第248話 ドラゴンライダー
「あれはなんだ! 何が起こっている!?」
エカチェリーナがスクリーンを見て叫んだ。全長一〇〇メートルはあろうかという巨大な西洋のドラゴンが流星のようにコロシアムの天井を突き破りながら飛来し、スピカの水龍を歯牙にもかけずに踏み潰した。
ナツキはひとまずスピカを助けるために待機室を出てコロシアムへ向かおうとした。しかし扉を開けようとしたそのとき、さっきまでスピカと戦っていた高宮薫が見計らったように入って来た。
「おっと黄昏暁。ドラゴンも恐れず助けに向かうその強者の姿勢はボクとしてはドキドキしちゃうほど興奮して濡れちゃうんだけど、その前にあれを見てごらんよ」
薫がスクリーンを指差す。それはドラゴンの背中。瑠璃色の髪をした少女が苦しそうに肩で息をしながらドラゴンに乗っている。その両眼は青い。
「ネタバラシをしてしまうとこのドラゴンはラピスちゃんの能力だよ。だから『現を夢に変える能力』で無効化すれば全部解決する。でも、能力が覚醒したばかりで暴走状態のラピスちゃん本人はどうなるだろうね。能力が人格と結びついていることは黄昏暁、いいや田中ナツキならよくわかっているでしょ? 廃人にならないという保証はない。現にグリーナー・ネバードーンが人工的に能力者を生み出す実験で失敗した連中は……。キミも知ってるよね」
「何が言いたい」
ナツキは怒気を孕んだ声で高宮薫を睨みつける。
「キミのミッションは迫り来る物語のモンスターを打ち払いながら、お姫様を救出し、そうすることで呪いのような能力を解いてあげることだよ。できるかい? 王子様」
「……言われるまでもない」
高宮薫を押しのけ、ナツキはコロシアムへと向かう。
〇△〇△〇
コロシアム内の水を急速に集め、盾のように円形に薄く展開する。スピカは自分の背丈よりも大きな火球を受け止めるが、その重たい衝撃で数メートル後ろに押され、さらに熱量に耐え切れず水は蒸発していく。
彼女の流体を操る能力は液体から気体まで幅広く対象とするが、水が液体から気体の水蒸気になってしまうと途端に制御はおろか集めることすら難しくなる。
「熱っ……」
水が熱湯になりスピカの掌を焼く。だがここで折れたら待ち受けるのは全身が丸焦げになる未来だ。腹を括り歯を食いしばってひたすらに耐える。
だからといってこの状況を何とかできるアイデアがあるわけではない。頭をフル回転させる。もはや美しさもへったくれもない。圧倒的な力の大きさを前にスピカはどうすることもできない。
両手で水の盾を支える。しかし夥しい量の水が凄まじい速度でジュゥゥゥゥと音を立てながら蒸発していく。
(ダメ……このままじゃ、私は……)
諦めかけて目を瞑ったとき。スピカの両手の上に重ねるように誰かがそっと手を置いた。それはとても温かく、安心感のある感触。目を閉じていて誰の手かわからないのにスピカはトクンと胸を打たれ跳ねるような気分になる。
ゆっくりと目を開けると、太陽のように煌々と輝く火球に照らされたナツキの横顔がある。ナツキは両手をスピカの手に重ねながら視線をちらりと向けて言った。
「ククッ、助けに来たぞ。大丈夫か?」
大丈夫じゃない。死ぬところだった。ナツキに助けてもらえたことが嬉しくて、でも同時に恥ずかしくて情けなくて。相反する感情が渦巻いて言葉に詰まる。
そんなスピカの心を見透かすようにナツキは微笑んで『心配するな』とだけ言った。彼の赤い右眼が光を宿す。
「天の水門。大いなる天の水源は開かれ、創世記はノアの方舟の訪れを報せる」
ほとんど蒸発しかかっていた水の盾の周囲に魔法陣のような水色の円がいくつも発生するのをスピカは見た。空中に、十、二十、三十、百……。空間に出現した大量の魔法陣は古代ヘブライ語の文言があしらわれており、それらは強い光を放つと中心から膨大な水流を放った。
ギルガメシュ叙事詩や、旧約聖書の第一章でもある創世記など、古い伝承においては世界的に『洪水』という共通の天災がある。特に創世記ではノアの方舟に繋がる重大な出来事として世界中の人々に知られており、ノアとか方舟とか響きのカッコいい言葉が大好きな中二病にとっては近所の川より馴染みのある大洪水だ。
ナツキは『夢を現に変える能力』によって世界を洗い流す大洪水という夢想を現実にしたのだ。
「ありがとうアカツキ。……あなたには助けられてばっかりね。でもこれだけあればもう大丈夫」
コロシアムを海のように思わせてしまうほどの水。盾の後ろにいるスピカとナツキ以外、コロシアムは水で一杯に満たされ波打っている。水深二メートルはあろうかという高さまで溢れた水。水、水、水。
スピカの青い両眼は力強く淡い光を宿す。
「火炎の球が何だっていうの! 私の恋の炎はもっと熱くて、何よりも、誰よりも眩しいッ!!!!」
年下の想い人。ナツキへの感情を胸の中で増幅させながら、年上らしく今だけは少しだけ格好つけさせてほしいと密やかに願う。
完全に破壊され空をはっきりと見えるほど開かれてしまったコロシアムの天井では黒い巨大なドラゴンが翼をはためかせ飛んでいのが見える。スピカが水を操ると火球は全体を荒波に飲み込まれ、その熱を完全に吸収しきった。さらに水は渦を巻き、中心に集まり、徐々に生き物のように蠢きながら形を作っていく。
海と錯覚するほどコロシアム一杯に溢れていた水が全て干からび再び床が見えるようになるほど空っぽになる。それらの大量の水は今、コロシアムの中心でドラゴンの姿へと変貌を遂げる。
普段のスピカが作るのは水龍。龍なので、翼のない東洋のドラゴンだ。蛇のような細長く一本道な形状は水の流れを意識しやすく無駄も少ない。だが、今回スピカが生み出したのは天を覆うほど巨大なドラゴンを前にしても見劣りしないほど大きな水竜。龍ではなく竜。西洋のドラゴンの形状だ。両翼を広げればコロシアムに収まりきらなくなるほど巨大な水のドラゴンである。
「アカツキ!」
「ああ!」
スピカがジャンプして水竜に飛び乗り下にいるナツキに手を伸ばす。その手を取り固く握りしめた。ナツキを引っ張り上げたスピカ。彼女を背後から抱く形で水竜の背中に跨る。二人乗りだ。
「アカツキ、振り落とされないようにしっかり私に掴まっておいて!」
「ああわかった……って、ぐぁぁぁッ!?」
言われた通りナツキがスピカの腰に手を回そうとした瞬間、水竜はぐんと急激に高度を上げた。地面に垂直になりぐんぐんと高く高く突き進む。
急激なGがかかり落ちそうになったナツキは咄嗟にスピカの身体に腕をかけた。突然の出来事だったので目測を誤り、その掌はスピカの胸を背後から両方とも鷲掴みしてしまう。指がむんにゅりと沈み込んでしまうがむしろナツキの手にフィットしていて、振り落とされずに済んだ。嬌声をぐっと堪えたスピカは顔を真っ赤にしながらも水竜を操り、高度をどんどん上げてコロシアムの天井を出た。
鷹揚とした動作で翼をはためかせ浮遊する黒いドラゴンと、ナツキたちを乗せた水のドラゴンが曇天の下で相対した。遥かに高いその場所からはイギリスの街並みが一望できる。だがナツキにもスピカにもそんなところへ目を向ける余裕はない。
黒いドラゴンの口からは野太刀よりも大きく鋭い牙が見え隠れし、呼吸のたびに小さく炎が噴き出ている。獰猛な視線は強者のそれであり、ドラゴンと人間は捕食者と被食者の関係であることをナツキたちは痛感させられた。
存在感がヒリヒリと肌を突き刺す。ドラゴンは生物としての格が圧倒的に高く、地上の動物たちができるだけ遠ざかろうと走って逃げている様子が確認できる。
「ラピス……」
黒いドラゴンの背には虚ろな青い両眼で何かをぼそぼそと呟くラピスの姿がある。屋敷ではガラス張りのバルコニーにいた。もしも彼女が外との関わりをシャットアウトしなければならない事情があるとすれば、現在進行形でラピスが外にいる状況はまずい。なおかつ、人格へ一切の傷をつけずに能力を解除させなければならない。
水のドラゴンの背で立ち上がったナツキは幼い友人に声を張り上げる。
「ラピスゥゥゥゥゥ!!!!! これがお前の望んだ世界なのかァァァァ!?」
昨日と一昨日。少し会話しただけでわかった。ラピスは賢い。それでいて、中二の気がある。自分によく似ている。知識を蓄えることが得意で、それらが想像力と結びつき、縦横無尽の妄想が脳の全てを駆け巡るあの感覚。
ナツキが能力を本気で使えば一度ラピスを殺害し能力を解除させてから生き返らせる、などという芸当も可能かもしれない。でもナツキはそれはしたくなかった。能力とは中二病にとって憧れであり、理想を現実にするプロセスであり、何より自分自身の写し鏡だ。各人が心から欲したものが能力として結実する。
それを力ずくで剥奪し言うことを聞かせるのが正しいのだろうか。いいや、正しいわけがない。かつて能力を持たないときに葛藤を経たナツキだからこそ抱く思いがある。ラピスには能力と向き合ってほしい。すなわち、能力という名の自分自身と。
「たそ……がれ、あかつ……き……」
ラピスがぼそりと呟く。だがナツキの声は彼女の心を開かない。物語を再現し誰も死なない世界にする。ラピスの願いは歪めた形で暴走させられ、ラピスが頭の中に蓄えてきたあらゆる物語を再現してしまう。
ドラゴンはナツキを追い払うかのように口を大きく開けて『グウォォォォォォォォォォッッッッ!!!』と咆哮を放った。同時に、地上でも数多の叫び声が一斉にこだまする。
見下ろしたナツキとスピカはその光景に息を呑んだ。
伝説上の動物や神話の世界の怪物が跋扈し、イギリスの大地を蹂躙しているその光景に。