第291話 ごはんにするかお風呂にするか
「お、おかえりなさい、夕華さん」
「……ええ。ただいま。田中くん」
夏に比べて陽が沈むのは早くなった。夜というより夕方と呼ぶべき時間でいつもならまだオレンジ色のはずの空は既に暗い。
鞄を置いた夕華は冷たい表情のまま手洗いうがいをしに行き、家着に着替えて戻ってきた。地味な無地のスウェットだ。
「食事と風呂、どっちも準備できているが……」
「先にごはんにするわ」
教員である夕華より一足早く帰宅していたナツキは洗濯や風呂掃除などの家事を手際よく終え、昼過ぎには夕食の準備を開始していた。ナツキはキッチンで料理をよそいダイニングテーブルに手際よく自分の分と夕華の分の皿を並べていく。
いりこを使って出汁を取り下味をつけじっくりと煮込んで作った筑前煮。タケノコの炊き込みご飯や秋刀魚の塩焼きのような秋が旬の料理。そしてキノコをや野菜をふんだんに盛り込んだ味噌汁。普段よりも仕込みに時間がかかるものばかりだ。
テーブルを彩る秋の味覚を流し目に見つつ夕華はぼそりと呟く。
「可愛い転校生にキスされたのがそんなに嬉しかったのね」
クラスメイトにとっても衝撃的だった突然のキスの後、ノワールはべたべたとナツキにくっつきクラスメイトたちはナツキとノワールをさらに質問攻めにした。二人が一体どういう関係なのか、キスはどんな感じなのか、といった具合に。男子であれ女子であれ中学生にとっては同い年の二人がキスをする光景それ自体があまりに刺激的なのだ。
結局、職員会議の時間になっても騒ぎは収拾がつかず帰りのホームルームはなし崩し的に切り上げられた。夕華の目の前でノワールはナツキの腕を取り、胸を押し当て、クラスメイトに煽られるままその後も何度も何度もナツキの唇にねじ込んでいた。下校を促す夕華の言葉など誰も聞いてはいなかった。
豪勢な夕食も喜ぶ気にはなれない。恋人が別の女と熱く交わっている様をまざまざと見せつけられて穏やかな精神状態なわけがないのだ。
「すまない……」
ナツキも伏し目がちに謝罪を口にする。向こうが勝手にしてきたことだと言い訳するのは簡単でも、それが夕華の気持ちの問題を解決するのに何の役にも立たないことを直感的に理解していた。誠意を見せるぐらいのことしかできなかった。
「別に。さあ食べましょう」
二人していただきますと手を合わせる。食事中に歓談はない。黙々と食べる。普段よりもずっと速いベースで箸が動く。それなのにナツキには普段よりもはるかに長い時間に感じられた。
夕華の怒る気持ちもわかる。ナツキは逆の立場になって想像してみた。もし新任の男性教師が夕華にいきなりキスをしたら。あり得ないシチュエーションだとわかっている。でもきっと、自分は狂う。狂ったように怒り、泣き、苦しむと思う。
ナツキは食事が喉を通らない。それは自分が辛いからではない。恋人を辛い気持ちにさせてしまった申し訳なさからである。茶碗に半分以上の米が残っているというのにごちそうさまでしたと手を合わせ、キッチンの残飯を片付ける。
夕華はまだ無言で食べている。ナツキはそれを見届けて今は独りにしておこうと肩を落としてその場を後にした。
〇△〇△〇
「よ! こんばんは暁」
「な……どうしてここに?」
さっさとリビングダイニングから自室に戻って来たナツキを出迎えたのは彼もよく知る相手。田中ナツキの自称である『神々の黄昏を暁へと導く者、黄昏暁』の名で呼んでくれる数少ない知人でもある。
パンクな半袖の黒いTシャツに、ライダースパンツ、肩にかかるかかからないかくらいのショートヘア。女性らしい色気を醸し出しつつも女性が惚れるカッコよさも併せ持つ若い美女。ロックバンドのボーカルでもやっていそうな風貌な彼女は北斗ナナ。
元々は京都平安京の授刀衛で二十八宿だったが抜け出して星詠機関の所属になり、巡り巡って現在は星詠機関日本支部の副支部長を務めるテレポート能力者だ。
ナナはナツキのベッドに腰掛けて脚を組みこちらに手を振っている。
「暁、アンタの部屋に来るのは二度目だね。それにしても中学生にもなってベッドの下にはエッチな本はナシ、と。夕華はそういうの厳しそうだからねぇ」
「ち、違う、元々そういうのに興味ないだけだ! いや、興味がないわけではないが……というか現在進行形で女性問題が起きていてこっちはてんやわんやなんだよなぁ……」
夕華、ナナ、そしてナツキの姉であるハルカは同じ高校で大親友だったので仲が良い。ナナは夕華の性格をよく熟知しているはずだ。だから夕華が性的なものに厳しいというのは本当のことだろう。当然、恋人が転校生とディープキスするなんて許すわけもない。
頭を抱えるナツキの背後は突如温かい感触に包まれる。柔らかい胸が潰れて形を変える。さっきまでベッドにいたはずのナナの姿は消えていた。この胸の形や大きさ、質感はナナで間違いない。どうやらテレポートしてナツキの背後に回り抱き締めてきているようだ。身長差があるので少々ナナが上から覆いかぶさるようになっている。
(胸の感触で女性を判別するのは我ながらマズいだろう……)
スピカも美咲もナナも円もエカチェリーナも、そして今日のノワールも、やたらと胸を当ててくる。嬉しくないというのは嘘になるが中学二年生という思春期真っ盛りとしては照れや緊張や興奮で頭がどうにかなるので自重してほしいものだ。
「窮屈な生活が嫌になってさ、息抜きしたくなったらいつでもアタシの部屋においでよ。いっぱいお菓子もコーヒーも用意しておくから。暁が望むならアタシはなんだってしてあげる。星詠機関日本支部のアタシの部屋は防音だし、それに誰も見ちゃいない。……アタシは暁の都合の良い女でいいんだ」
静かに穏やかに嫋やかに、優しく包み込むような言葉を耳元でそっと浴びせかけられる。
ナナは心の中で自嘲した。自分は都合の良い女なんかではない。ただのズルい女だ、と。
実のところ、星詠機関の優秀な諜報員によって国外から日本に侵入したとある能力犯罪者の動向は把握できている。今日、学校の教室で何が起きたのかも。
そしてナツキがキスをされた光景を目にした夕華がどんな状態になるのかも親友として想像に難くなかった。そんな二人の想いのすれ違いにつけ入るようにナナは甘い言葉でナツキを誘う。友情よりも愛情を選ぶ。ゆえに、ズルい女。
「ありがとうナナさん。ククッ、また今度、深淵の涅はいただきに行こう。だがその先はダメだ。俺はやっぱり夕華さんを裏切ることはできない」
背中からギュっと抱いているナナの女性らしく繊細な手にそっと触れて、温かいその手を名残惜しそうに、しかし固く強い意思でナツキは振りほどく。
「そっか。そうだよね。アンタは恋人がいるのに別の女に靡くような軟弱な腑抜けじゃない。……だって、アタシが惚れた最初で最後の男なんだから」
ナツキにも聞き取れないほど小さな声で呟いたナナはテレポートし、ナツキの学習机の上に座った。椅子に、ではない。机のテーブル部分に腰をかけている。スラリと長い脚を組んで。
ナナがパチンッ! と指を鳴らすと手元にタブレット端末がアポートされてきた。この汎用性もまたナナの三等級という高位なテレポート能力の長所である。
「さて、アタシがこっそりアンタの部屋にやってきた理由は他でもない。暁、気が付いてるだろう? 例の転校生は一般人なんかじゃあない」
「ああ。能力者だな。まだ能力の全貌は掴めんし、敵かそうでないかもわからんが」
「とりあえずこれを見てよ」
ナナが差し出したタブレット端末を受け取り画面の横向き三角形をタップして動画を再生する。
そこに映し出されたのは、残酷な映像。大の男二人が日本刀を抜き能力まで使ったというのに呆気なく殺される様だ。背景や周囲の状況からして場所は空港。そして嫌というほどゼロ距離で顔を見させられた少女の姿がある。
しかしナツキが注目したのはその少女の、揚羽ノワールの残酷さではない。もっと本質的な違和感だ。
(近くにいた一般人がどうして能力者同士の戦いにいきなり介入する?)
近くにいた子供が、大人が、スーツ姿の男たちの邪魔をしている。まるで糸に引かれて操られているマリオネットのようだ。動きにキレがない。たまたまあの場にいただけ、という様子。
また、最もショッキングな自分の頭に指を当てて自害した能力者も不自然である。ノワールと戦っている最中に自分で自分を殺すなんてあり得ない。
以上の状況証拠から導かれる結論は多くない。動画の再生を終えたタブレットをナナに返し、ナツキは口を開いた。
「他者を操る能力、ないしは催眠や暗示をかけて支配に置く能力。そんなところか?」
「うん。アタシらもそうやって結論付けた。暁も知っての通り平然とこの惨劇を引き起こした少女の名前は揚羽ノワール。大手国際商社に勤める日本人の父親とパリでモデルをしていたフランス人の母親がいる。昔は日本に住んでいたこともあるようだけど、すぐに親の転勤に合わせてフランスに引っ越してるね。欧米は九月入学だからこのタイミングで日本に転校すること自体は不思議じゃない」
「でも国外の能力者だからな。既に問題もこうして起こしているわけで、うちの学校に何らかの狙いがあるのは間違いないだろう。いずれにしたって放置しておくわけにはいかないな」
「そう。その通りなんだよ。ただね……」
ナナは申し訳なさそうにナツキの目を見つめる。言いづらそうにしている。
「一応、アタシたちも揚羽ノワールへの対策は議論しているところなんだ。もちろん能力犯罪者だから捕縛が基本なんだけど、下手に手出しできない」
「ああ。もし強力な能力者を送り込んでも、ノワールの支配下に置かれたら状況は最悪だ。相手の戦力が一方的に増える可能性がある。武装した一般人でもダメだな。武器ごと持ってかれる」
「話が早くて助かるよ。もちろん彼女の能力の等級は三等級だから万能じゃないはずなんだ。何らかの制約があるはず。でないと世界中の一等級や二等級の能力者を遠隔操作してとっくに世界は崩壊してるから」
「そうだな。能力の制約はよくある話だ。距離や人数、時間に制限があるとか、催眠をかけるための条件があるとかな。そこで俺に白羽の矢が立ったわけか」
ナツキの二つの人格のうち、現在の人格の方に目覚めた二等級の『現を夢に変える能力』は相手の能力を一時的に封じ込める。現にノワールにキスを迫られたときも発動していた。
たとえ相手が他者を操る能力を持っていても、ナツキであれば無効化して対処できる。
「じゃあ明日、揚羽ノワールを捕えればいいのか? それとも今から?」
一応は星詠機関に在籍していることになっているので、ナツキは国内での能力者の暴走や犯罪を取り押さえた経験もこの数か月でそれなりに積んできた。一時は無能力者でありながらその仕事をしてきたくらいだ。
夕食後ではあるが上司のナナの指令とあればナツキは今すぐにでも向かう用意ができている。
「アタシとしてはもちろん残忍な犯罪者を野放しにしておくわけにはいかないから暁に出撃してもらいたいよ。……でも、今日の学校のことがあっただろう? アンタの心情を考えると好意を示した同い年の女の子を倒すことに抵抗があるんじゃないかと思ってね」
「ククッ、情なら冥府に置いてきた」
「そっか。うん、わかった。やっぱり暁は強いね。能力や戦闘力だけじゃなくて、心がさ。とりあえず、揚羽ノワールが日本で拠点にしている住居の位置情報は送っておくから。もし今すぐが厳しかったら、明日でもいいからね」
そう言ってナナはタブレット端末を操作してナツキのスマートフォンにデータを転送、その後ナツキの頭を撫でてからテレポートでいなくなった。
身支度するナツキの視界の端で幼い自分が宙を漂っており、声をかけてきた。
『揚羽ノワールっていう女の子、倒すのかい?』
「倒すというか、捕まえるんだろう。別に殺しはしない。それに相手は複数の武装した能力者を気軽に殺害してるんだ。放置しておくのは危険だろう。わざわざこの国に来てまで何をしたいのかもわからない」
『でも僕にキスをしたときの様子は本物だったよ。彼女は、僕を好きなのかもしれない』
「それでもだ。もしあんな美少女に好意を向けてもらえるなら光栄な話だが、それは誰かを殺していい理由にはならない」
『……そう』
奥歯に物が挟まったような物言いの幼い自分を不思議に思いながらもナツキは外出用の格好に着替えた。九月は夏であって夏ではない。床につきそうなほど長いこのマフラーが役に立つくらいには夜は冷える。
夕華に機嫌を直してもらうためにも早々にこの件は片付けよう。ナツキは意気込んで自室を後にした。