第251話 冥府の番犬
市街地の道路は全てが陥没状態になっていた。アスファルトには稲妻のようにジグザグな亀裂が走り、路上駐車されていた乗用車はぺしゃんこに踏み潰され、人々はできるだけ細い路地を通ることを意識しながら息を切らして逃げている。
その三つ首の犬はあまりにも巨大だった。三階建ての窓を除き込めるほどとなると、体高は十メートルにも届くだろう。黒い毛並みは艶やかで耳はピンと立っている。
歩くだけで災害。信号機をへし折っていることにすらこの生物は気が付いていない。ちくりと針が刺さるほどの痛みすらもないのだろう。
頭が三つあるということは脳も三つ。眼球は六つ。耳も六つ。情報を集める器官が普通の生物の三倍なので、ちょっとした音にも敏感に反応する。だから人々は到底その巨体では入って来られない細道に逃げるのだ。バレないようにこっそり、などという手はない。
アパートの住人は三階のベランダから覗き込むその顔に恐怖した。充血した眼がギョロギョロと動き、部屋の中にいる住人をつぶさに観察している。
伝説上の三つ首の犬。地獄と冥府の番犬。人々はそれを、ケルベロスと呼んだ。
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冷静に観察してみれば、ケルベロスは落ち着いていた。ただのっそのっそと歩いているだけだ。ただしあまりにも身体が大きいために歩くだけで甚大な被害をもたらす。そして、これを演出だと思っている者の中には主催者であるシアンやケルベロスのホログラムに怒りをぶつける者もいた。
「おい犬コロがッ! 納車したての俺の車を踏みつけるたぁどういうこった! 運営は弁償してくれんだろうなァッ!?」
車道のど真ん中に立って騒ぐ中年の男。犬の三倍の感覚器官をもつケルベロスはそんなちっぽけな怒りの叫びも鋭敏に聞き取った。方向転換し、男の方へゆっくりと歩みを進める。
高層ビルやマンション、アパートが立ち並ぶ中心街のメインストリームを巨大なケルベロスが歩く姿は壮観だ。現代技術が作るビルの巨大さと、神話の物語の生物がもつ超自然的な巨大さ。性質の異なる二つの威圧感が混ざり合い、小さな小さなその男に畏怖の感情を抱かせる。
その中年の男が本能的な畏怖の念に従って動けるほど賢い人間ならばこの場は誰も傷つかずに収まっただろう。だが、その男は浅慮だった。つまらない虚栄心に駆られたその男はケルベロスに向かって叫ぶ。
「な、なんだよその眼は! 俺のこと馬鹿にしてんのか! おい! 弁償しろ!」
本当の金持ちは車の一台や二台で声を荒げない。器の小さい小金持ちが、額を流れる冷や汗にも気が付かず怒鳴り散らす。勇気ではない。ただの愚か者だ。
ケルベロスの歩みは止まらない。『グルルルル……』という唸る声とともに口の端から舌が見え隠れする。そこから覗く牙を見た男はつい『ひっ……』と尻もちをついた。
そんなみっともない自分の姿を男は直視する。自分が恥ずかしい思いをしなければならないのはこの駄犬のせいだ。ふつふつと怒りが湧く。無責任で自分勝手で傲慢な、自尊心を守るためだけの怒りだ。スクラップになった車のトランクから辛うじて難を逃れ無事だった猟銃を引っ張り出す。
そして、男は考え無しに乱射した。散弾がケルベロスの顔面に放たれる。直撃を喰らったケルベロスの顔の周囲に硝煙が立ち込める。
「ど、どうだ! へへっ、何がネバードーンの娘だ! 何がケルベロスだ! この俺に逆らっていいわけがないだ……ろ……」
今度こそ、男は腰を抜かす。そもそもケルベロスは誰も害する気はなかった。ただ歩く。それだけで街を破壊していたのはたしかだが、ケルベロスの役割は番犬であって猟犬ではない。敵の方からやって来ない限りは何の仕事も使命もないのだ。何かを追ったり探したり襲ったりすることはあまりない。
だが、その男は武器を使った。ケルベロスを襲撃した。ケルベロスの三つの頭脳は共通の一つの答えをはじき出す。番犬として自分はこの襲撃者の男を殺害する必要がある、と。
三つ首が一斉にその男に至近距離まで迫り、『グウウゥゥォォォォォォォァァァァァァァ!!!!!!』と咆哮をぶつける。唾液がボタボタと大きな塊となって零れ落ち道路のアスファルトを溶解させる。
男の着ている物や身に着けている物が吹き飛ばされる。膝ががくがくと笑って動かない。
ケルベロスは三つの口をがばりと開き男を一呑みにしようと迫った。
食われる。おしまいだ。殺される。恐怖で頭の中をぐるぐると回る言葉に溺れて男は目の焦点すら合わない。ケルベロスの口の中が見える。
ギロチンのようにガチィンッ!! とケルベロスの牙が男を噛み砕いた。
「うああぁぁぁぁ!!!!」
男は痛みに絶叫する。喉が枯れるほど叫んだところで冷静に現状へと立ち返りふとした疑問を抱いた。
どうして自分は叫べている? どうして自分は生きている?
「右膝よりは下は飲み込まれたか……。さしもの私の能力でも完全な四肢の欠損は治せそうにもないな。くっつけることはできるんだが。暁がいない以上はどうにもできまい。すまないが、今後は片足で生きていってもらうぞ」
あんな馬鹿げた行動を取る男なら生きているだけで儲けものだと思うがな、と彼女は内心で呟く。肩口でキッチリと切り揃えられた金髪に軍服。豊かな胸。男の襟首を掴み全身を噛み砕かれないように救助したのは、エカチェリーナ・ロマノフである。
市街地のメイン道路を横断するように高速で移動する彼女は全身が青くうっすらと発光している。まるで青いオーラが出ているかのようだ。シアンとの戦いでも見せたリミッター解除。筋肉の断裂や内臓の破壊などが発生すると同時に能力で治癒することで、人体の制限を超えた動きを可能としている。
エカチェリーナが手をかざすと男の右膝の断面は止血され千切れた骨や血管を再生された皮膚がふさぐ。
適当なところで男を離すと、悲鳴を上げながら男は逃げて行った。片足がないためうまく走れず、何度も転び、最終的に這うように遠くへと去っていき見えなくなった。
助けてもらったというのにエカチェリーナへの礼もなかったが、あのような愚行を犯すならばさもありなんだろうと当のエカチェリーナは苦笑いを浮かべている。
「さて。私としては特に危害を加える気のなさそうな犬を無闇に殺害するのは気が引ける。……生け捕りにしてうちで飼うか?」
ロシアは農業にも工業にも使えない雪だらけの土地が無駄に余ってるし、とエカチェリーナは付け加えた。案外悪くないかもしれない。ダリアあたりは『大きなワンちゃん!』と喜んでくれるだろう。キリルが『いくらなんでも大きすぎるだろ!』とダリアにツッコミを入れる姿が容易に想像できてついくすりと笑ってしまう。
獲物を横から奪ったエカチェリーナに敵対の意思ありと判断したケルベロスは獰猛な爪の前足で踏み潰そうと片足を高く上げて振り下ろした。
エカチェリーナは自分の身長以上ある長く鋭い爪を西洋剣で受け止める。あまりの衝撃によってアスファルトに足がわずかに沈み込んだほどだ。
上腕の筋肉が耐え切れずに断裂を起こす。そして起こすや否やすぐさま能力で回復される。常人ではあり得ない防御力をエカチェリーナは能力によって実現しているのだ。
それにエカチェリーナは元々目が良い。また、戦略や戦術という点に関してのみは天才的な頭脳を持つ。ケルベロスは三つの口で噛み砕こうと牙で迫ったり尻尾を叩きつけたりと試みるが、エカチェリーナはそのことごとくを回避するか受け流すかしてしまう。
軽快に戦うそんな彼女を遠くから眺めている一人の女性の姿があった。白衣が汚れるのも気にせずに砕けたメイン道路のアスファルトを拾ってじろじろ眺めている碓氷火織だ。
地面に手を突いてみたり、軽く小突いてみたり、また或いは両手をカメラに見立てエカチェリーナと戯れているケルベロスを観察したり。
うんうん、と頷きながら、『天才』な頭脳を持つ彼女は計算を行う。能力者ではない。それでも、能力者とは異なる体系の異能を持つ彼女はバタフライ・エフェクトによって世界に干渉する。
達成したい未来。それと現在。その二つを四次元的な俯瞰で対等に扱い、適切な道筋をはじき出す。
火織は路上に乗り捨てられた自動車に近づき、アスファルトの破片を抱えて近寄った。そして窓からハンドルの下部に向かって破片をゴンとぶつけて表面を砕く。中の配線が見えたところで火織は赤と青のコードを引っ張った。
「さて、犯罪心理学者的には自動車盗難の知識なんかもちゃっかりしっかりあるわけで、現代の車がコンピューター制御の電子ロック付きだっていうのはよく知ってるんだけどね。でも、イグニッションワイヤーをバッテリーワイヤーとつなげて着火させたらエンジンが動くっていう基本構造は変化なしなんだなぁこれが」
赤と青のコードの絶縁部分を爪で引っ掻いて剥き、銅線の先端をそれぞれ触れ合わせる。すると線香花火のようにバチバチッ! と火花が散った。
ブンッ! エンジンのかかる重低音が鳴る。ブブブブ……ブゥンブゥンッ!! エンジンは温まり回転数が徐々に上がり始めた。
火織はアスファルトの破片を窓から投げ込みアクセルへ力をかける。いわば重し。無人の車でも、エンジンがかかりアクセルが踏みっぱなしになればちゃんと動くし加速する。
ハンドルロックは解除できていないが、進行方向に進む速度を上げていくだけならば十二分。
「いてらー」
白衣のポケットに片手を突っ込んだまま手を振る。無人で発進した車がケルベロスやエカチェリーナたちの方面へと向かってエンジンを吹かす。
「……三、二、一、はいこのタイミング。エカチェリーナちゃんは八五一八二手目にケルベロスの向かって右側の頭による噛みつきを剣で弾き返す。するとケルベロスは体勢を崩して、はい、踏んだ」
火織が言う通り仰け反ったケルベロスは無人で走る車を踏み潰す。ケルベロスのあまりの巨体に耐え切れず車はぺしゃんこに潰れて道路のアスファルトにも亀裂が走る。
「で、必然的にガソリンが漏れるわけで」
ケルベロスの足裏に大量のガソリンが付着。そして。
「ガソリンスタンドのセルフ給油で静電気除去シートが置いてあるのは、ガソリンが電気を通さず帯電してしまってちょっとした電気で引火してしまう恐れがあるから。その上、このイギリスという国は私の母国である日本と違って電柱がない。電線は全て地中に埋めてある。水道管より浅くて、地表からの深さは一メートルもない。でないと整備ができないからね」
ガソリンまみれになったケルベロスの足が地中の電線を踏み抜く。バチバチバチッッ!! と青い火花が散り発火して、ケルベロスの足の先を燃やした。呻き声を上げながらジタバタとその場で暴れる。脳が三つある分だけ痛みに対する反応も三倍。のた打ち回るほかない。
「ああ、熱くて痛むからってあまり暴れない方がいい。イギリスの大地は地学的にはムーアって言ってね。日本語に訳すと『湿原』ってところかな。とにかく水気が多いんだ。実際、すぐ近くは海で橋までかかってるからね。かなり水分を含んでいる。ただでさえアスファルトが割れたことで湿った土が見え隠れしているのに、帯電した足でさらに暴れたらもっとアスファルトが剥げてもっと水分が増えてもっと電線も千切れて……」
そして、水分に通電する。火織がそう言い終えたまさにちょうど、火織やエカチェリーナがいる四車線の大きなメイン道路に青い稲光が走った。まるで電磁フィールドにいるみたく、膝の高さのあたりまで道路いっぱいに電撃が浮かび上がる。
足でしか接地していない人間に対し、足が燃えて地面を転がるようにのたうち回っていたケルベロスは全身で大地の電撃を浴びた。
「グゥオオォォォォォォォンッ!!!」
感電し痙攣したケルベロスは動きを止め、その場で倒れる。同じく電撃を浴びて感電しているのはエカチェリーナも同じだが、彼女の場合は感電し焦げると同時に能力で治癒できるので問題ない。
でも、碓氷火織は。彼女は無能力者である。
「お前の仕業だったか、碓氷火織」
「ケルベロスはちょっと感電して気絶してるだけだから、その治癒の能力で治せば元気になると思うよ。飼いたいなら飼えばいい」
ケルベロスに踏まれてスクラップになっているたくさんの自動車。中にはタイヤが外れて道路に転がっているものもある。火織はそんなタイヤの縁に片足で立ち両腕を広げててバランスを取っている。
タイヤはゴムなので電気を通さない上、大抵のタイヤには除電という機能が備わっている。地面で電気が走ってもタイヤの上に立つ火織には一切被害はない。
「これがバラフライ・エフェクト。三次元空間でのあらゆる事象は時間という四次元的な線上での論理の連鎖でしかない。適切な始動さえ選べれば、非力な私でもケルベロスを倒す未来に辿り着くことだって可能なわけだ」
エカチェリーナは剣を収めながら火織を一瞥すると、ケルベロスを治療しに行くためすぐに背を向けた。ナツキのことを狙う女性ということで火織のことは警戒しているのだ。
「私にこいつを手なずけることができるかな」
エカチェリーナは横たわるケルベロスの黒い毛並みをそっと撫でる。その手から優しくて穏やかな青い光が生じ、感電して焦げ付いていたケルベロスの傷が少しずつ塞がるのだった。