第27話 最も黒い
ある屋敷の書斎で、壮年の男性がワイングラスを片手に窓の外を眺めていた。猛吹雪は魔物の嘶きのようで、ひとつひとつは小さな結晶であるはずなのに窓を鋭く叩いている。
バチバチバチ、と暖炉の炎が薪を燃やしている。その男性はまるで王族か貴族のような服装だった。シルクによって編まれた濃い紫のジャケットは室内着としてのリラックスさを有していながら、そのままどこかの城のパーティに出席しても恥をかくことはないだろう。
いいや。この地球に彼に匹敵する王族や貴族は事実としていないのだろう。
彼が空になったワイングラスを書斎の自身の机に置くと、側に控えていたタキシードスーツの老人がワインを注ぐ。老人と言っても背筋はひとつも曲がっておらず、老いを証明する顔のシワや白髪はむしろ熟練の経験や長い人生に裏打ちされた自信さえ感じる。
「セバス、また俺の馬鹿息子の一人が勝手をしているようだな」
「ブラッケスト様、ご子息とはいえ仮にもネバードーン家の次期当主になる可能性のある相手、最低限の敬意を払っていただかなければ……」
「研究にばかり目が眩んで出奔したんだ。馬鹿と呼んで何が悪い」
「心構えの話をしているのです。ブラッケスト様は万が一が起きることも織り込み済みで、いいえ、それを望んですらいらっしゃいます。そのためにご子息の皆さまを次期当主の座を賭けて争わせているのではないですか」
「そうだな。その意味ではあの馬鹿息子がこのネバードーン家の次期当主になり財団を率いていく未来もないわけではない。実際に能力者を人為的に増やすという着眼点は悪くない。だが馬鹿なのは事実だ。……ふむ、やはりワインはブルゴーニュに限る」
「三十年ものでございます。……せっかくならばグリーナー様の生まれ年を、と思いまして」
「ほう、あの馬鹿息子はもう三十になるのか。あれは……四番目の妻との子だったか」
「五番目の奥様でございます」
「そうか、そうか。俺も歳をとるはずだ。セバスはちっとも変わらんがな」
「恐縮でございます」
ブラッケスト・ネバードーン。
ネバードーン家の現当主であり、財団のトップ。財界では世界で最も重要な人物とされ、総資産は世界の先進国をいくつか合計してやっと釣り合う程度とまで言われている。
幼少期から仕えてくれている執事のセバスチャンの前ではこうして無邪気に振舞うが、その年齢は五十も半ばを過ぎようとしていた。十代の頃から何人もの妻を娶り、相続の権利を有する子供たちは男女合わせて数十人にも及ぶ。
筋骨隆々とは程遠いが、その体躯からは並々ならぬオーラが立ち上っている。相対するだけで相手を委縮させ畏れさせるそのオーラは実際の身長以上にブラッケストを大きく見せる。
尤も、そんな現当主を前に平然としていられるセバスチャンもまた常人とは一線を画しているのだが。
ワインを飲みながらブラッケストは吹雪を見つめ続ける。まるで彼にだけは吹雪以外の何かが見えているかのように。
「セバス、秩序がもたらすのは均衡でも停滞でもない。後退だ。争うことをやめた途端に生物は退化を始めてしまう。それは何もこの星に限った話ではない。人類が、国家が、都市が、そしてどこかの家族が。競って競って競い続けて、そうして意義ある進化を達成する。だから俺は俺の子供たちを争わせるのだ。それが前進の摂理だ」
窓ガラスにはブラッケストの顔が鏡のように映し出されていた。猛禽類のように鋭く獅子のように獰猛なその黒い瞳には一体何が見えているのだろうか。
〇△〇△〇
「ここね」
スピカを連れ立って件の工場跡地へと来たナツキ。あたりの衰退具合にナツキは思わず息をのむ。
「俺が子供の頃はここら辺は原っぱだったんだ。……両親は俺が幼い頃に亡くなって、姉や夕華さん……姉の友人が、よく俺を遊びに連れて行ってくれた。十年前のことだ。三、四歳の俺なんかと遊んでも中学生の二人はつまんなかったろうに、いつも放課後になると小さなボールを持って行ってキャッチボールをしてくれた。フッ、二人とも野球のルールなんてわからないのにな」
珍しく昔のことを思い出し感傷的になる。中二な口調がなくなっていることに本人も気が付かない。スピカも黙って聞いている。ナツキは遠い目をして続けた。
「シャボン玉を吹いてもらって追いかけた。木登りもした。虫を捕まえて、褒めてもらえると思って近づいたら絶叫されたこともあったけな。それがいつだか、地域振興だなんだと開発の話が進んでいった。重機が原っぱを均して、工場だけじゃなくて、商業ビル、公共施設、娯楽施設、色々と入って来たよ。子供ながらに全部なくなってしまえと願ったら、本当に開発計画は頓挫した。その有様がこれだ。何もかも中途半端に残っている。この工場も、ほとんど稼働しないまま放置されているんだろうな」
「……アカツキはここで待っていてもいいわよ。私ひとりでもきっとなんとかしてみせるから」
ナツキは新調した眼帯を外しポケットに突っ込んだ。心のスイッチが切り替わる。
「いいや。ククッ、大丈夫だ。つまらない話をしてすまない。それじゃあ行くとするか」
もはや体をなしていない門を通って敷地へと足を踏み入れる。
工場の本棟を前にし、半開きになった大扉から中を覗きこんで思わず呟いた。
「なんだこれは、台風でも通ったのか?」
「い、いろいろあったのよ!」
資材はバラバラになってそこら中に飛び散り、ベルトコンベアが捲れ上がって床に散乱している。ひしゃげた鉄骨や鉄パイプはとても人力でそうなったとは思えない。
二人で扉を引っ張って全開にし中に入る。寂れて使われなくなった工場に電気が通っているわけもなく、外の陽光を利用しないことには暗すぎてここに来た目的が達成できない。
「ククッ、それにしても地下室か。普通の工場にそんな設備はないんだがな」
「ええ。でも彼は工場から地下に行った記憶があるって言ってるんでしょう? 現状、私たちの手元にある情報はそれくらいよ。不安でも信じて突き進むしかないわ」
「違いない」
地下室というからには床からアクセスするはずだ。ナツキもそのつもりでいて、まずはこの広い工場の惨状を片付けることから始めると思っていたのだが、そのとき開け放ったドアから強い風が吹き抜けた。
ビュオーーという風の音とともに工場の壁上部に設置された窓ガラスがガタガタと鳴り、砂埃が竜巻のように舞い上がる。
目にゴミが入った、という状態を何十倍にも濃縮したような量の埃や塵が襲い掛かってきたので腕で顔を覆う。幸いにして口元はマフラーで隠されているので心配ない。
「なんだ……この風は……」
「私の能力よ。応用みたいなものね」
強風の中でスピカが涼し気に漏らす。顔を覆うナツキからでは、スピカの青い瞳が淡く光を湛えている様子は見えない。
(ククッ、自然現象を自分の能力だと言い張るのはやめた方がいい。実害が出たときあらぬ疑いをかけられる)
まるで実際に経験したかのような生々しい感想を抱きながらナツキは風が収まるの待つ。
実際。冬の乾燥した時期に山火事が発生した際、ナツキはついいつものクセで『俺の発火能力だ』と言ってしまったことがある。被害者がいなかったため大事にはならなかったが放火を疑われ、夕華にこっぴどく叱られたのだった。
こんなときでもブレずに中二な設定に忠実なスピカに尊敬をような感情を持ちつつ、同じ中二病の先輩としてはナツキは色々と思うところがあるのだ。……スピカは中二病ではないのだが。
風が弱まったことを肌で感じて顔を上げると、工場内の設備や放置されていたいくちもの資材が全て隅に寄せられていた。いつものナツキなら自然現象の風が都合よく吹いてその上これだけの出力を持つわけがないと看破するところなのだが、いかんせん能力の存在を知らないこと、加えて、工場のど真ん中に明らかに色の異なるタイルがあったことが彼の意識を逸らさせた。
「あれは……」
「あったわね。さあ、行ってみましょう」
七、八十センチメートル四方ほどの大きさの正方形のタイルは台所の地下収納のように折り畳み式の取っ手がついており、指を引っ掛けて手前に引くことで凸型の金属が出てくる。ナツキがそれを引っ張るとすぽんとタイルは抜けた。
「あったな、地下室」
「ええ。彼に残っていた記憶の残滓は本物だったようね」
中が暗いせいで底までどれほどの深さがあるかは正確にはわからない。しかし鉄ハシゴがかかっている以上は降りられるのだろう。ナツキとスピカの二人は一瞬顔を見合わせハシゴを下る決心をしたのだった。
作中の固有名詞についてルビを振り直しました。今後ともよろしくお願いいたします。