第270話 月は無慈悲な夜の女王
漆黒の星天を紫紺の空が飲み込む暁の時間。朝焼けも霞むほどの爆炎が南米大陸南東部、サンパウロの街を破壊した。
私が東京でメイオールの襲来を経験をしたときも同じように街は火の海と化した。だが今回はそのときの比ではない。私自身この光景への感覚を言葉にするのは困難。でもあえて言うのなら……東京ではメイオールを運搬するのが目的だったのに対して今回は街を壊すことすらも目的に含まれているような……。
東京が火の海になった理由はあくまでメイオール襲来の余波と自衛隊の参戦であって、別に街を燃やすことは奴らの目的ではなかったはずなのだ。しかし目の前のサンパウロが灼熱の白光に包まれる暴力的な光景は悪意や破壊の意思を強く感じる。
「カ、カナタ、これは……」
「ああ……。メイオールだ」
呆然とするしかない。いつかはメイオールの第二波が来るかもしれないと思っていた。メセキエザの言う通り上級メイオールが来ることも知っていた。でも半年間何もなかった。その半年が私たちにきっとうまくいくという根拠のない自信と安心を与えていた。正常性バイアスや恒常性バイアスと呼ばれる心理現象だ。
「白い帯は三本じゃった。ということはメイオールのポッドは三つ。そうじゃな?」
「その三つのポッドの中身が普通の黒いメイオールである可能性はかなり低いと思う。メセキエザが言っていたように、上級種の可能性が高い」
「どうしてじゃ?」
「さっき言いかけたこと。メイオールが地球周辺のどこに居留していたのか。それは……」
カナタは南西の空を指した。陽が昇るのに伴って徐々に白んできた満月が浮かんでいる。
「月。地球の引力を利用することで最低限の燃料かつ簡易的な軌道計算で地球に飛来できる。僕の見立てでは、メイオールは月の裏側にいる」
「月、じゃと……?」
「そう。質量の違いから地球と月には引力の勾配がある。岩は山の上から地上へと簡単に転がり落ちるけど山の上に運ぶのは難しい。同様に、地球から月へ向かうのは大変だけど月から地球へ物体を落とす……というか飛ばすのは比較的ラクなんだ。ただ、月の表面積とこれまで聖ちゃんたちが倒してきたメイオールの量から逆算するとこれ以上の黒いメイオールは月にいないはずだよ。もしいるとしたら表側、つまり地球から見える位置にまで侵食していないとおかしい」
私は空を見上げて強烈な吐き気に襲われた。これまで私たちを夜空から見守ってくれていたあの月は、とっくにメイオールの手に落ちていたのだ。
いきなりメイオールは母星から地球にワープしてきたわけではない。少しずつ月にメイオールを送り込み、月を穢し、そして態勢を整えて地球への強襲を行った。
私たちが平和を謳歌していたそのときも、既にやつらはそこにいた。中学校で授業を受けていたときも、一人で食事をしていたときも、母と雑談をして笑ったときも。常に空から私たちを見張って殺し尽くしてやろうと虎視眈々と狙っていたのだ。
怒り、気持ち悪さ、不快感。メイオールへのドス黒い感情が背筋を這った。
「ポッドの中身は多数の黒いメイオールではなく少数のメイオールだと判断できるというわけじゃな。そして少数ということは、メセキエザが言っておった白いメイオール……」
ギリリと歯ぎしりをし大陸を睨みつける。警戒心と闘争心の火種が胸の内で着火して焦げ臭いほどに心を焼く。
外の轟音を聞きつけた他のアステリズムの面々も次々と甲板にやってきた。寝巻を着ているセレス、ミザール、それから白衣姿のアルコルとヒイロだ。
皆、焦土と化した南米の地平線を見渡して言葉が出ない。間違いなくメイオールの襲来であることはどんなに勘が鈍くとも察してしまう。
「……どうする? リーダー」
セレスはほどかれた金髪を撫でながら、ことさら『リーダー』という言葉を強調してそう言った。見方によっては挑発的。でも私はセレスの言葉のおかげで目が覚めた。そうだ。ここでは私がリーダー。目の前の出来事に衝撃を受けて立ちすくんでいる場合ではない。
戦うにしろ逃げるにしろ、向かうにしろ船内に戻るにしろ、私が皆を指示しなければならない。
その自覚を改めてもつことができた。
「セレス、感謝するぞ。……皆、聞いてくれ! 妾とカナタは空を駆ける三筋の白い帯を見た。あれはメイオールのポッドと見て相違ないじゃろう。これより、妾たちはメイオール第二波への対処を行う! 敵は三カ所に落下した。それぞれ妾、セレス、ミザールで担当することとする。準備が完了し次第この甲板に集合。以上じゃ!」
〇△〇△〇
東雲の朝焼けが海面をオレンジ色に照らす。東の空では水平線を昇る太陽の姿がある。さわやかなはずの朝の海風はずっしりと重たくジメジメとしていた。
再び甲板に集まったときセレスはいつもの格好に戻っていた。腋をあられもなく晒す黒のノースリーブシャツは骸骨の模様が描かれていて、胸の膨らみが骸骨の顔を歪めている。赤と黒のチェックのスカートは太ももの真ん中あたりまでしか丈がない。白と黒のボーダーのニーハイソックスがアクセントになり黒のショートブーツが全体の色調を整えている。黄金のような金髪はツーサイドアップにしていて、本場イギリスのガーリーパンクロックファッションだ。
ミザールは胸元の開いた白いブラウスに切れ目の入った黒のロングスカートだ。上にはベージュのコートを羽織っていて、全体的にシンプルながらも彼女は抜群にスタイルが良いので素材を存分に活かした格好である。
私の格好はいつも通り。セーラー服の上に和服の羽織りを纏っただけ。セレスが仕立ててくれた黒地に赤と金の刺繍が入った和服生地の羽織りだ。
「揃ったようじゃな。それでは、行くとするか」
まずセレスが。次に私とミザールが甲板の柵に足をかけ海面めがけて飛び降りた。空気抵抗によってスカートが捲れあがりセレスの黒レースの下着が視界に広がる。
先行したセレスは海面に着水する瞬間に手で触れて能力を発動。不純物の多く混じった海水を物質変換し、純水の氷へと変えた。船を囲うように海は部分的に銀盤へと姿を変える。
彼女の能力は触れたものにしか効果が及ばない。海水には触れているが海底の土や水中を泳ぐ魚までは変換されない。透き通る氷中にカチコチに固まって動けないでいる魚たちの姿があった。
氷の大地に私とミザールも着地する。私たちが立つ氷の大地から南米大陸に至るまでの間にさらに新しく三本の氷の道ができた。南米までざっと数キロメートル。
セレスは海面から手を抜いた。その手は濡れていない。水滴すら適当な気体に変換してしまえば一瞬で乾燥したも同然。
私たち三人は互いに顔を見合わせる。やるべきことは決まっている。飛来したポッドは三つ。ならば焦土と化したサンパウロにいるであろう上級メイオールも三人。人類のために一人たりとも生かしておいてはならない。
私は真ん中の氷の道。セレスは右の氷の道。ミザールは左の氷の道の前に立つ。
ポッドの落下地点はそれぞれ非常に離れていたので私たちが互いに救援に向かうことは難しい。かと言って三人で三カ所を順に回っていれば、自由になっている敵の残り二人が無防備なこの船を狙うかもしれない。
ゆえに私たち各々がそれぞれ一人ずつを相手にする。メセキエザは別格としても、それと同等程度と予想される白の上級メイオールが待ち受けている。怖くないわけではない。現に私たちは全員一度敗北を喫している。
でも行かないという選択肢はない。私たちは互いの健闘を祈り、落下地点へと続く氷の道を駆け抜ける。
朝陽が海面と氷道を照らす。大陸からは仄かに灰と煙の香りがする。
夜が、明けた。