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第292話 盗聴、逃走

 玄関の扉の開く音が(しず)かなリビングダイニングにも届いてくる。夜の冷えた外気が扉の隙間から吹き込む。ナツキは外出するようだ。夕華は独りで夕食を食べながら、バタンと扉が閉まる音にキュッと胸が締め付けられるような想いに駆られる。

 筑前煮の蓮根を箸で持ち上げて無言で眺める。今日の料理はどれもこれも手間がかかるものばかりだ。献立は季節の旬に合わせていて、ナツキが自分を気遣ってくれていることが料理を通して伝わってくる。



「……いい歳なのに嫉妬して何も悪くないナツキに当たるなんて、本当に私は最低ね」



 二四歳にもなってただのキスくらいで嫉妬するなんて我ながら心に余裕がないと自嘲してしまう。大人として、教師として、もっとナツキにも鷹揚に振舞わねばならない。

 だというのに今日はどうしてか意地の悪い言葉ばかりを吐いてしまった。ナツキが喜んで転校生とキスしていたわけじゃないことくらい誰の目にも明らかなのに……。

 どうして棘のある物言いしかできなかったのか。彼を傷つけるような突き放す態度を取ってしまったのか。



「これは劣等感、なのかしらね」



 ナツキは歳の差なんて気にしないとロシアの地で叫んでくれた。永遠の愛を誓ってくれた。でも夕華は時々不安になる。彼の周りには魅力的で年齢の近い綺麗な少女たちが大勢いる。皆、ナツキの強さや容姿ではなく人間性を真剣に見て好きになってくれている。


 つい先日、ナツキがイギリスに行っているとき電話をかけてきたことがあった。ホテルでスピカや美咲と同室だという内容だった。



(あのときは、これからも嫉妬するかもしれないけど好きでいてくれるかって尋ねて言質を取って、そこまでしてようやく自分を安心させたけど……)



 大人としての余裕を見せたくて。まだ若いナツキに重たくて束縛してくるような女だと思われたくなくて。

 本当は嫌だったけれど、許した。

 嫌に決まっている。自分の恋人が自分よりも若い女とホテルの同じ部屋で何泊もするなんて……。


 京都土産の簪を今朝学校につけて行ったのもちょっとした独占欲からだった。芸能人がしばしば『匂わせ』というのをしていて、自分もその真似事をしたのだ。ナツキとの関係を客観的に保証する何かがほしかった。

 もちろん教師と生徒の恋愛なんてタブーだ。禁断を禁断と知りながら。それでもこの恋愛の輪郭をなぞって確かめたくなったのだ。


 

「今まで恋愛なんてしたことがなかったから、こんなに自分が嫉妬深い性格だなんて知らなかったわ」



 筑前煮を口に放る。美味しい。どの具材もしっかりと下味がつけてある。彼の愛情が料理にこもっている。

 ここを立ち去るときのナツキの寂しそうな表情を思い出すと胸が苦しくなる。あんな顔をさせたいわけじゃない。


 今日は朝から担当しているクラスの生徒たちに宿題を蔑ろにされて悲しかった。一生懸命に準備して、生徒たちのためを思って作った宿題を。押しつけがましいとわかってはいても打ちひしがれていた。

 転校生がナツキにキスをしたのはあくまできっかけにすぎない。元々今日は心が落ち込んでいて、それがナツキに当たるという怒りの形に転化されてしまっていたのだと自己分析し結論付ける。


 謝ろう。そして精一杯、愛していると伝えよう。こんな時間に外出するのは心配だけど、きっと彼は帰ってくる。



「そう、そうよ。きっと帰ってくるわ。……だって、ナツキは私の彼氏なんだから」



 空になった皿を前にして夕華はごちそうさまでしたと手を合わせる。

 昼間はあれだけ煩わしかった蝉の鳴き声も夜になるとなりを潜め、網戸からは鈴虫のか細い鳴き声が慎ましく聞こえてくる。鈴虫やコオロギは求愛のために美しい音色を身体から放つという。夕華は自分をそんな秋の虫たちに重ね合わせナツキの帰宅を信じて待つのだった。



〇△〇△〇



 とある高層マンション。電気もつけていない暗い部屋で湿った荒い息遣いだけが一定のリズムを刻む。白いレースのカーテンを通してわずかに差し込む月明かりがベッドで横になる揚羽ノワールを照らし出す。



「ハァ……ハァ……ナツキくんが私の話をしてくれてるよぅ……」



 黒髪混じりの黄金のツインテールがベッドに広がる様はさながら羽ばたくアゲハ蝶だ。二メートルほどあるクッション抱き枕に腕を回し、ニーハイソックスに包まれるむっちりとした太ももで挟んでいる。

 両耳を覆っているのは黒いヘッドホン。パソコンの画面には計測された音波が表示され、音響用ソフトウェアがノイズ混じりの会話を鮮明にしてくれている。



『──ザッ……ザザ…………じゃあ明日、揚羽ノワールを捕えればいいのか? それとも今から?』


「しゅき……ナツキくんしゅき……」



 クッション抱き枕の先端部分には一枚の紙が貼られている。どこで盗撮したのか、ナツキの顔写真をプリントしたA4サイズの紙だ。ノワールは唇を顔写真に押し付ける。グシャリと紙にシワができ、ノワールの甘い唾液が染みる。



「ハァ、ハァ、ナツキくんが私を捕まえてくれるんだ……今すぐ来てほしいなぁ……来て、キテ……」



 クッションにさらに強く脚を巻きつけ、太ももで挟む力も大きくなる。スカートが捲り上がり薄いペールグリーンのパンツがあらわになるが彼女の私室なので見る者は誰もいない。ノワールはクッションに貼った顔写真にキスを続けながら腰をくねらせて上下にこするように揺らす。

 ()()しているナツキの声が聞こえてくるたびに身体がビクンと震える。



「始業式には間に合わなかったけど、ナツキくんの部屋に盗聴器仕掛けられて良かったぁ」



 うっとりと恍惚の表情を浮かべ口の端からはだらしなく唾液の垂れた跡をつけながらノワールは今朝の遅刻を回顧した。本当なら朝のホームルームから参加して始業式にも出席して、ナツキとの学校生活を一秒でも長く味わいたかった。



「だけどナツキくんの枕すっごく良い匂いだったから仕方ないよね。誰もいないナツキくんの家で私独り、色々とシちゃったし……」



 盗聴器を仕掛けるだけならものの数分なのだが結局は一時間以上も遅刻をし登校したのは帰りのホームルームの時間になった。とはいえノワールの顔に後悔はない。むしろそこに浮かぶのは気持の良い達成感である。



「でも……気に食わないなあ。私のナツキくんに色仕掛けするこの女も、あの担任教師も……」



 ヘッドホンからナツキの声に混じって聞こえてくるナナの声に意識を向けた途端、表情から感情が消える。眼からハイライトが消える。


 ノワールの部屋には大量の写真が貼ってある。床を除く四方向の壁と天井、その全てに隙間なくびっしりと。大半はナツキの盗撮写真だ。制服姿、体育着姿、私服姿。笑顔、無表情、寝顔。


 しかし、数枚だけ違う人物たちの盗撮写真もある。


 たとえばノワールやナツキのクラスの担任教師。

 たとえばさっきまでナツキの部屋で会話していた相手。

 他にも、たとえば白銀の長髪の美少女。たとえば赤い髪のアイドル歌手。たとえば黒いポニーテールの女剣士。たとえばロシアの王族。


 彼女たちの写真だけは顔の部分がペンで黒く塗りつぶされ、壁に釘で打ち付けられている。釘はちょうど写真の中の彼女たちの心臓に突き刺さっていた。



「ナツキくんは私だけのも~の」



 ノワールはスカートのポケットから小さなチャック付きポリ袋を取り出す。掌に収まる程度の小さな袋だ。透明なその袋の中に一本だけ黒い線が入っている。その線の正体は、髪。人間の毛髪である。



「えへへ、キスしたときに一本だけもらってきちゃった」



 恥じらいを湛えて照れ笑いをするノワールの顔はまるで恋する乙女。普通の少女。しかしベッドの上でたった一本の髪の毛をスーハーと嗅ぐ姿はとても尋常ではない。

 その後も盗撮したナツキの写真を見て突然笑い声を上げたり、ノートに子供の名前の案を書き出したり、ノワールは幸せな時間を過ごす。しばらくそんなことを続けている。だというのに一向に飽きる様子はない。



「はぁ、やっぱり帰国して本当に良かった。だってこーんなに近くで彼と接することができるんだもんなぁ」



 両手で頬杖をつき両脚をぶらんぶらんさせてベッドの上をゴロゴロ転がる。頭の中にあるのは田中ナツキという男の子ただ一人だけ。キスはさすがに大胆すぎたかも! などとワーキャー叫んでジタバタする。それだけで彼女は幸福に浸ることができていた。


 そしてあまりにも突然のことだった。

 ボンッ! 青白い電光が夜の静寂を切り裂く。


 ベッドで横になっているノワールの頭上。すなわち、彼女が住まう高層タワーマンションの三六階の床から数えて一メートルほどの高さを、高熱の電光が通過していった。


 壁にはサッカーボール大の穴が開き高層特有の鋭い夜風が強烈に吹き込む。穴の断面は高熱故にオレンジ色に光っていて煙を上げている。


 ノワールの切り替えもまた素早かった。色恋に溺れた乙女から能力犯罪者へのトランジション。まず敵の攻撃の方角を特定。大まかな位置を把握。次に能力の推定。戦うにしろ退避するにしろ戦闘行動全般の組み立てを行う。



「光の色、出力、壁に開いた穴の状態、諸々から考えて今のは荷電粒子砲か何かかな? 高層マンションを撃ち抜いてきたってことはたぶんお相手は遠くにいて、それはつまり私の能力を多少把握してるってことだよね。となると空港で殺した連中のお仲間かぁ。だって、星詠機関(アステリズム)からはナツキくんが来てくれるもんね」



 ナツキの名前を出したところでポッと顔を赤くする。命を狙われたというのに好きな男の子のこととなるとどこ吹く風だ。

 いけないいけないと頭を振ってすぐさまノワールは退避行動に出た。彼女の能力は周囲に多くの人間がいて初めて真価を発揮する。それか相手本人を目の前にするか。いずれにしろ自分一人という状況は不利だ。なにせ荷電粒子砲をぶっ放してきた相手の姿は見えないし、この三六階建てのタワーマンションにはノワール以外の住人はいない。彼女が能力を用いて追い出したからである。



「まずは私の正確な位置を相手に知られないようにする!」



 部屋を貫通した荷電粒子砲は部屋の北側から南方向へと撃たれた。ということは敵は北側にいる。南側にある玄関を飛び出たノワールはマンションの共用廊下を走った。


 荷電粒子砲がデタラメに放たれる。走るノワールの後方を熱線が通過していくのを背中で感じ取る。足は止めない。ボンッ! という破裂音から一秒の間も開けずに着弾してマンションをスポンジのように穴だらけにしていく。

 足が絡まって転びそうになる。なんとかバランスを維持しようとするが……。細身でスタイルの良いノワールだが胸だけは人並み以上に大きいので体勢を少しでも崩すと簡単に前方へと頭から倒れてしまった。


 ちょうどノワールの頭上を荷電粒子砲が通過する。空き部屋の扉が穿たれた。もしノワールが転倒せずに立って走っていたら上半身はドロドロに溶けているところだっただろう。

 ノワールは冷や汗をかく。こんなところで死んでたまるか。



「だって、やっとナツキくんに()()会えたんだもん……!」



 震える膝に鞭を打ち、ノワールは立ち上がる。全ては恋した男の子のために。



〇△〇△〇



「これだけ撃てば一発くらいは当たったと思うんだけどなあ。でもやっぱり倒せてるかどうかボク自身の目で確かめないとダメだよね」



 ノワールが住まうマンションから数百メートル離れたところに建つ同程度の高層タワーマンション。その屋上に青く光る双眸が浮かぶ。茶色いストレートボブの髪がサラサラと流れるように揺れる。色白で声は高くクリクリと大きな瞳が可愛らしい。


 飛び降り防止のための簡易柵に軽やかに飛び乗って街を見下ろせば、ネオンも街灯も何もない暗闇が広がっていた。さきほどの荷電粒子砲の連発によって疑似的にEMP兵器と同じ現象を引き起こしてしまったようだ。荷電粒子砲とは例えるなら高出力な電子レンジのようなもの。周囲に大規模に電磁パルスを撒き散らしてしまうので電子機器は故障をきたすのだ。



「あちゃ……どうしよう……」



 怒られちゃうだろうな、と顔に不安が浮かぶ。でも仕方ない。なにせ今は凶悪な能力犯罪者を追っているのだから。多少の無茶も無理も通してもらわねば返り討ちにあうのはこっちだ。



「だって殺人鬼を自由になんてできないよ。ボクはまだまだ弱いけど……黄昏くんみたいに強くはないけど……でも、それでも! 家族や友達、仲間がいるこの国はボクが絶対に守るんだ」



 少女は──否、少女のような姿をした少年は、身体に雷の火花をいくつも纏わせながら柵から飛び降りる。一筋の閃光となって稲光は夜空を横切る。いつか親友であり憧れである黄昏暁のように大切な人を守れるように。

 そのために。


 結城英雄は夜を駆ける。

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