第281話 無数の双眸
「帰ったぞ」
「おかえり聖ちゃん」
「……ただいま。カナタ」
海に作られた氷道からジャンプして一跳びで船の甲板に着地した私は誰に対してというわけでもなく帰ってきたと告げた。一人暮らしでもついただいまと言ってしまうみたいに、これは私のクセみたいなものだった。きっとこの船を家みたいに思っているからだ。
だから、そんな何気ない言葉に返事があって思わず面食らった。ただでさえ色白で痩せ細っているのに少しやつれた様子。いつも以上に不健康そうだ。私が戦っていたのは半日程度だというのに。
「どうして妾が帰ってくるのがわかったんじゃ? 『バタフライ・エフェクト』で未来を確認したのか?」
「いいや。勘だよ。男の勘。そろそろ戻ってくる気がしたんだ」
「それを言うなら女の勘じゃろう」
──クスリと笑う聖の姿を見て、安心しきったカナタは肩の力が抜けた。チャーリーには自分のできることをやれなどと言ってしまったが、実際はそのやるべきことすら心配で手が付かずこうして迎えに出てしまったのだ。自分の甘さがまったく嫌になる、などと思いつつもカナタは聖の無事な姿を誰より先に目にすることができて小さな歓びを感じた。
「セレスたちはまだ戻っておらんのか?」
「聖ちゃんが一番乗りだよ」
「そうか。カナタ、頼みがある。皆を集めてほしい。少し話したいことがあるんじゃ。告げ次第、妾はセレスたちの援護へ向かう」
〇△〇△〇
「それはたぶん……俺の責任ですね。身内ばかりだからって薬品管理を甘くしてました。科学者失格ですよ」
アルコルは悲痛な面持ちでそう零した。
チャーリーの死、その状況を私は詳らかに説明をした。この場には私、隣にカナタ、それからヒイロ、アルコル、そして赤ちゃんを抱いたティアがいる。
「ではあれはやはり妾たちが使った……」
「そうですね。能力者化の注射。適性のない人間が使うのはハイリスクであることはシミュレーションするまでもなく明らかでしたけど、まさかそんな風になるなんて……」
「アルコルくん、僕はそんな気にする必要はないと思う。チャーリーくんだって理解してくれていただろう? 自分のできることを、やるべきことをやるって。彼にとって心からしたかったのは少しでも聖ちゃんの力になることだったんだ。それが彼自身の選択なんだ。たとえその結果として命を失うことになってもね」
カナタは氷のように冷たい表情で突き放すように言い放った。でも、裏腹に不思議と彼は泣いていた。
「聖ちゃんは命を懸けて戦ってる。だから彼だって命を懸けたんだ。それが彼なりの誠意だったんだ。ハハ、敵わないな。僕は男として……同じ女性を好きになった男として、彼に心からの敬意を送りたい」
自嘲気味なカナタの目はそれでもいつになく真剣だった。カナタは私の手を固く握った。
哀しさもある。それなのに嬉しさもある。相反する二つの感情が私の中で両立している。よく知った子が亡くなって哀しいのに愛されていると知って嬉しいと思ってしまう私がいる。それが醜く思えて仕方ない。
カナタから愛され、チャーリーからも愛された。私はここに来てから大勢の人に愛された。それは友愛。それは親愛。そしてそれは、恋愛。
母からこぼれるくらいのたくさんの愛情を注いでもらった私には身に余る幸福だ。チャーリーの死という悲劇を前にして私に大きな幸福を享受する資格があるのだろうか。
その答えを私は出せずにいる。
そしてそんな私の複雑な気持ちをすぐに察したのはこの場の唯一の女性。ティアだ。
「聖ちゃん、チャーリーくんは幸せだったと思います。大好きな人のために生きて大好きな人のために死ぬ。それって本当に素敵なことなんです。だから後悔はしないで。これからずっと幸せに生きて、その人生の中で時々彼のことを思い出してあげる。それが遺された女にできるたった一つのことだと私は信じています」
両想いだったシリウスを亡くしたティアは私なんかよりもずっとひどく哀しんで、赤ちゃんが産まれたときは誰よりも嬉しかったはずだ。
ティアの言葉が私の胸のつっかえを取り優しく包んでくれた。こんなところまでティアは私の母親に似ている。
また泣きそうになるのをぐっと堪えて私は全員を見渡した。
「では、妾はなかなか帰ってこないセレスたちの援護に向かう。また船を空けてしまうが必ず全員で戻ってくるから皆は安心して……」
そのときだった。ぐらりと船全体が揺れる。そして響く轟音。轟音。轟音。一度や二度ではない。絶え間なく轟音が続き船はますます揺れる。轟音が轟音を掻き消すようにますます増えていく。十や二十ではない。もっと多い。百、千。いいやそれ以上。一か所だけでなく様々な場所から地鳴りがする。
「な、なんじゃ」
私たちは近くの壁や柱に掴まり揺れが収まるのを待った。五分ほどそうしているとようやく揺れと轟音は収まった。
「妾が様子を見てくる。皆はここで待機じゃ」
「聖ちゃん」
「なんじゃ?」
「僕らでもこれが何かわからない。でもこれだけは言わせてほしい。気を付けて」
「ああわかっておる。いってくる」
心配そうな顔をするカナタに私は精一杯の優雅な笑顔を見せてやった。せめて好きな男の前では一番魅力的な姿でいたい。たとえ、どれだけ胸のざわめきが大きく嫌な予感がしているとしても。
〇△〇△〇
甲板に出た私はその場で膝をついた。ああ、絶望したときに人は立っていられなくなるのか、と気が付かされる。
私は空を見上げている。曇天。違う。空を覆うのは雲ではない。白なのだ。でも雲のような自然の白ではない。作られた白。無機質な白。
「どういうことじゃ……」
美しい青空を覆い隠すように空一面から私を見下ろす者たち。
「どうしてなんじゃ……」
ほんのついさっき、私が殺した敵。
「どうして……どうしてジリオンが無数におるんじゃ!?」
何万ものジリオンが宙に浮き、空を、太陽を隠す。数多の赤い双眸が不気味な大群を成して私を見下ろし射抜く。そのあまりにも圧倒的な物量は私の心を圧し潰すのに充分すぎるものだった。
emit:放出
grief:悲哀、苦悩
zillion:無数の