第297話 それぞれの起床
段々と暗闇に目が慣れてきた。電気を消したリビングのソファで毛布をかけて横になっている。身体は眠いのに頭が眠れない。家具の配置とか、カーテンの柄とか、どうでもいい情報がこまごまと入ってくる。
ノワールが一緒のベッドで寝ようと甘えて誘ってきたときは大いに心が揺れ動いてしまったのだが、一応この肉体は黄昏暁のもの。いくら幼い自分の人格が肉体の主導権を乗っ取っているとはいえ、勝手に穢すのは忍びないだろうと理性がブレーキをかけた。
ノワールは自室で就寝している。それに護衛という意味合いで言えばベランダや窓に面しているリビングの方が外部と接点になる確率が高く、自分はこっちで寝るのが正しいだろう。ノワールはつまらなさそうにしていたが強引に言い聞かせた。
(明日も明後日も普通に学校あるけど……。どうしよう。行った方がいいのかな)
小学校にすらろくに通った体験のない自分がいきなり中学校に? 黄昏暁の肉体を奪っておいてこんな感情を抱くのは自分勝手なのかもしれないが、ナツキはとめどなく溢れるワクワクを抑えることができずにいる。
もう自分には人生を歩む機会はないと思っていた。田中ナツキとして生きる黄昏暁の内側で、彼をサポートするだけのスピリチュアルな生命体。ただの人格や意識。それが自分。
でもこうして人生の延長戦を味わうことができる。そのことが嬉しくて、楽しみで。
疲れているのに一向に寝られないのは自分の感情が昂っているからだ。初めて抱いた恋心。初めて触れた女子。そして明日は初めての学校生活。興奮と期待でバクバクと心臓が脈打ち、どれだけ羊を数えても寝られそうにない。
手をグーパーグーパーと閉じたり開いたりしてみる。自分の思った通りに身体が動く。たしかに自分は生きている。
(だけど能力についてはもっと上手く使いこなせるようにならないと)
夢を現に変える能力は本当は僕に発現した能力なのに黄昏暁の方が上手に使えてるな、とナツキは目を閉じて苦い顔をする。
もしも結城英雄のような強い能力者がノワールの命を狙いにやってきて自分は彼女を守ることができるだろうか。正直自信はない。黄昏暁のような卓越した戦闘センスも、相手の意図や動きを先読みする知能も、能力を活用する想像力も自分にはない。だからこそ自分は姉に切り捨てられたのだ。
(でも、できないなんて言ってられない。僕が絶対に彼女を守るって約束したんだから。たとえどんな能力者が来ても僕は逃げない。逃げずに戦うんだ)
しかし、それにしても結城英雄の様子は変だった。ナツキは黄昏暁の内側から眺めているときから妙な違和感を覚えた。いくら世話になった人を殺されたからって、あんなに簡単に揚羽ノワールを殺すという結論を受け入れるだろうか。口ではノワールのを殺すのは正当だと言っていたのにその眼には涙が滲んでいた。頭と心が乖離していて本心ではない様子だった。
ナツキ自身は英雄と親交はない。英雄の親友である田中ナツキはあくまで自分ではなく黄昏暁の人格だから。でも遠くから彼らの会話はずっと見てきた。その上で。やはりおかしい。まるで心理的に追い込まれているような……誰かに何かを吹き込まれたような。
(まあ、考えても仕方ないか。僕が今すべきなのは揚羽ノワールを守ること。それだけに集中するんだ。僕は黄昏暁みたいに天才でも万能でもない。色々なものを追いかけたらきっと取りこぼす。だから、今は。あの女の子のことだけを考えるんだ)
手を取って潤んだ視線を向けてきて、そして口づけまで交わして。数時間前のノワールの姿を思い出すとまた赤面してしまう。ナツキは頭を振り邪念を追い払って無理にでも休もうと眠りについた。
〇△〇△〇
差し込む朝陽が意識を起こし重たい瞼を自然と持ち上げる。自然な目覚めは健全なはずなのに全身が痛む。夕華は自分がダイニングテーブルで突っ伏して眠ってしまっていたのだということに起きてから気が付いた。
昨晩は夕食を片付け皿を洗って、しばらくナツキの帰宅を待った。なかなか帰ってこないので風呂に入り歯磨きもしてパジャマにも着替え、またナツキを待った。
しかしいくら待っても帰ってこない。夜も更けていよいよ心配になってきたが、メールをしても返信はなく電話もつながらない。
もちろんナツキが強力な能力者であることはよく知っている。事件や事故に巻き込まれるなんてことはそうそうないだろう。それでも日付が変わっても帰宅しないのは不安にもなる。
そうして待っているうちに寝落ちしてしまったようだ。
時計を見れば普段の起床時間を少し過ぎている。朝は少し肌寒い。持ち帰り残業をしてそのまま寝てしまったときはいつもナツキが毛布やブランケットをかけてくれるのだが、寒いということはそれがない。つまりナツキはまだ帰っていない。
急いで朝食の用意をしなければと焦った夕華は一瞬で現実に引き戻され眉尻を下げる。一人きりなら別にいいや、と。社会人として忙しい自分がナツキのためにしてあげられる数少ないことが朝食作り。でもナツキがいないのでは、それも……。虚しいだけだ。
「掃除や洗濯もしてもらって、夕食の準備もしてもらって……。私はナツキにもらってばっかりなのに。それなのに彼を突き放すような態度を取るなんて本当に最低よ」
やつれた表情で情けなく呟く。薄暗いあけぼのの部屋に東の低い位置から太陽が顔を出して淡く差し込む。
両親は亡くなり姉のハルカは渡米していてナツキはこの家に一人。小さい頃からハルカの代わりに保護者代わりだった夕華がナツキと一緒に暮らすことを決めたのは二人にとっても自然な成り行きだった。
だけど。
(私がいる意味ってなんだろう。私の人生にはナツキが必要だけれど、きっとナツキの人生に私はいらない)
保護者ヅラしたって何の役にも立っていない。大人なのに彼を守る力すらなく、それどころか嫉妬して当たるような女だ。恋人としても失格だと言わざるを得ない。
朝食は抜いた。さっさと着替えて出勤準備を終える。簪は置いていこう。今の自分につける資格はない。
ナツキは学校に来るだろうか。今どこにいるのだろうか。星詠機関に所属しているわけでもないしロシアの王族なわけでもない。ただの平平凡凡な中学校教師の自分にはナツキが能力者としてどんな事件に関わっているのか首をつっこむことは叶わない。
釣り合わないな、と我ながら思う。ナツキのことは赤ちゃんの頃から知っている。おむつを替えてあげたこともある。その贔屓目を抜きにしてナツキは良い男だ。強くて優しくて思いやりがあり、頭も良く、家事だって万能。彼の役に立てずこれといった長所もない自分にはもったいないくらいだ。
昨日が始業式で、今日から本格的に授業が始まる。仕事に集中しよう。やはり自分のような堅物で嫉妬深いつまらない女に恋愛など難しかったのだ。
教師として厳格に。社会人として仕事には真剣に。それでいいではないか。仕事が恋人だって恥ずかしいことではない。一生懸命に授業に取り組むことが生徒たちのためになり、広義には社会貢献にもつながる。
教師ともあろう自分が色恋にうつつを抜かしている場合ではない。
扉を開けると冷たい朝の風が吹き抜けて頬を切り裂いた。いってきます、と誰もいない自宅に向かって小さな声で囁き暗い気持ちで家を出る。
〇△〇△〇
「おーはよ。ナツキくん」
「ん……おはよう……ってうあぁ!? な、ななななななんて格好を……!」
まどろみボヤけていた視界に広がる肌色のピンク色の刺激的な光景が意識を引っ張り上げ頭をはっきりと機能させた。ソファで横になり寝ていたナツキを見下ろすノワールはピンクのエプロン姿だ。それはいい。ここは彼女の自宅で今は朝。エプロンをつけることもあろう。問題はエプロンの下である。
「私、裸エプロンなんてしたことなかったから、えへへ、ちょっと緊張してるけど……どうかな? 似合ってるかな?」
中学生とは思えないほどの谷間や健康的な白い手足が眩しい。恥じらいながらも見せつけるように寄せている。
ソファを跳び起きたナツキは後ずさるが逃げ場はなく、鼻血を堪えながら視線を逸らすのが精いっぱいだ。こういうときに鼻血が出そうになるあたりは違う人格でも同一人物の肉体だな、などといやに冷静に考えてしまう。というより関係のないことで頭を埋めないと理性が決壊してしまう。
「ふ、服を着てくれ! 僕だって視線に困るだろう!」
「嬉しくなかった……?」
捨てられた子犬のように潤んだ瞳で尋ねられたら正直に答えるしかない。ナツキはほんの少し、本当にほんの少しだけノワールへ視線を向けて、絞り出すように呟いた。
「う、嬉しい……」
それを聞いたノワールはパァっと表情が明るくなる。フランス由来の美しい金髪のツインテールも相まって太陽に向かって伸びるヒマワリを想起させる。
ノワールはソファにダイブしてナツキに抱き着いて首元に顔を埋めてきた。ノワールの髪の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。甘いのにしつこくなく、爽やかだが中毒性のある香りだ。人生経験の浅い人格でありながらナツキは直感的に確信をする。この香りは女の子の、それも女子中学生だけの特別な香りなのだと。
そしてわずかに視線を下に向けると雪原のごとき白い背中が広がっていた。エプロンとは前掛けである。畢竟、前面は隠せても背面は裸同然だ。抱き着かれるとナツキの角度からはノワールの綺麗な背中や柔らかく丸みを帯びていて張りのある尻まで全てが露わになってしまっていた。
ナツキの現在の人格は所詮物心ついたときに切り捨てられたものである。ノワールの魅力によって呆気なく容量を超えてショートし、起床早々鼻血を垂らしてぐったり気絶した。
「あ、そうそう、ナツキくん。朝ごはんできてるよ! 私の手作りなんだけど……ってナツキくん!? どうしたの!?」
まさか自分の身体のせいで意識を失ったなどとは夢に思っていないノワールは白目をむいているナツキの両肩を掴んで前後に激しく揺さぶった。
ノワールの胸をクッションにして気絶していたナツキが目を覚ましたのは、炊飯器から炊き終えたことを報せるピーピーという通知音が鳴ってできたての白米の湯気と匂いがリビングまで漂ってきたときのことだった。