第290話 転校生
「皆さん始業式お疲れ様でした。この後夏休みの宿題を回収し、掃除をしたら下校になります。掃除の班分けはひとまず一学期から引き継いでそのまま行いましょう。また、今日は部活動はありません。職員会議等で顧問の先生たちもいなくなりますから、用事がない人は速やかに下校するようにしてください」
立て板に水とはこのことだ。帰りのホームルームにて夕華は淀みなく連絡事項を話し終えた。凛としていて堂々とした美しい声に魅了されているナツキをよそに、他の生徒たちは宿題という言葉にうめき声を上げている。
やれ数学の宿題は解答を写したから途中式を書いていないだの、社会科に宿題があること自体忘れていただの、英語はスマートフォンの翻訳機能を使っただの。自宅に置いてきてしまったと言っている者はもっと悪質だ。大抵そういう奴はそもそも宿題をやってきていない。
全部聞こえているので夕華のこめかみがわずかにピクピクと震えている。じっと目を凝らさないとわからないほど、ほんの少しだけ。そして寂しそうな、悲しそうな陰が表情に暗く差した。
きっと生徒たちの怠惰な態度に対してではない。生徒たちの将来の力にならないことに対してなのだろうとナツキは想像する。
一学期の終わりごろ、自宅のダイニングテーブルで夕華が地元の高校の入試過去問を開いているのを見かけたことがある。英語科の担当なので英語の過去問だ。
どうして二年生の担任なのに三年生向けの過去問を読んでいるのかナツキが尋ねたら、『二年生の内容からも入試は出るのよ。みんなが来年受験生になったとき少しでも役に立つように……夏休みの宿題もただ既製品の問題集のページを指定するんじゃなくて、過去問の抜粋でオリジナルを作ろうと思っているの』と言っていた。
もちろん夏休みに勉強なんてしたくないほとんどの生徒たちからすれば迷惑な話だろう。だがナツキは夜遅くまで作業を続ける夕華の姿に胸を打たれた。自分の初恋の人はこんなにも素敵なのか、と。
ちなみにナツキは元々宿題などする気はまったくなかったが、一生懸命な夕華の姿を見て他の科目の宿題も仕上げてきた。しっかりと鞄に入れてもってきている。
「……宿題を後ろから前へ回していってください。国語、数学、英語、理科、社会、美術の順です。美術の水彩画の画用紙は折ったり曲げたりせず、絵具がきちんと乾いているのを確認してからお願いします」
淡々と冷たく言い放つ夕華の表情にナツキは自分の胸まで苦しくなっているのを感じた。
〇△〇△〇
朝と同じで浮ついた空気感の教室。宿題の回収を終え、夕華は各教科の宿題が人数分あるか数えたり忘れたと報告に来る生徒たちの科目と名前をメモしたりしている。
待たされている他の生徒たちは早朝に睡眠時間の短さを自慢したりテスト前に勉強していない自慢をしたりするのと同じで、どれだけ宿題で手を抜いたかを得意げに披瀝しあっている。
そんな下品な喧騒を縫うようにコンコンとノック音が鳴った。扉に目を向けると引き戸の小窓から校長が顔を覗かせている。校長が手招きをして夕華を呼び寄せる。何事かときょとんとしたまま夕華は廊下へと出た。
「どうかしたんですか校長先生」
「ああ、うん。ホームルーム中にすまんね。実はね……」
校長が口を開き何かを言いかけたそのとき、階段を昇るカツンカツンという足音が蒸し暑い廊下に冷たい打ち水のように響いた。
夕華は形容できない違和感に襲われる。あえて言葉にするなら、そう、歪だと思った。
その人物からはずっしりと重たいオーラが腹の底にあるような印象を受ける。それなのに身体から滲み出るのは愉快で軽快なピンク色のオーラなのだ。
底知れない不気味さに眉を顰める夕華には目もくれずその人物は周囲をキョロキョロと眺めている。
「ふーん、ここがナツキくんの通う学校かぁ。うふ、私と彼の青春の舞台にぴったりな地味さは好みかな。だって物語の主人公は彼と私だものね。他はぜーんぶ端役のおまけ。ね、担任の先生もそう思わない?」
「え、ええと、あなたは……」
「空川先生、私から紹介しましょう。こちらはフランスから来日した転校生の揚羽ノワールさんです」
夕華の質問も校長の紹介も全て無視してノワールはずかずかと教室の扉を開けた。『ちょっと、待ちなさい』と夕華も追って教室へ入るがノワールはやはり無視している。
ノワールが教室に入った途端、煩い喧騒がぴたりと音を止めた。誰もかれもが視線を釘付けにされる。ノワールはチョークを一本手に取り黒板に揚羽ノワールと丁寧に名前を書いた。
「皆さん、初めまして。今日からこの学校に通うことになった揚羽ノワールって言います。フランスと日本のハーフで、日本には小さいとき住んでました。でもでも、転校してきたばかりでわからないことだらけですので、色々と教えてもらえると嬉しいです」
にこりと微笑む。次の瞬間、静寂は歓声に変わる。主に男子だ。
すらりと伸びた鼻筋や上向きのまつ毛、ぱっちりと大きなアメジストのような瞳。西洋の血が混ざったノワールの顔立ちはまさにフランス人形を思わせる。身長は中学二年生の女子としては平均的だが胸は突き出るほど大きく、白いワイシャツの胸部は張りのある膨らみに引っ張られて丈が足りなくなり下腹部やへそがチラチラと見え隠れしている。
腰まであるウェーブのかかった金色の髪をゆるやかなツインテールにしていてヘアゴムには青い蝶の髪飾りがついている。日本人の血も流れていると言うだけあって黒髪のインナーカラーが入っており、黄金のようなゴージャスな金髪と漆のような艶やかで深みのある黒髪が彼女の気品を際立てる。
「転校生がいるなんて聞いてないわ。あなた、本当にこのクラスの、いいえ、この学校の生徒なの?」
普通、二学期からの転校生は夏休みに手続きをするし編入クラスの担任には綿密な相談が行われる。夕華の疑念も当然だった。
ノワールは睨むように視線だけ夕華に向ける。濃紫の視線を。紫色の両眼が淡く光る。
ノワールが何かをしようとしたそのとき。
「ねえねえ、揚羽さんは彼氏っているの?」
「なんの部活入るの!?」
「放課後よかったら街を案内するから僕と二人きりで駅前に行こう!」
「フランスってやっぱりみんなお洒落さん?」
生徒たちが目を輝かせてハイ! ハイ! と手を挙げながらノワールを取り囲む。女子はノワールの友達になることで自分の価値を高めようとして。男子は自分にもワンチャンスあるのではないかと期待して。もちろん純粋な興味で近寄る者たちも多くいるが、基本的には大なり小なり下心があった。
特に男子は瑞々しいノワールの薄桃色の唇や夏休みに食べたスイカよりも大きい胸に視線を釘付けにされ、中には前屈みになり席を立てない者すら出てくる始末だ。
クラス中が色めき立っているというのに、ただ一人、ナツキだけは興味なさげにしている。別に朝のように孤高を気取っているわけではない。本当に興味がなかった。
中二病としては転校生というある種の『属性』に特別さを見出すこともあろうが、本物の能力者との命のやり取りを潜り抜けてきたナツキからすればその程度の特別感は騒ぐほどのことではない。
それに、ナツキは夕華という恋人もいる身の上なので容姿が優れていると周囲が騒いでいても諸手を上げて近づくような真似をする気はハナからない。
さらに付け加えるとナツキ以外のクラスメイトたちが教壇の前を取り囲んでいるのでナツキの席からは既に転校生とやらの姿はつま先すら見えない。夕華が懸命に席に戻るように生徒たちに呼びかけているが誰も聞く耳を持ちやしない。
ハァ、と溜息をつく。馬鹿らしい。教師を困らせ、転校生とやらも困らせ、欲求を満たそうとするクラスメイトたちが醜悪に見える。
あらゆる自己実現は自分自身の中で完結しているべきなのだ。それこそが中二病の矜持。憧憬と真摯に向き合えば自ずと視座は裡に向く。
学校ではあまり目立つようなことはしたくないが、夕華にこれ以上の負担はかけたくない。それにさっさと下校したい。ナツキはクラスメイトたちを鎮めようと机に両手をついて重たい腰を上げた。
まさに同じタイミングで、教壇の前の人込みの中からひと際大きな声が聞こえてきた。
「みんな、ちょーっと空けてもらってもいいかな?」
転校生を取り囲んでいる生徒たちがモーセの海割のようにサーっと左右に開いた。ノワールはナツキを視界に収めるとヒマワリのように表情を明るくし、小走りで近づいてくる。
ナツキとしては初対面の転校生がいきなり距離を詰めてくる状況に対して本能的に身構えざるを得ない。今日まで散々たくさんの相手と戦ってきたので警戒心は人一倍強くなっているのだ。冷静に考えて、見ず知らずの人物が、それも整った容姿の少女が近寄って来たら詐欺や不意打ちを疑うだろう。
(な……それにこいつ、能力者か!?)
クラスメイトに囲まれていたときは見えなかったが、ノワールは澄んだ紫色の瞳をしている。それに気が付いたナツキはただちに転校生が三等級の能力者であると結論付けた。
三等級ともなると無防備な相手を一撃で殺害するなど容易いだろう。身近な例で言えば距離無制限のテレポーターである北斗ナナ、質量のある幻覚を生み出す牛宿充、膨大な物量の氷を生成する犬塚牟田などなど。
千里眼のごとき超視力や超聴力をもつ虚宿秀秋のように攻撃的でない能力の者もいるが、強力なチカラであることには違いない。
ナツキは赤と青のオッドアイのうち、青い左眼に意識を向ける。青い左眼に淡い光が宿る。
赤い右眼が幼少期のナツキの人格に宿った一等級『夢を現に変える能力』という最上級の能力であるのに対し、青い左眼は現在のナツキの人格において覚醒した二等級『現を夢に変える能力』。それは目の前にある異能力という現実の事象を己が夢想に世界へと取り込み、一時的に能力を封じ込める代物だ。
(ククッ、こっちの能力は破壊力にも利便性にも欠けてしまうが、こういう場面で咄嗟に相手の手札を封じるのには最も有効!)
急接近してくる転校生の少女がどんな凶悪な能力で自分を害そうとしてきても今はその能力は発動しない。さあ、殺せるものなら殺してみろ。ここから先は地力の戦い。ナツキは腹を括る。すぐに反応して動けるように半身になって腰を落とす。
足元に届くほど長い黄金のツインテールが暖かい秋風に吹かれて揺れる。ノワールは前のめりになったまま勢いよく飛び込んで、そして──。
「ナツキくん、やっと、やっと会えたね。ん……」
背伸びしたノワールはナツキの首に両腕を回して抱き着き、迷うことなく口を合わせた。唇と唇とがゼロ距離になる。ちゅ、などというチープな擬音では表現できないほどノワールは深く深くナツキの口腔に侵入する。
ノワールの舌が器用に口の中へ滑り込む。それ自体が別の生き物なのではないかと混乱しそうになるほど柔らかく、なおかつ大胆な動きでナツキの舌を見つけ出し絡め取る。
ミルクより甘くてサイダーより刺激的な唾液が送り込まれて脳がチカチカと明滅した。
「ぷはぁ。ナツキくん、これね、私のファーストキスだよ。うふふ、嬉しい。嬉しいなぁ。そもそも両想いの私たちが今まで離れ離れになっていたのがおかしいんだよね。これからはキスだけじゃなくて、私が今まで大切に取っておいたハジメテをいっぱいいっぱいあげちゃうから。あ、でも心配しないで。私は重たい女じゃないから責任取ってなんて言わないよ。だってそうでしょ? 責任は取るものでも取らせるものでもない。夫婦で一緒に背負うものなんだもん」
首に両手をかけたまま上目遣いでノワールはまくしたてる。密着してくる身体の質感を感じさせられる。近くで見ると肌は神々しいほどに白く、ゆえに泣き腫らしたような目元の薄赤色のアイシャドウが際立つ。垂れ目がちで涙袋があり、長いまつ毛は自然と上を向き、吸い込まれそうになるほど大きくて存在感のある眼をしている。
熱く湿ったまなざしがナツキを射抜く。綺麗だ。綺麗なのだが、ハイライトがなく、一度その深みにハマったら二度と抜け出せないような底知れない不気味さがある。
「揚羽さんってあの痛い中二くんと知り合いな感じ? まじ?」
「て、ていうか、いきなりキスなんて大胆すぎ……」
「な……そんな……俺たちのノワールちゃんが……」
「おい馬鹿、何が俺たちのノワールちゃん、だよ。俺のノワールちゃんだよ。俺と付き合って今日は放課後デートする予定だったのに、なんであんな冴えないコスプレ野郎と……くそぉぉぉぉ!!」
「あいつより俺の方が顔は良いのにどうしてだよ……」
教室が騒然とする。女子は顔を赤くしつつ驚いていて、男子はせっかく退屈な学園生活に清風が吹き込んだのに天国から地獄に突き落とされて阿鼻叫喚。
ナツキ自身もなにがなんだかさっぱり状況が飲み込めない。クラスメイトたちはどうでもよいが、ふと視線を夕華に向けるとコキュートスより冷たい無表情でこちらを見つめている。
(いや、俺だっていきなりキスされてもコイツのことは知らないし無関係だ!)
懸命にアイコンタクトで無実を主張するも、夕華の氷のような表情は一切崩れない。
そんなナツキの苦労も知らずにノワールはさらに胸を押し付けながら身体を寄せ、心から幸福そうな笑顔を浮かべて耳元に近づいて囁いた。
「だーーいすきな私の王子様。これからはずっと一緒だよ。ふ~」
シュガーシロップのような甘ったるい吐息が耳から脳へと駆け巡りゾクゾクと背筋が震える。嫉妬も羨望も一身に受けたナツキは冷や汗が流れるのを止めることができない。
波乱の予感は大いに当たることとなる。寄せては返す荒波はナツキをどこか遠くへ流してしまうのか、はたまた新たな航路へと導くのか。今はまだ誰も知る由もないことである。