第252話 オトナから子供たちへ
高度が一六〇メートル上がるごとに気温はおよそ一度下がるという。それに加えてドラゴンの飛行速度は戦闘機に負けずとも劣らない。周囲の空気を切り、風を巻き起こし、冷たい突風が肌を刺すようだ。
ドラゴンの背に乗り移ったナツキはラピスの肩を揺さぶった。意識は戻ってこない。青い両眼は虚ろに光り、『誰も……死んじゃダメなの……これは……みんなが幸せになる物語…………』とぶつぶつ呟いている。
「ラピス! 俺だ、黄昏暁だ! 戻ってこい!」
ナツキの声は閉ざされたラピスの心に届かない。その間もドラゴンはナツキを振り落とそうと旋回を繰り返しながら大空を暴れ狂ったように飛び回っている。
私の屋敷にはドラゴンがいるの。屈託のない笑顔でそう話してくれたラピスの笑顔が脳裏を駆け巡る。ラピスの発言は事実ではないのかもしれない。屋敷から出られず暗い部屋で本を読み続けるしかすることのなかったラピスにとって、空想の世界が全てだった。
似ている。ナツキはラピスの手を握る。もしも誰かが傷つき亡くなるこの世界の残酷さに絶望して能力が暴走しているというのなら、一人ではないのだと、絶望する必要はないのだとラピスに伝えたかった。
大人になった者たちは口をそろえて言うだろう。フィクションはフィクションであると。それでも、そんなつまらないオトナですらも幼い頃はきっとサンタクロースを信じていた。信じるからこそ毎年クリスマスが楽しかったはずだ。
中二病も大差ない、とナツキは思う。自分も物語の住人であると信じることで満たされることだってある。誰しも大なり小なり同じ道を通って来たのだ。ラピスは孤独じゃない。
空想や妄想を現実にしたい。そう願うことは間違ってはいない。誰だって叶えたい夢の一つや二つあるだろう。ましてやラピスの場合は大好きな人たちに死んでほしくないという優しい願いだ。何人もラピスの能力を否定してはならない。たとえナツキですらも。
ラピスの能力をナツキは肯定する。でも、ラピスの暴走は間違ったものだ。どうすればいい。葛藤に見舞われたナツキを現実へと引き戻すようにドラゴンの背がガクンと揺れた。周囲の景色が縦方向へと流れていく。
(高度を上げている? ……違う。逆だ! 堕ちている!)
ナツキとラピスを乗せたドラゴンは飛んでいるとき以上の速度で急降下していた。雲を突き破りながら高速で落下し、イギリスの街並みが早送りしたフィルムのように滲んで見える。
「アカツキィィィィ!!!!」
スピカが水のドラゴンを操りナツキを追いかけるが、水のドラゴンに搭載されたスクリュー水流の推進力でも追いつけないほど強い力でナツキたちは下へ下へと引っ張られている。
ラピスが振り落とされないようにナツキは彼女の小さな体躯を包むように抱きしめた。見えない力に引っ張れる状況が煩わしく不愉快なのかドラゴンは今までになく声帯を振り絞り金切声を上げている。
数十秒経った頃、まもなく地面に衝突するというところでフワリと柔らかい感触で受け止められ、ナツキとラピスを乗せたドラゴンはそっと森にほど近い野原に着地した。
ようやく落ち着いたことでナツキは周囲を見渡す余裕が生まれる。ドラゴンを下から覆うように黒く巨大な掌が地面に広がっている。
「黒い触手のような手……まさか……」
「ラピスを離しなさい」
日傘を差した青髪にサングラスの黒ずくめの女性の背後には影の触手がぶくぶくと泡立ちながら何本も生成されナツキの方へと向けられている。
ナツキたちを地へと堕とした張本人こそ、愛娘をナツキから取り返さんとしたシアンであった。
「影を引っ張ったのか」
「これだけ図体の大きい生物が空を舞えば大地には充分な影が伸びることは自明。私の能力は単なる光の陰ではなく影という概念そのものへ作用する……。地上の影を介して空中にいたドラゴンは引きずり降ろさせてもらったわ」
「ククッ、だからスピカが乗っていた水のドラゴンは引っ張られなかったのか。水の影はできないからな。それにしても陰険な能力だ」
「あらそう? ずっと日陰で生きてきた私にとってはむしろ心地良いのだけれど。ずっと明るい世界で生きてきたあなたには、私やラピスの苦しみは理解できないわ」
「……ラピスの苦しみ、か」
虚ろな目をしたラピスをナツキが抱き上げる。数多の影の触手が先端をギロチンの刃のように薄く鋭くさせておりナツキが少しでも妙な動きをすれば串刺しにする用意がある。
だが、臆せずナツキはシアンを見据えて言い放った。
「ラピスは何に苦しんでいると思う?」
「それは病気で屋敷からずっと出られなくて……」
「違うな」
きっぱりと。シアンはナツキがあまりに確信に満ちた表情で言い切ったのでわずかにたじろぎ訝しんだ。娘のことは自分が一番よく理解している。部外者であるナツキにわかったような顔をされる筋合いはない。だというのにどうして彼はそんなにも自信ありげに否定をするのか。
それではまるで、私が間違っているみたいではないか!
「ラピスは言っていた。メイドのベティはお母さまと同じくらい大好きだと。ラピスのことを心から想っているから傷つきながらも一生懸命に戦ったんだろうと俺が言ったら、ラピスは何て返したと思う? ……だからこそ傷つくような戦い方は嫌だった、無事じゃないと意味がない、とな」
落下し体力を削られぐったりとしていたドラゴンが影の中でグルルと唸り声を上げた。まるでラピスが頷いているようだ、シアンはついそんなことを思ってしまう。
「ラピスの願いは、能力の根源は、ただ一つだ。皆に無事でいてほしい。死なないでほしい。絵本の物語の世界みたいに、全員が笑ってハッピーエンドを迎えられる世界でいたい。それだけなんだ」
影の国のお姫様に呪いをかけた悪い森の魔女は、最後まで殺されることはない。
ラピスは心優しい子であった。屋敷で働く者たちには常に敬意と親愛の情で接し、子供とは思えぬほどの気遣いを見せていた。自分を大切に想ってくれる人たちに囲まれてラピスは充分に幸せだった。
もちろん外に出たいと思うこともある。普通に友達を作ったり外の世界を見て回ったりしたいと思ったことも。だが、そのために大好きな人たちが犠牲になったり誰かを傷つけたりするところは見たくない。それはラピスという少女だ。
「そ、そんなはずないッ! 私は能力に覚醒したおかげである程度は自由に暮らせるようになったわ。ラピスだってきっと病を超克するような特別に力を得たら、もっと自由に幸せに生きられたはず!」
「ククッ、俺はお前の想いまでは否定していない。母が娘の幸福を願う。そのために絵本になぞらえて敵組織と戦う座組を組んだり能力に覚醒するよう促したり、その行動が間違っているとまでは俺は思わない。だが、ラピスにとって何が幸福で何が不幸かを本気で考えたか? 自分の幸不幸の価値観でラピスを測っていなかったか? ククッ、俺たち中二病はオトナに『当たり前の価値観』を押し付けられることを何より嫌う生き物なんだ」
「ちゅ、中二病……?」
シアンがラピスを大切に想う気持ちは本物だ。ベティだって、他の者たちだって。心の底から自分たちよりもラピスの方が大事だと思っている。
でも、同じくらいにラピスは皆のことを大切に想っていた。自分のために傷つくなんて嫌だった。勝手にラピスに不幸の烙印を押し、本当に幸福を感じる瞬間がいつなのかを見ようとはしていなかった。
この物語に悪人はいない。
ラピスを幸せにしたいシアン。シアンにも幸せでいてほしいラピス。
ラピスを幸せにしたいベティ。ベティにも幸せでいてほしいラピス。
こうした関係性が、屋敷の全ての人間との間に結ばれている。そして彼らは皆ラピスとすれ違った。互いの思いやりが行き違った。ただそれだけのことなのだ。
「……だったら、だったら! ラピスのことは誰が幸せにするの!? 私たちが幸せに生きることがラピスにとっての幸せだとしても、根本的にラピスに与えられた苦難が消え去るわけじゃない! 毎日たくさんの薬を飲んで、家からは出られず、食べられる物も制限されている……。そんな生活を死ぬまで続けろとでも言うの!?」
「じゃあお前はラピスの話を聞いてやったのか!? ラピスが何を楽しいと思っていて、何をしているときにわくわくするのか、どういうときに嬉しいという気持ちになるのか、本気で向き合ってきたのか!? 薬を飲まなくなれば、家を出られるようになれば、好きな物を食べられるようになれば、それはたしかに自由で嬉しいだろうな。でもな……もっと楽しくて、もっと昂らせてくれるものがある。それをラピスは物語の世界に見出したんだ! 屋敷には竜騎兵がいてドラゴンを飼っていると話しているときのラピスのきらきらと眩しい笑顔をお前は知ってるのか!? 神話や小説の話をするときの輝いている瞳を正面から受け止めたことがあるのか!?」
「うるさい! 何も知らないくせに! 私やラピスがどれだけの不自由を強いられてきたのかを!」
それでも。シアンは認めたくない。娘の幸福を願う母として、赤の他人の方が娘のことを理解しているなんて認められるわけがない。ナツキに知った口を利かれて、はいそうですかと折れるわけにはいかないのだ。
たとえシアンのラピスに対する想いが正しいものだとしても、もしもここでナツキの言う通りであると認めてしまったらこれまでラピスと過ごしてきた数年間における全てのシアンの努力は無駄になる。ラピスの幸福のためを願ってしてきたことが無価値だということになってしまう。
断じて認めてなるものか。サングラスの下で青い両眼が淡い光を宿す。