第294話 可逆リプレイス
荷電粒子砲の連発という暴挙を受けて走って逃げていたノワールは当然生き残る気でいた。まだ大好きな人と少ししか話せていない。ここでくたばるわけにはいかない。
しかしマンションの共用廊下で倒れ込むノワールは自分の足首を見て、頭が真白になる。何度も転ぶうちに捻ってしまったようだ。
エレベーターは外部衝撃によって緊急停止しているはず。となると逃走経路は階段になる。三六階から一階までを階段で? 捻挫して青紫色になっているこの足で?
彼への愛で満ちたお花畑じみている脳内に、一抹の死への意識が芽生えた。これは本当にマズい、と。
そのときだった。ノワールは鼻をひくつかせ、彼が近くまで来ていると気が付いた。隣に英雄がいることなんてどうでもよかった。
「嬉しいなぁ。ナツキくんは私を捕まえにきてくれたんだよね。あはは、どうしよう。ここで捕まえられちゃったら私、手錠をかけられて、鎖に繋がれて、ナツキくんに尋問されちゃうのかな。痛いのは嫌だけどナツキくんがどうしてもって言うなら私は全然平気だよ。あ、でもやっぱり普通に優しくされたいなぁなんて思ったり……。だけど将来お腹にナツキくんの赤ちゃんができたらハードなプレイはできなくなるから、捕縛監禁拷問プレイはたしかに今のうちにしかできないよね。ナツキくんのためなら私、私ね」
息つく間もなく頬を紅潮させナツキへの愛の妄執を吐き続けるノワール。遮るように冷たくナツキが問いを浴びせかけた。
「揚羽ノワール」
「なあにナツキくん?」
「どうして空港で彼らを殺したんだ……?」
キョトンと首を傾げたノワールはナツキを見てにっこり笑って言った。
「だって、あいつら私の邪魔をしたの。私がナツキくんのところに会いに行こうっていうのに監視がどうのって……。ねえ、あの人たちに私を縛る権利があるの? 私は抵抗しちゃダメなの? 私はただナツキくんに会いたかっただけだよ。大好きなナツキくんと一緒にいたいだけなのに、あいつらはわけのわからないことをのたまってさ。それって、殺されても仕方ないよね。邪魔なんだもん。扉が閉まっていたら開けるでしょう? 障害物があったら避けるでしょう? 同じなの。私は私の恋路を邪魔する人を取り除く。私のせいじゃないもんね。向こうが勝手に私に突っかかってきたんだから」
目からハイライトが消えてぶつぶつとノワールは告げた。感情的にならず淡々と邪魔だったからと繰り返している。悪意も殺意もなくノワールは人を殺した。ただ邪魔だったから。それだけの理由で。
ナツキは拳を握り唇を噛む。ぐらりと眩暈に襲われた。ノワールの言っていることが事実なら彼女は自分に会うために人を殺した。英雄が世話になったという二人が殺されたのも、ノワールを殺人犯にしてしまったのも、これじゃあ自分のせいではないか。
「どうして……どうして俺なんかのために……」
震えて言葉がうまく出てこない。揚羽ノワールという少女はナツキから見ても綺麗だ。可愛い。中学二年生とは思えないほど豊かな身体や日仏の良い所取りな顔立ちは芸能人も顔負けだろう。そんな相手がどうして見ず知らずの自分なんかに熱心に愛を告げるのかまったく理解が及ばない。
「だって好きなんだもん。私はナツキくんが好き。私の行動の理由がそれが全てなの」
「そんな……だからって……俺のために人を殺すなんて……」
「黄昏くん、もういいよ。もう充分にわかった。きっと彼女は純粋なんだよ。子供が蝶の羽をもぐみたいに、心の赴くままに命を弄んでしまうんだ。ボクは……やっぱり、彼女を殺さないといけない。彼女が悪でないとしても彼女が生きていることでボク以外にもたくさんの不幸になる人が生まれちゃうから」
そう宣言した英雄の短刀を握る手はやはり震えている。ナツキはもうこれ以上英雄と問答をしていられるほどの精神状態ではなかった。ノワールの来日に際する全ての不幸が自分のせいだというのなら、自分はどれだけの罪を背負わねばならないのか。ナツキの呼吸はゼーハーと荒くなり上下する心臓を押さえている。
ナツキにとって恋とか愛とか、そういう感情は明るいものだった。晴れて恋人になった夕華だって他の想いを伝えてくれた少女たちだって、恋愛する乙女たちはいつも輝いていた。それなのにどうしてだ。揚羽ノワールからはドス黒くどんよりとした重たい錨のような愛しか感じられない。
そんなナツキの姿を痛ましく思う英雄は、これ以上ナツキが責任を感じずに済むためにもここで自分がノワールを殺害すると改めて決意した。相手は能力犯罪者だ。この断罪は正義である。英雄は自己暗示にも等しい覚悟を短刀に乗せて振り上げた。
罪も責任もこの一刀で斬り伏せる。
「はぁぁぁぁぁぁ!」
少女然としていて普段から心優しく温厚で穏やかな英雄が、涙を流しながら咆哮を上げた。能力を封じられ無力となったノワールは避ける様子もない。否、そもそも彼女にそんな身体能力はない。能力がなければただの一般人と変わりはしないのだ。
ノワールに死への恐怖はなかった。それよりもナツキと会えなくなることの恐怖が勝っている。『死にたくない』、この言語化は適切ではない。『ナツキくんと一緒にいられないなんて嫌だ』、こちらがノワールの本音である。
彼女の感情などお構いなしに刀は無慈悲に振り下ろされる。人の命なんて刃物一つでいとも容易く奪えてしまうのだ。
かくして、揚羽ノワールという日本に侵入した能力犯罪者は授刀衛に所属する結城英雄によって殺害された。
──そのはずだった。
ドクン、ドクンとナツキの心臓が飛び跳ねる。血液が沸騰する。揺らいで曖昧模糊になった意識をガッと掴む者がいる。ナツキの精神世界でナツキに干渉できるのはたった一人。それはナツキ自身のもう一つの人格に他ならない。
果てない純白の精神世界で、呆然と立ち尽くすナツキを幼いナツキが突き飛ばした。
『僕は僕を見損なったよ。出てけよ……。この身体から出てけよ!』
ナツキの身体がガクンと小さく跳ねた。左眼から青色が消えてただの黒目となり、赤い右眼だけが淡い光を宿す。
そしてナツキの右手が振り下ろされる英雄の腕を掴んだ。短刀はノワールを斬る直前で止められている。ノワールを守るように英雄とノワールの間に立ち、ナツキは英雄を睨みつけた。
唖然としている英雄をよそにナツキは左手を虚空へと向けた。黒い刀をイメージして強く念じると能力が発動し具現化。英雄へフック気味に黒刀を振るう。英雄は驚きに満ちた表情でナツキから距離を取った。
「どうして……黄昏くん、わかってくれたんじゃなかったの……?」
「生憎、今の僕は黄昏暁じゃないんだ」
ナツキが黒刀の切っ先を英雄へと向けると英雄はさらに涙を溢れさせ、小さな身体を強張らせて悲哀で力が抜けた。
最大の理解者で最高の親友で、最強の憧れ。そんな相手から刃を向けられたことで英雄も不安定に心が揺れる。逃げるようにマンションの共用廊下の壁に電撃を放って大穴を空け、三六階建て地上一三〇メートルを跳び降りた。
「……雲耀」
スカイダイビングの要領で身体の前面に空気抵抗を受けながら全身に青白い雷光を纏わせ、文字通りに光速で夜空を駆ける。秒速三〇万キロメートルの速度で移動する目的地は京都の平安京。
英雄は任務を果たせぬまま心に不安と痛みを抱えて帰投した。
残されたナツキは片膝をついて項垂れた。黒刀が一瞬にして砕け散る。
(やっぱり中二病じゃない僕じゃイメージ力が足りないか……)
だからこそ姉のハルカは新しい人格の必要性を感じていた。その理由を今の田中ナツキをひしひしと痛感している。
それに身体も慣れない。ずっと六歳の肉体感覚のまま精神世界に閉じこもっていたので十四歳の身体は自分の身体じゃないみたいだ。まっすぐ立つのもまだ儘ならない。
「ナツキくん……」
ノワールがナツキの背に声をかける。言いたいことはたくさんある。助けてくれてありがとうと感謝したい。やっぱり私たちは両想いなんだねと愛を伝えたい。急に倒れて大丈夫かと心配したい。
でも言葉が出てこない。ナツキへの温かい万感の想いが声帯で渋滞を起こしてしまっている。
ナツキはしゃがんだまま、へたり込んでいるノワールの方へと振り返った。
「揚羽ノワール」
「な、なに? ナツキくん」
ぎゅっと、抱き締めた。今朝はノワールからナツキへ。でも今度は、ナツキからノワールへ。
「僕がきみを絶対に守る。黄昏暁じゃない。この、田中ナツキが」
穴だらけになったマンションの壁の隙間から月明かりが二人を優しく照らす。ノワールは顔を真っ赤にし無言で小さく頷いた。
少年の名は田中ナツキ。かつて強力なその一等級の能力以外は利用価値なしと実の姉から切り捨てられた、六歳で止まった人格である。