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第277話 ジエチルアミド

 グリーフの赤い両眼が淡く光る。その視線がミザールを射抜く。ミザールの景色がぐるりと回る。


 空へ落ちる。地面が遠くなる。雲の大地に着地する。

 棘の生えた緑のツタが編み込まれ二人を囲うように巨大な立方体の籠を形成する。六面が覆われる。薄暗い空間で火山が噴火し籠の中をまばらに照らす。



(これは……幻覚?)



 ミザールは今しがた目の前で起きた奇妙な情景の転換を冷静に分析することを試みた。そうするだけの余裕が心と頭にあった。グリーフに殴られ蹴られされて身体からじんじんと鈍痛が響くおかげで頭がハッキリしているのはつくづく皮肉であるとミザール自身笑ってしまう。


 視界は明瞭。身体も動く。

 幻覚と言ってもこちらの精神を破壊するようなものではないらしい。倒すべき敵はしっかりと目の前に捉えている。



「いかがです? 地球人さん。ここはわたくしのための、わたくしだけの世界。苦悩と悲哀に満ちた理想の世界ですわぁぁぁぁ!!!」



 ナイロンのようなグリーフの白い長髪がバサバサとはためき、口角は高く高く吊り上がった。次の瞬間、ミザールの両足がボチャリと沈んだ。足元を見ると赤い池がミザールを中心に現れている。

 足がつかない。底なし沼のようにどこまでも沈んでいく。ミザールは青い両眼を淡く光らせた。グリーフ本人に対しては重力を用いた攻撃は効かなかったが、自分自身に対しては問題ない。


 ミザールは自分だけ地球の重力から解放された。池に沈むことはなく、そのまま数メートル持ち上がって浮遊している。空中を泳ぐように手で空間をかいた。グリーフへの吶喊だ。重力という武器がない今、ミザールは己の肉体で攻撃するしかない。



「とっと死になさいよ異星人ッッ!!」


「随分と主観的な発言ですわね。わたくしどもからすれば地球人の方が異星人ですのに」



 グリーフがトントンとつま先で小突くと地面から魚が現れてミザールを遮った。クジラほどの大きさの魚。ウロコは赤、黄、緑だ。レーザーディスクみたいに様々な波長の光を撒き散らす眼球が特徴的。

 魚は下から上へと空間を()切った。ミザールは拳をピタリと止める。どうせグリーフには届かない。魚が通り過ぎるのを待とう。


 そうして昇って行った魚はツタの籠の天井にぶつかるとぐにゃりと潰れて極彩色の雨粒となって降り注いだ。残ったレーザーディスクの眼球が二つぼとりと落ちてきた。眼球が割れて中からタコが出てくる。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と絶え間なく色が回転し続ける巨大タコだ。

 タコの足には吸盤が等間隔で並んでいる。そのひとつひとつが人の眼のようだった。まばたきを数度繰り返しギョロリとミザールを見つめるタコ足。ふにゃふにゃしたタコ足。数は八ではなく十も二十もあるけれど。


 それがギュインと伸びた。ミザールを串刺しにしようと音速で。ふにゃふにゃだったのは嘘みたいに固くまっすぐだ。ミザールは自身の重力を操り宙を浮く。彼女の真下を通るタコ足は、通り過ぎなかった。直角に急転換し真上へと伸びたタコ足。



(うそ、もう回避は間に合わない……!)



 タコ足に重力を付与したがグリーフ同様そんなものは無視して速度も落とさずに下から迫り来る。そうして複数のタコ足はシェフの早業のようにミザールの足首より下を五枚におろした。



「ここはわたくしの世界ですわ。法則も、存在も、全てがわたくしの想うがまま。さぁさぁ、わたくしの苦悩をあなたも味わいなさいな!!」



 平らな足首の断面ですんと立ちすくむ。

 ヒスパニック系アメリカ人の父譲りの浅黒い肌。ミザールはそんな自分の皮膚が水色になっているように見えた。さらにイタリア人の母譲りのブロンドヘアがショッキングピンクに燃えている。手の指がぐにゃぐにゃと六本にも七本にもなっていく。


 グリーフがタンと軽く地面を蹴ってミザールに肉薄。すっと伸びる白い右脚でミザールの左側頭部にローキックを見舞った。

 この位置関係ならば左側から衝撃が来て、身体は右方向に倒れる。そのミザールの直感をこの世界は許さない。


 顔の左側を蹴られたはずなのに、ミザールは背後から頭頂部を鈍器で殴られたかのように真下へと叩きつけられた。さらにグリーフはふらつき倒れかけているミザールの顔面に膝蹴りの追い討ちを狙う。

 顔への膝蹴りは下から上への攻撃なのに、ミザールの身体は左に向かって吹き飛ばされた。



(上下左右の感覚がおかしくなってる……? 違う。おかしいのは私の脳じゃなくて世界の方だ)



 地面を転がるミザールは眼がチカチカした。油絵具の筆を洗う水みたいに色々な色が目の前で混ざり合って視界がマーブルになり中心からエメラルドブルーのハイビスカスが咲いた。



「気持ち悪。これあんたの趣味? 地球ではこういうの嫌われると思うんだけどそっちの星では流行ってるの? ほんとセンスないわ」



 ミザールは口の端から垂れる蛍光グリーンの血を拭いながら立ち上がり悪態をついた。グリーフはあっけらかんと言い返す。



「わたくしが創り上げた世界はわたくしの感情と願望。痛みや哀しみそのものであると同時に解放ですわ。わたくしの主観。わたくしの客観。あなたの主観でどう見えるのか、その実存の持ち主はあなたですわ。もしも醜悪なものが見えているのならそれはあなた自体の醜悪さなのでしょう。わたくしは世界存立の方程式を投げかける最大権限者ですわ。その解を、すなわち『ゼロ』を『零』と見做すか『円環』と見做すか『ドーナツ』と見做すかを決めるのはわたくしではありませんもの」



 グリーフが両手を天に突き上げる。空間を押し上げる。ツタの籠の天井が黒く塗りつぶされ白いドットが生まれた。星々だ。

 

 宇宙があって世界が生ずるのではない。殊に此処においては世界があって宇宙が創成される。

 この主客転倒もまたグリーフの能力の一端である。



「わたくしの世界の奥行はどこまでもぶち上げて参りますわよおおおお!」



 気分の上がったグリーフの言葉はもはや意味を成していなかった。或いは、意味を成している言葉の並びをもうミザールは解すことができていなかった。どちらなのかをミザールは判別する術をもっていない。


 空から一筋の流れ星。きらりと白く線になる。線はどこまでも終わらない。徐々に大きくなり線は断面の点となった。点もまた徐々に大きくなり面になる。

 大気圏の熱を伴って真っ赤になった岩石がすぐそこまで迫っているではないか。流星は隕石。隕石なんて、ただの岩。ごつごつしていて不格好な、大きいだけの岩。それをありありと見せつけられている。


 グリーフの能力は自分だけの世界を創り出すこと。でも、その世界がどう見えているかはグリーフだけでなくその世界を生きる者が規定する。グリーフはただ野球のボールを投げただけなのかもしれない。弓矢を放っただけかもしれない。わからない。でも少なくともミザールには、それが隕石に見えていた。

 空の白いラインを絶望と悲嘆に結びつける彼女の深層意識がそうさせたのかもしれないし、そうではなく本当にグリーフは隕石を降らせたのかもしれない。


 既にミザールは精神を蝕まれていた。ある意味ではこれこそがグリーフの能力の本質だ。世界を創ることよりも創られた世界で認知にズレを与え、相手の意思人格に(ひずみ)をもたらす。知能を持つ生命体に対して圧倒的な有効打となる世界規模の精神攻撃。


 いずれにしてもミザールは、隕石という岩石の塊に潰されようとしていた。

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