄りたいんだけど構わない?」
「うん! もちろん。朝から登校デートだね」
〇△〇△〇
「ナツキくん、お手洗い借りてもいい?」
「え? うん。いいよ」
一時帰宅したナツキと家の中についてきたノワール。案の定、夕華は既に出勤していた。
自室で学ランに着替えて、鞄に教科書と筆記用具を詰める。ナイフもトランプも邪魔なだけなのでいらない。包帯は別に腕に巻かないしマフラーも暑いからしない。
部屋の姿鏡に写るのはいたって平凡などこにでもいる男子中学生の姿である。黄昏暁の人格でなければ所詮はこんなもの。もし幼少期に人格を切り捨てられずそのまま大きくなっていたら、こんな凡庸な『田中ナツキ』が待ち受けていたのだろうと思うと姉のハルカにも同情する。
ただ一点、赤い右眼だけが浮いている。青い左眼である『現を夢に変える能力』は黄昏暁の方の人格に発現した能力なので今の自分には使えない。身体と人格が馴染んでいないからなのか黄昏暁と半分こにしているからなのか、両眼が赤くなるわけでもなく右眼だけが赤いままなのだ。
「ちょっと派手すぎだよね。そういえば黄昏暁は能力に覚醒する前、眼帯つけて登校してたっけ」
たしか洗面所の引き出しにあったはず。一階に降りて洗面所に入り漁ると医療用の白い眼帯がいくつかずさんに保管されていた。鏡の前でうまく調節し眼帯をつけ、下手に悪目立ちしないよう軽く前髪をかけて隠す。
(そういえばウチは二階建ての一軒家で部屋数もかなり多いけど、ノワールはトイレの場所すぐにわかったかな)
心配に思いつつも年頃の乙女のそういった事情に立ち入るのは紳士じゃないだろうということで、ナツキはリビングのソファに座って待機することにした。
〇△〇△〇
「うん? なんだろうあの部屋……」
トイレに行くというのは嘘で本当はナツキの家を物色したかった。そう思って部屋を出たノワールはナツキの部屋の隣の扉が少しだけ開いていることに気が付いた。
覗き見て、ついでに部屋の中へ足を踏み入れる。本や資料が多く簡素だけれど綺麗に整った部屋。机の上の小物やクローゼットの様子からして若い女性だろうと推測できる。ナツキの姉か妹か。妹にしては大人っぽい。
そんなノワールはベッドの枕元に、ピンク色のレースのハンカチに巻かれて大切そうに置かれているものを見つけた。黒い簪。どこかで見覚えのあるそれを一目見て、ノワール昨日の記憶と照合した。
(そうだ、私とナツキくんが一緒に過ごすクラスの担任……)
自分の催眠能力が効かなかった不思議な女。年齢は二十代前半で男ウケする身体つきをしており、盗撮したナツキの写真に大抵写り込んでいる。もっぱら盗撮は能力で洗脳した日本在住の者に任せているのだが、どの写真をチェックしてもこの女はやたらとナツキとの距離が近いのだ。
ずっと邪魔だと思っていた女がまさか担任教師だとは思わなかった。だから昨日もすぐに気が付くことはなかったのだろう。
ナツキに変な虫がついている。その事実がノワールを曇らせる。眼からハイライトが消える。ハンカチをひったくるようにして剥ぎ取り簪を鷲掴みにしたノワールは、両手で力いっぱいにへし折った。
漆の塗られた桐の木材の破片が床にこぼれ落ちる。ノワールは真っ二つになった簪を放り捨て、足で踏みつけた。
「ふふ。ふふ」
光のない据わった眼で、ノワールは笑っていた。感情のこもっていない虚ろな笑い声が夕華の部屋に小さく響く。簪がボロボロに砕けていくたび、ノワールはナツキへの愛情がますます深く大きくなっていくのを感じた。