第259話 ヒエラルキーの最下層
「宗教勧誘かしら? それとも新手のナンパ?」
「いいえまさか。俺はいたって本気ですよ。世界を救う能力者になりませんか?」
「はぁ。馬鹿らし。もっとマシな誘い文句を考えてきなさいな。それにこんなドブ臭い世界、滅んだ方がいいわね。救う価値もない。ほら、周りを見てみなさいよ。弱者から吸い上げたカネを欲に塗れた手で振りかざすこの街を。まったくイヤになるわ」
「それはごもっとも。でも俺の話に乗るのが得策だと思いますけどね。もし、あなたが大切な人を守りたいと言うのなら……力が必要だ」
「それっとどういう……」
白衣の男は手を天にかざした。指が一本、ピンと立っている。空を見上げろと言わんばかりに。
ミザールの目にはいつもの濁った空が映るだけだ。繁華街の明かりで見えなくなった星々。急速な発展によって空気は汚れて靄となり街を自然から切り離す。
目線を戻すとそこにはもう白衣の男はいなかった。大切な人を守りたいのなら力が必要だという彼の言葉が何度も頭の中でリフレインする。靴の裏にくっついたガムみたいに剥がれ落ちずに何度も何度も何度も。
その後、今晩もミザールは穢れたカネで食べ物を買い、雑貨を買い、自分の商品価値を高めるための化粧品や下着を買う。朝になれば再び水上スラムに行こう。皆に届けよう。
南半球の十二月は暖かい。ことラゴスの場合、年中暑い。じめっとした夜風が肌にまとわりつく。日の出までの間、通りのベンチに座って時間を潰す。スラムは電気が通っていないので暗いとカヌーで道に迷ってしまうからだ。
白衣の男の言葉を繰り返し反芻する。力。それは権力、暴力、経済力、色々だろう。彼が何を指して力と言ったのか。また、その力は誰に対して向けるものなのか。
そんな詮無いことを何時間も考えて朝を迎える。空が明るく白む。両腕いっぱいの買い物袋を抱えてスラムへと帰ろう。そう思ってベンチを立ったとき。
空を何かが覆う。線というよりも帯。
星が、降っていた。
白んだ空にもっと白い帯が降り注ぐ。爆発の轟音、立っていられないほどの地響き。いくつもの高層ビルが倒壊を開始した。
続いて人々の叫び声がこだました。絶叫の根源は恐怖。鳴りやまない叫びが恐怖を伝播させる。都市の最も中心となっている場所から郊外へと走る人。人、人。
大勢の人間の住んでいるビルが不自然に破壊された。まるで誰かが土台部分をめちゃくちゃにしてしまったみたいに。大勢の人間が死んだ。ミザールはあたりをとにかく見渡す。何が起きているのかを目で追う。
ああ、あれは。かつて自分が住んでいて現在も両親が住み続けている高層マンションが崩れ落ちた。
人の営みが壊されていく。ミザールには、実のところ恐怖心はなかった。むしろ痛快だった。穢れたこの街が浄化されていく。そんな感覚すら抱いてしまっていた。
まるまると太った金持ちの男が走って逃げている最中に転んだ。何をそんなにも焦っているのか。何から逃げているのか。ミザールの問いに答えるように黒いソイツらは現れた。
人型であって人間ではない。骸骨を後頭部だけ引き延ばしたかのような長い頭。トンボのような複眼。均一な歯が隙間なくびっしりと並んでいる。金属のような黒い筋肉がむき出しで、尻尾は地面をこすり、手足にはそれそれ三本の指と鋭い爪。
ソイツは歯をカタカタと鳴らしながら、尻もちをついた男をただ踏んだ。ただし尋常ではない膂力で。ぶちゃり。上半身と下半身が断裂して男は死んだ。
嬉しくてつい口角が上がってしまう。この国には、この街には、死んだ方がいい人間が多すぎる。ミザールは彼らの心配や自分の心配すらもせず、スラムの彼らのことを考えた。
(あの黒いバケモノは街の中心からやって来た。ということはスラムに来るまでは余裕があるはず)
幸いスラムは水上。全員がカヌーを持っている。陸が危険でも海に逃げればやり過ごすのは簡単だろう。ミザールは黒いソイツらに気が付かれないようにいち早くスラムへと向かった。
〇△〇△〇
そこは地獄だった。高そうな服を着てぶくぶくと太ったカネのある連中が、スラムの人たちを引きずっている。『肉壁になって時間を稼げ!』と誰かが叫んだ。海へと通じる河口では都市部の人間がスラムへと殺到しもみくちゃになっていた。黒いソイツらは人の多い方へと走って進む。
(これじゃあの子たちのところに行けないじゃない)
ミザールは壊れた家屋に身を潜ませて様子を窺っている。内地に近い陸のスラムの住人は殺到した都市の人間とまとめて黒いソイツらに殺されていく。
鋭い爪で心臓を貫かれ、太い黒腕で身体を引き千切られ、尻尾をぶんと振ると首が刎ねられる。
一通り殺し尽くしたところで、黒いソイツらは船が停まっているを見つけた。十数人ほどのソイツらは歯をカタカタと鳴らした。それが笑っているように見えて気持ち悪い。
(まさかあいつら、水上スラムに……!)
そう思ったときには既にミザールの身体は動いていた。武器なんてない。馬鹿な男を誘惑するために肌の露出の多い薄着姿で、黒いソイツらに向けて買い物袋から取り出した果物を投げつける。
べちゃり、と果物はソイツらの肩に命中した。果肉が飛び散る。ソイツらはきょとんとして肩の汚れを見やり、続いてミザールを軽装を見て、カタカタと歯を鳴らした。やはりあれは笑いの意味があるようだ。嘲笑、侮蔑、憐憫。
ミザールの足が震えている。それでも。
(あの先には水上スラムがある。あの子たちがいる。……これ以上、あの子たちを理不尽な力に晒したくない!)
まず、貧富の格差という経済力が彼らを虐げた。次にスラムの人間なら肉壁にしてもいいと思っている傲慢な連中の権力が彼らの命を奪った。そして、今、バケモノたちの暴力によってこのままでは大切な子供たちが殺されてしまう。
こんな不条理が許されるのか。同じ人間からもチカラを向けられ続け、星降るバケモノからもチカラを向けられている。ただ懸命に生きているだけなのに、泥をすすってでも命を繋いでいるだけなのに、世界は残酷な運命を彼らに突きつけ続けるのか。
「あの子たちはね……私が帰って来ると笑顔で出迎えてくれるのよ。私が外でカネ稼いでからは誰も悪事には手を染めていないし、近所のもっと小さい子供たちのお世話だって嫌がらずにしてるし、洗濯だって上達してるの。それを……あんたらバケモノには奪わせない!」
何事か、と黒いソイツらは都市の中心部からさらに何人も何人も現れて数十人規模にまで膨れ上がった。ミザールは知る由もないが、都市部の住人はそのほとんどが既に殺されている。残すはスラムのような街のはずれに住居を構えている者たちだけだ。
わずか数十分で、アフリカ随一の都市は壊滅したのだ。
「お前たちチカラを持つ連中はいつもそう! 下層で生きる人たちの気持ちなんて何も考えていないじゃない! 自分たちの私利私欲のために平気で他者を傷つける。そのせいで、下層の人たちは生きるためにまた別の誰かを傷つけることを強制される。……そんなの、そんな理不尽って、ないじゃないの!」
この黒い異星のバケモノが何者なのかなんて知らない。だが、ミザールの中で燻っていたチカラある者への怒り、反骨心、慟哭が爆発した。チカラは一種類ではない。経済力、権力、暴力。ミザールは弱者を虐げるあらゆるチカラを許さない。弱者に目を向けようとしない全てのチカラを嫌悪する。
黒いバケモノたちが歯をカタカタ鳴らした。数十人もいるとそれだけでカタカタカタカタと連鎖し反響し不気味なカスタネットの大合奏のような様相だ。
そのうちの一人が、尻尾を引きずりながら人間のように左右の腕をしっかり振って全力疾走をしてきた。ミザールのような無力な弱者を殺害するのに数十人もいらない。一人でいい。
「……それでもッ! 私は大切な人たちを傷つける全てのチカラに反逆する!」
足の震えは止まった。弱い人たちを、大切な彼らを、守りたい。そのためならここで死んでもバケモノどもを食い止める。ミザールにはその覚悟があった。
そして、彼女の背後に立つ人影があった。
「だったら、反逆してみせてくださいよ。俺はそんなあなたを肯定します」
ぴたりとミザールの背後に張り付くように白衣の男が立っている。手に持っている注射器には赤い液体がいっぱいに入っている。ミザールは声に気が付いて振り向こうとしたが、それよりも早く、白衣の男は注射器をミザールの首に刺しピストンを押して液を注入する。
その間も、黒いバケモンは走って近づいてくる。ミザールのようなか弱い女はラリアットをされただけで内臓をあたりに巻き散らすだろう。そう、か弱い女なら。
「俺にできるのはチカラを与えるだけです。それが俺たちを救うかどうかは……『天才』の俺のバタフライ・エフェクトでも見えない未来だ」
ミザールは叫びながら蹲る。喉が千切れそうなほど絶叫する。
「うあぁぁぁぁぁぁぁッッッッッ!!!!!!!」
ドクン、と身体全体が脈打った。血液が沸騰したかのように全身が熱い。脳が焼き切れそうだ。
自分の中に新しいもう一つの自分が出来上がるのを感じる。
チカラを振るう者への憎悪。あまねく悪意への憎悪。弱者を無視し、見下し、虐げる全てのチカラをミザールは許さない。
心が体に染み渡るような感覚があった。
ぴたりと叫び声が止む。
チカラのヒエラルキーの最下層から、上層へと反逆する意思が形になっていく。
ミザールはへたり込んだまま俯いている。
その両眼は、青い。
「……見ろ」
ミザールは立ち上がる。黒いバケモノが鋭い爪を振りかぶる。
「弱者が這い蹲る下を見ろッ!」
ドンッ! と地面にクレーターが出来上がる。爪がミザールに届くことはなく、グギャ、と変な呻き声を上げながら黒いバケモノは地面へと沈み込んでいた。
「もっと!」
ミザールが叫ぶと、さらにドンッ! と力が加わり黒いバケモノは深く沈む。身動きが取れず立ち上がることはできない。
白衣の男は少し離れたところでミザールを観察し呟いた。
「弱者、下層、つまり下を見るよう強制させる怒りのチカラですか。俺が思うにそれは」
──重力を操る能力。
空を見上げるばかりでクレーターから抜け出せない黒いバケモノを、ミザールは踏み抜く。断末魔を上げる間すら与えずソイツは絶命した。
ミザールは遠く数十人のソイツらを睨みつける。
次の瞬間、黒いバケモノたちが一斉に地面へ這い蹲った。暴力の頂点にいたはずのソイツらは、下へ下へと引っ張られていく。まるでヒエラルキーの最下層へと転がり落ちるように。クレーターが何段も何層も新しくできて身体が沈んでいく。
ソイツらが上へ戻ってくることは、もうない。