第258話 ところで能力者になってくれませんか?
アフリカ最大の都市、ナイジェリアのラゴス。都市の総人口は一〇〇〇万人を超え、東京やニューヨークに勝るとも劣らない大経済圏だ。アフリカ大陸の中でも中央~西部に位置しており、北中南米とは大西洋を挟んで隣ということもあって様々な国籍や人種、宗教が入り乱れる国際都市である。
ナイジェリアの総人口は日本のおよそ二倍。二億人を超える。その巨大市場にビジネスチャンスを求める者、物珍しさでアフリカ旅行に来る奇特な者、或いは現地に住む者が雑多に溢れているのだ。一九九九年の年末はいつになく忙しなく、どこもかしこもごった返していた。
ミザール・ディアスもまた、悲喜交々が膨れ上がるラゴスの街で生きる二十歳そこそこの女である。ヒスパニック系アメリカ人の父とイタリア人の母を持ち、ラテン系特有の浅黒い肌とイタリア系特有の美しいブロンドヘアが特徴的だ。
長い髪をかき上げながら高層ビルの隙間から覗く鈍色の空を見つめる。薄黄色のワンピースドレスの中を生暖かい風が通り過ぎて行った。
誰もがせかせかと動いて生き急ぐ師走は世界のどこも同じである。すれ違ったスーツ姿の白人の男は肩がぶつかると、嫌味ったらしいほど丁寧な英語でミザールを謗り立てた。だが、振り向いたミザールがおおらかに微笑を浮かべると罵詈雑言の嵐を止め、続いて彼女がほんの少し両腕を内に寄せて胸の形を強調したときには彼は鼻の下を伸ばしきっていた。
ミザールはそのまま淀みない足取りで彼の真横に立ち自然と腕を取った。途端に紳士的な口ぶりで彼は一杯お酒でも飲もうか、それともどこかで休もうか、と提案をし、ミザールはただただお好きなようにとしか答えなかった。
美人を連れている誇らしさからか妙に堂々とした歩幅で歩き始めた。腕を抱いたミザールもそれについて行く。
繰り返しになるが師走はどこの国も忙しない。ミザールは、人の波が盛んになったタイミングを見計らってふっと彼の腕を離し、その人波に自分の身を任せた。男はすぐに愛おしい初対面の彼女とはぐれたことに気が付いたが、とうに人混みに紛れた彼女を見つけ出すことはできずその場で呆然と立ちつくす。
言いようのない喪失感を湛えた彼を、ミザールを押した波とは逆方向の人波が押し流す。互いに遠ざかり永遠の別れとなってしまった。
ミザールはすらすらと人の合間を縫い、ビルとビルの間の路地に入った。その手には無骨な黒革の財布がある。中身を確認し、札が何枚あるかを数え、取り出し、空になった財布はネズミの蠢く排水溝と水溜まりに向かって放り投げて捨てた。
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ミザールはこの国ではエリート階級である。父はアメリカの大商社で農工業用の機械を主に取り扱っていて、数年前にナイジェリアにやって来た。父はアフリカ市場の責任者だったので当然アフリカ随一の大都会であるラゴスに住んだ。エレベーターに乗っている時間でカップラーメンを作れてしまうほどの高層マンションを借り、一人娘のミザールもまた相応に裕福な暮らしをできていた。
その折、大学生となったミザールは街でひったくりにあった。肌の色から犯人が現地人であることは間違いなかった。そして、ひったくり犯を捕まえてくれた者もまた現地人であった。
曰く、勇敢にも犯人を取り押さえてくれた少年はスラム街の住人であるという。
曰く、犯人もまたおそらく違うエリアのスラム街の住人であるという。
ラゴスはアフリカで最も急成長を遂げ、高層ビルが何棟も新しく建築されている。しかしその裏側には疑いようもない貧困があった。富は無尽蔵に湧き出るものではない。分配されるものである。誰かが富めば誰かが貧しい生活を強いられる。
ミザールは犯人の男を怒る気にはなれなかった。警察には突き出さずその場で解放してやった。だが、そのときの別れ際に犯人の男や助けてくれた少年らから向けられた黒い視線を彼女は拭い去ることができなかった。
それは羨望。それは嫉妬。それは諦観。それは憎悪。ミザール個人にではない。ミザールがこの国に今この瞬間いること自体の背景となる全てだ。急速な発展を遂げるこの街。流入する世界各地の様々な人種の者たち。富が降りてこないシャンパンタワーの最下層から、トリクルダウンを睨み上げているのだ。
ミザールは自分自身がおぞましく感じられた。母は家政婦を雇い、家政婦は値札も見ずに買った食材で料理をし、父は『汚れた現地人には気をつけろ』と愛しい一人娘にきつく言い聞かせていた。
そこで育った自分が気持ち悪くて仕方なかった。
ミザールはその日のうちに家を出た。適当な男をひっかけて宿を得て、日銭はクラブで踊ったりかつての自分と同類のような者たちからスリをしたりして賄った。
そして現金は全て食べ物と雑貨に換え、両手いっぱいに抱えてスラムへと足を運ぶのだ。自分を助けてくれた少年たちのいるスラムへと。
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「ラシディ、ジョエル、チナザ、オルデガ、帰ったわよ」
ラゴスのスラム街は水上スラムだ。ゴミが浮かび糞尿の垂れ流される黒濁の海を、釘の取りつけが不十分な木のカヌーで進むのだ。
ミザールの呼びかけでトタン屋根の小屋から中学生ほどの男女が二人ずつ満面の笑顔で出てきた。ミザールがスラム暮らしを始めてもう三年になる。よそ者を嫌うスラムの住人からも受け入れられ、むしろ食べ物を毎日たくさん分けてくれるということで感謝すらされるようになっていた。
男の子のラシディとジョエルは買い物袋を抱えて屋内へと入り、女の子のチナザとオルデガは調理を始めた。調理と言っても電気やガスはないので食べられる大きさに切るだけなのだが。買い物袋は水を弾くから便利だということで、水上家屋では穴を塞ぐのに重宝される。スラム特有の生活の知恵だ。
その晩、ミザールは四人の少年少女が寝たのを確かめると再びスラムを後にした。夜もまた、彼女の稼ぎ時である。
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下品なネオンに嫌気が差す。半乾きの髪が夜風で冷やされて気持ち悪い。外交官や大企業の駐在員が多く住むこの街には、妻子を地元に置いて単身赴任している男性のために色街も充実している。特にターゲットが高所得層であるため価格帯もかなりふっかけている。
今晩も父によく似た人生を辿ってきたであろうどこかの国のどこかの企業のお偉いさんと一晩の関係を結び、明日は何を子供たちに買って行ってやろうかと温かくなった懐に胸を膨らませる。
「ふふ」
喜ぶ子供たちの顔を思い浮かべる。スラムは結束力が高い。近所の他の住人たちにもたくさん分けてやろう。そんなことを考えるとつい嬉しくなって笑いがこぼれる。
こういう稼ぎ方をする前からある意味で自分は穢れていた。貧しい者たちを踏みつけて手に入れた裕福さを浴び続けた。ならば、せめてその穢れた自分が彼らに何かできることをしてやりたい。何もこの国の経済構造を根底から変えてやろうだなんて大それたことは思っていない。ただせめて自分の近くにいる人たちには幸せでいてほしいだけなのだ。
夜の街は白人とアジア人の比率が高い。カネのある連中だ。ミザールがすれ違う者たちはその手の仕事の女を左右に侍らせ、酒に酔った真っ赤な顔で周囲も気にせず大きな声で話している。
大なり小なりそんな者たちばかりだった。十二月の昼間の忙しさが余計に夜の彼らにそうさせていた。
だからだろうか。人の流れに逆らうように歩くその男が飛び抜けて異質に見えた。普通の黒髪。普通の黒い眼。ややインド系の血が混ざっていそうだが典型的なコーカソイド。そして白衣。
どんなネオンよりも眩しく見えた。穢れのない純白のコートは穢れきったドス黒いこの街で、空から一滴垂らされた新鮮なインクのようだ。
同時に、目立つほどに地味だった。彼はこの街に染み込み溶け込んでいる。それなのにどうしようもない異質さが自分のような人間には目立って見える。他の者たちも彼をまるでいないもののように扱ってすれ違い通り過ぎていくのに、どうしてかミザールだけは彼から目を離せずにいた。
ゆっくりと、しかしたしかな足取りで彼は歩く。白衣のポケットに両手ともしまいこんで、笑っているとも怒っているともつかない不思議な表情で歩く。それなりの人数が酔っ払って不規則に千鳥足で歩いているというのにまるで計算しているかのように誰ともぶつからずに歩く。
無意識に目で追っていた。本当に無意識だった。なぜなら、彼が自分の目の前で立ち止まったというのにそのことを認識するまでに幾許かを要したからだ。
「はじめましてミザール・ディアスさん。ところで、能力者になってくれませんか?」
五章の続きの内容となります。できるだけ毎日投稿を心がけたいと思います。今後もよろしくお願いいたします。