第253話 ウロボロスの円環
イギリス・エディンバラ市街地上空に現れた航空機ほどの黒い大蛇は、自らの尾を噛み円を描いて空中に浮遊していた。
あまりに大きい円。高く高く浮いていて全長のところどころに靉靆と雲がかかっている。どうしてこれだけ巨大な物体が宙に浮いていられるのか。そんな当然の科学的疑問すら彼らは抱くことができなかった。人々は空に突如出現した黒い円環に言葉にできない神々しさを見たのだ。理屈ではなく直観に語り掛けるような存在感に。
自然と涙を流す者がいた。自然と膝を突く者がいた。自然と祈り始める者がいた。
その異様とも言える街の光景の中で、際立って異質な一人の女がいる。紅白の袴を纏った巫女装束の剣士、高宮薫である。車道の真ん中に立った薫は空に悠然と浮かぶ巨大な円環を興味深そうに見上げる。
「ウロボロス。破壊と想像。生と死。始まりと終わり。無限にして永久。循環という性質は相反する二つを結びつけ、一にして全となる、真理の象徴。……みたいな感じかな? 宗派を問わず世界中の宗教で類似のシンボルは登場するからこの神々しさはきっと本物なんだろうさ。ボクとしては、でも、だからこそ」
──斬ってみたくなる。
薫は刀の柄に手すらかけていない。カッと眼を見開き、ただ気を放った。殺気だ。神にも等しい神話の住人に対して人間というちっぽけな存在がここにいると報せるには命の危険アラートを刺激するのが手っ取り早い。
生死すら超越している可能性のある生物に対してこの手法が有効かどうかは薫自身実のところ懐疑的であったが、効果はすぐに現れた。
自らの尾を噛んでいるは、ゆったりと口を開き尾を離すと身体をうねらせながら薫を見据えた。小さき存在でありながら大きな殺気を放つ薫を排除せんと動き始めたのだ。
ラピスが生み出した黒いドラゴンやそれにおいつくためにスピカが作り上げた水のドラゴン。それらの竜とはスケールが違う。文字通りに大きさの桁が違う。ウロボロスがその巨体をわずかに動かすだけで竜巻が起き、衝撃波は市街地の建造物の窓ガラスを全て割ってしまった。街路樹は根から引っこ抜かれ自動車のような鉄の塊ですら空へと吹き飛ばされた。
これだけの破壊ですら、ただ動いたことの余波である。一体本気で戦ったらどうなるのか。薫は瞳孔を開き身震いをする。
そしてウロボロスは儼乎たる姿を惜しげもなく晒した。琥珀色の眼が刺すような視線を地上へと送る。
ウロボロスは『ふぅ』と軽く吐息を漏らした。ほんのそれだけ。
「おっとさすがのボクもそれはマズい」
薫はその場で跳躍し狭い路地に入ると二つのビルの壁を交互に蹴って数秒で屋上へと昇り、ビルからビルへと飛び移っていった。地上に吹き降りたウロボロスの吐息は熱波の突風となり、道路をめくっていく。地上を走る熱風から逃げるように薫はビルの上を駆ける。
膝をついていた者たちは灰となった。焼け焦げる間もなく、熱の温度の高さと風の勢いの強さによって灰燼と化す。
市街地は一転して砂漠のような光景となった。人影はなくなり、大地は乾き上がっている。火織はイギリスの土壌について水分が多いという地質学な分析を天才的頭脳によって導出したが、それらを全てに無にする火力をウロボロスは放ったのだ。
「わはは、やば。……ウロボロスの子って人間のメスでも孕めるのかな」
辛うじて鉄筋の骨組みのみ残ったビルの最も上に立つ薫はじっとウロボロスの身体を観察するが、生殖器に相当する器官は見当たらない。
「ありませんよ、そんなもの」
誰に対して向けたわけでもない薫の言葉に返事をする声がある。まだ若いだろうに不気味なほど落ち着き払ったその声の主は。
「ええと、キミはたしか虚宿のところの……秀秋って言ったっけ。ああ、なるほど。能力で視力を強化して確認してくれたんだね。ボクのためにご親切どうも」
「名前を覚えていただいて光栄ですよ。それにしても、強者を追い求める姿勢は昔から変わりませんね。単身で京都タワーに乗り込んだ二十年前から。……それから数年後、死んだことにして平安京を出たのはやはり強者がいたからなのですか?」
「そんな昔のことは覚えてないよ。円を産んでからしばらく経って……授刀衛の連中の強さは二十八宿や聖皇を含めてあらかた見切ったから。ボクが勝てる相手も勝てない相手もね。だから、外の強者に会いに行った。ただそれだけ。キミや円みたいに新しい強者が増えているんならたまには戻ってみるのもいいかもね」
秀秋もまた鉄骨の骨組みの上に立つ。作務衣は煤で汚れている。眼鏡を布で拭いてかけ直しながらさらに続けた。
「はは、そうですか。むしろ私は嬉しいですよ。私があのとき魅了されたあなたの剣は穢れなく純粋に強さだけ追い求めて完成された芸術作品なのだと改めて理解できましたから。ああ、それと」
「なにかな」
「十七歳の娘がいるくらいの結構な年齢なのに、自分のことボクって呼ぶのはかなり痛いのでやめた方がいいですよ」
〇△〇△〇
ウロボロスは再び自らの尾を噛んだ。空中に再度円環が浮かぶ。薫は一切秀秋の方は見ずにウロボロスをじっと見つめたままぶっきらぼうに言い返す。
「キミさ、ボクのこと好きなんじゃないの?」
「私が好きなのはあなたではなくあなたの剣です。それが得られるなら振るうのはあなたでなくてもいい。円さんであれ、黄昏暁であれ、誰であれね」
「うわ、気持ち悪。そのねっとりした喋り方やめた方がいいよ。つい殺しそうになっちゃうから」
「今はあちらが優先でしょう?」
「……うざ」
薫が放った殺気を軽く受け流して秀秋もまたウロボロスへと視線を移す。刀が通るかどうかもわからぬほど巨大。ウロボロスは伝承通りドラゴンともヘビともつかない生態で、体表は黒い鱗によってびっしりと隙間なく覆われている。
「さっきはキミらの陣営の銀髪の女の子に龍殺しなんて言っちゃったけどさ。これが本当の龍殺しなんだよね、きっと」
「私たちの祖国では龍は神と同一視されることが多いですから、実質神殺しみたいなものですよ。まして相手はウロボロス。様々な国や地域の文化体系に見られる文字通りの神話級のバケモノなのですから」
「ボクは今から個人的な興味と戦闘欲求のためにウロボロスを狩りにいくよ。キミはどうする?」
「私は一応、この場では黄昏暁陣営。彼の麾下です。彼なら大切な人を守るためにここでウロボロスを倒すと言うでしょう。私には特に大切な人なんていませんが……ここは彼の顔を立ててウロボロスの討伐をしたいと思います」
「そっか。やっぱり面白いなぁ黄昏暁は。ますます彼と子作りしたくなってきた!」
「黄昏暁と高宮円の関係がややこしくなるので手を出さないことを進言しておきます」
娘の想い人と関係を持とうとしている薫に一応は釘を刺した秀秋。価値観がズレている。同じ母娘でもシアンとラピスのようなすれ違いとは異なり、高宮薫は最初から他者から理解されることを放棄している。
薫はわずかにむっとした表情になると挑発するように尋ねた。
「ボクの動きに付いて来られる?」
「フフヒッ、あなたの身体の動きについては穴が開くほど研究しましたから」
ついさっきまでの常識的な態度から打って変わり口角を吊り上げ気味の悪い笑みを浮かべた秀秋。その異常な変化に薫ですら軽く引いてしまう。舐めるような視線で肢体を隈なく見られて気持ちが悪い。
「あー……えっと、うん。そっか。わかった。よし。じゃあ早速ボクらで龍殺し、やってみよっか」