第255話 心影
シアンの慟哭は哀しみに満ちていた。彼女の人生は決して幸福なものではなかった。誰よりも不幸を知るからこそ最愛の娘には絶対に幸福に生きてほしかった。
だが、幸福とは何だろう。ナツキは親を知らない。親に愛された記憶はない。それでも今日まで幸福を享受して生きてきた。
シアンは自分の不幸をラピスに重ね合わせ、ラピスがそんな目に遭わないようにと願った。ナツキはラピスの幸福を理解するべきだと主張した。言うなれば、不幸を避けることで幸福になるか、得られる幸福を増やしてより幸福になるか。彼らの対立はそんなところだ。
二人ともラピスのことを愛している。主義主張の相違にほかならない。ならば争う必要はないだろう。部外者はそう言うはずだ。シアンとてその程度のことは頭ではわかっている。でも心が認めない。ラピスの母として、ナツキという他者を認めることはあってはならない。
シアンにとってこれはラピスを心から想ってきた数年間を巡る戦闘である。ラピスへの愛を守るための、戦い。
青い両眼が淡い光を宿し、あたりの影が何十本もの触手となり、先端をカミソリやギロチンのように薄く鋭く尖らせてナツキへと襲い掛かった。ナツキを突き刺し殺すために。
ラピスを抱えているナツキは、そのままそっと右手を前へ伸ばす。その赤い右眼は淡い光を浮かべている。
「アンドルディースの弓。影を司る麗しき女神の加護はあらゆる暗闇を掌握する」
ナツキの掌に身長の倍はあろうかという黒い弓が出現した。矢は番えられていないが、ピンと弦は張ってある。禍々しい出で立ちにふさわしく弓柄は雄牛の角のようにたくましく、漆色の姿は夜の暗闇を連想させる。
ナツキを串刺しにしようと目前まで迫っていた影の触手たちはぴたりと動きを止め、ギギギギ……と弓に吸い寄せられる。シアンは能力を解除した覚えはない。より強くナツキを穿つように影たちに命じるが影は言うことを聞かず、ナツキの掌の前に現れた弓に弦の周りへと集まっていってしまう。
光の筋が重力によって捻じ曲げられるように、影の触手は弓の引力によって形を歪められ一点に集約されていく。
そして影は丸め込まれ、再度細く長く整形されていく。それが弓の弦へと番えられた。
ナツキの腕で抱きかかえられていたラピスは、虚ろな目はそのままにゆっくりと口を開いた。
「……アンドルディースは直訳するとスキーの女神。北欧神話における巨人の女神スカジを指す言葉で、彼女や弓の名手だった……。スカジは古英語やゴート語で影や暗闇を意味し、同時に古ノルド語では傷を与える者も意味する……」
ナツキの『夢を現に変える能力』で影の権能を持つ女神の力が現実世界に実体化させられた。シアンが影を操る能力を持っているとしても、ナツキが使う影を司る女神の力が上書きして所有権を奪ったのだ。
ラピスが言う通り奇しくもスカジには傷を与える者や死などといった意味もある。ラピスにとって誰も傷つかない物語のような世界こそが理想であり、シアンの能力である『影』は誰かを傷つけるもの。ラピスは大好きな母に誰かを傷つけてほしくはないし、傷ついてほしくもない。ましてやそれが自分のためだなんて耐えられない。
シアンは能力の暴走下でありながら意識を取り戻したラピスの姿に狼狽した。なぜ自分が現れてラピスを助けようとしても何も起きなかったのに、ナツキが、黄昏暁が能力を使ったらラピスは口を開いたのか。
ナツキは目を覚ましたラピスを下ろし、左手で弓を持ち右手で影の矢を掴んだ。そして弦が固くなるまで後ろに引き、狙いをシアンへと定める。
「ククッ、わかるか? ラピスが本当に好きなもの。本当に興味があるもの。本当に幸福を感じるもの。それが何なのかをな。ラピスは別に外で遊びたいんじゃない。好きなものを食べたいんじゃない。そんなオトナが子供に押し付ける当たり前の幸福じゃないんだ。ずっと屋敷に閉じ込められてもいい。ただ大好きな人たちと、大好きな物語の話をしているだけでいいんだ。母やメイドに自分の話をもっと真剣に聞いてほしかった。耳を傾けてほしかった!」
ナツキが手を離すと影の矢はシアンへと一直線に飛んだ。矢はしかしながらシアンを貫くことはなく、彼女の視界を漆黒に染め上げる。暗闇の柱が立ち昇る。シアンを包むほど巨大な影の柱が天高く聳え立ち雲を晴らす。
「シアン、お前はエカチェリーナとの戦いで言っていたな。その能力は陰ではなく影であると。光が遮られて生じた物理的陰影だけでなくもっと概念的な意味での影を操ると。だったらお前は自分の心の影と向き合うべきだ」
ナツキの声はもはやシアンには届かない。
影の柱の中でシアンは妙な浮遊感に襲われた。目を開くと、まるで宇宙に放り出されたかのようにフワフワと浮いている。ここが現実ではなく意識の世界であると気が付くのに数秒を要した。
「影……これが私の心の影?」
暗闇の中で惑星のように大きく浮かぶ球がある。そこに映像が流れ始めた。見間違えるはずもない。シアン自身の姿だ。
パソコンや資料の山には、ラピスの病状に関するデータや最新の世界各地の研究論文がある。ネバードーン財団の医療研究はもちろん、諜報によって得た星詠機関のデータまで様々。とにかくラピスを救いたくて必死だった。そんな数年前から今日に至るまで何度も経験した自分自身が映し出されている。
イギリスの領地運営もしなければならなず、他のネバードーンの【子供たち】同士の虎視眈々と狙い合う諍いもあり、そのような神経が磨り減る状況の中でどの本業よりもラピスのことを優先していた。
シアンはこれの何が影なのだ、と疑念を抱く。
さらにふわふわと浮遊して暗闇の空間を流されたシアンは別の惑星へと運ばれた。今度は、そこにラピスが映っている。ラピスは屋敷の自室でたくさんの本を読んでいた。絵本のような子供向けなもの、思想書のような大人向けのアカデミックなものや、神話や地方伝承のようなマニアックなものまで。
ラピスは一人だった。ベティが時折部屋に様子を見に来る。ラピスは喜んでベティに本の話をするが、その内容はよくわからなかったり現実的ではなかったりとベティは困った顔をするばかりだ。
そして、終ぞその映像にシアンが現れることはなかった。
〇△〇△〇
意識を取り戻したラピスはおぼつかない足取りでふらふらと歩く。シアンが閉じ込められている影の巨大な柱にそっと手を添える。目を閉じ、囁く。
「お母さま。私の大好きな、お母さま……」
シアンが浮遊する暗闇の空間。シアンの目の前にラピスが突如現れる。
「ラピス!」
シアンは他の何にも目を向けずにラピスを抱き寄せ、力強く抱きしめる。強く、強く。それが苦しくて、でもなんだか嬉しくて、ラピスは顔がほころんだ。
「お母さま、私が欲しかったのはこれだよ。私のために誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたり、書斎にこもって一人で抱え込んだり、そんなのは嫌。ただ部屋にもっと来てほしかった。たくさんだっこしてほしかった。たくさん読んだ本の話を聞いてほしかった。それだけなの」
「ラピス……」
ラピスはずっと一人だった。シアンもまた一人でラピスの不幸の責任を感じていた。でもラピスは言う。それは不幸ではないと。本当の不幸は母の温もりを知らぬまま別の場所で母が苦しみ続けることであると。
「お母さまの心の影はね、自責の念なの。私が病気で不幸なのはお母さまも病気だったから。そう思っているんでしょう? だから全部一人で抱えて私を不幸じゃなくなるために自分を追い詰めていってしまった……。でもね、お母さま、私は平気よ。大好きなお母さまがいて、ベティがいて、お屋敷の皆がいて、それでいいの」
二人は向かい合わせになった。今のシアンはサングラスもつばの長い帽子もない。母娘が互いに目と目を合わせている。
そこに一羽の白蝶がひらひらと舞い、ラピスの肩にとまった。
「お母さまは胡蝶の夢っていう話を知っている? 私たちが生きる世界が夢じゃない保証なんてどこにもないの。もしかしたら病気の私は夢で、本当はどこか温かい日の光の下で飛び回る蝶々かもしれない。何も断言できなくて、世界や運命はちっぽけな私たちひとりひとりじゃどうしようもできないほど大きく残酷よ。でも、だからこそ思うの。何もわからないことだらけな世界なら、自分を見失わないようにこの世界のこの自分を一生懸命に生きようって。病気が辛くないっていうのは、たしかにちょっぴり嘘。お母さまが私を不幸だと思うのも……うん、そうなのかもしれない。だけど、私はそんな病気の私を一生懸命に生きたい。何もわからない不明瞭な世界だからこそ、一分一秒も無駄にしないで自分の大好きな人たちと大好きなお話をたくさんしたい!」
「……ごめんなさい。私はラピスのことを見ていなかったわ。ずっと自分を見ていたの。ラピスを病気にしてしまった自分。ラピスを不幸にした自分。それが許せなくて、そして許してもらうためにあの手この手を講じて、そして、私みたいにラピスも能力者になれば救えると思って……。ただ許してほしかった。この罪の意識が後ろめたさになっていたの。こんな罪深い母をあなたは許してくれないかもしれない、って……」
「お母さま、私たちはちょっとだけちぐはぐだっただけよ。私はお母さまが大好き。お母さまは私が大好き。それが全てよ。幸福とか不幸とか、そんな退屈なことは後から考えましょう? ベティが淹れてくれた紅茶を飲んで私はお母さまとベティといっぱいお話がしたいわ」
「……そうね。三人でお茶会をしましょう。いいえ、三人と言わず屋敷の皆で」
「ええ! それがいいわ。あと、私のために戦ってくれたみなさんもね。ええと、碓氷火織さんと、犬塚牟田さんと、高宮薫さん。ぜひお会いしたいわ」
「もちろん。きっと彼らも喜ぶわ……!」
シアンの両眼からぼろぼろと涙がこぼれる。すれ違い続けた愛情がかちりと噛み合った。愛することを許された。雫がラピスにぽたぽたと落ち、ラピスはシアンへ抱き着いた。
「お母さま、あったかい」
シアンの腹に顔をうずめたラピスはただそれだけを呟いた。
暗闇の世界が晴れていく。果てのない影はどこかへと消え去り、光が眩しくて目が開けられないほど広がり、攪拌し、あふれ出す。
影の柱は徐々に細くなり、柱から筋のようになり、そしてナツキの目の前でそれは完全になくなった。同時刻、ユニコーンやペガサス、ウロボロスの遺骸、そしてエカチェリーナが躾をしたケルベロスが、一斉に姿を消した。跡形もなく完全に。
そして青い髪の母娘がこちらの世界へと帰ってきた。
ナツキは赤い右眼に淡い光を宿し、遠くから小さく祈りの言葉を紡ぐ。
「ヒュギエイアの杯。二人の母と娘に、幸多からんことを」
ヒュギエイアはギリシア神話においてアスクレピオスの娘であり、ただの医療の女神ではなく特に女性の病を治し救う象徴となっている。二人の女性の健康と安寧を願うにあたりこれ以上ないほど相応しいシンボルだ。
遠くから『おーい』と呼ぶ声が聞こえる。ナツキが振り返ると、水のドラゴンに乗ってスピカ、美咲、エカチェリーナ、秀秋、火織、犬塚、薫の七人が手を振っている。
ナツキは『ククッ』と喉を鳴らすように笑うと、大きく手を振り返すのだった。