第246話 つまり、ファンネル
スピカは相手の命を奪わない。それは信条であり業務であり強さの証だった。
星詠機関の仕事で能力犯罪者を相手にするときも殺害は決してしない。そうせずともスマートに敵を捕縛・制圧できるし、口を割らせれば得られる情報も大きい。エカチェリーナとバーバラのときのように意外なところで生かした人間に繋がりがあることもある。
今回も同様だった。スピカが作った水流はたしかに薫の背後を取ったが、撃ったのは心臓ではなく肩だ。それも刀を持つ右手の肩。
「なっ……」
思わず刀を手放すも、空中にて左手で掴むことで落とさずに済んだ。
「あなたは強い。観察眼も鋭い。だからそれを逆手に取らせてもらったわ。あなたの斬撃を受け止めるために水のカーテンを生成したとき、私は水の純度を高めた。おかげで光は一部が透過するけれど残りはくっきりと反射して鏡みたいに映るわ。あなたの背後もね。観察眼に鋭いあなたは私の能力で作った水壁すら情報を得るのに利用したはずよ」
左手で右肩を傷を押さえ片膝をつく薫は返事をしない。沈黙は肯定だ。それが何よりスピカの意見の正しさを示している。スピカは自信をもって続けた。
「あなたはこう思ったはず。『水でできた鏡面には自分や自分の背後が映っている。そこには自分の姿以外はない。ということは背後から攻撃するような罠は仕掛けていない』ってね。普通の人は私の水を自在に操る能力を警戒するのよ。でもあなたは強く、なおかつ観察眼に優れるがために安全を確信してしまった。でもね、湖に映る月は偽物よ。私は水の中に不純物を混ぜることで部分的に屈折率を変化させていたの。だからあなたはこれを見つけることができなかった」
薫の背後に浮かんでいた『それ』は空中を浮遊したままスピカのそばへと戻ってきた。『それ』は一つではない。十五、六ほどスピカの周囲を浮遊している。
「それは、鉄扇のパーツ……?」
薫の見立ては正しい。さっきは水を貯えたり射出したりするのに使っていた鉄扇はバラバラに分解され、複数の金属の板となって宙に浮いているのだ。スピカの下に帰還した一枚が水壁から水分を補給している。
鉄扇は普通の扇子と違って和紙ではない。折り畳めない。一枚一枚がそもそも分かたれていてスライドすることで広げたり閉じて持ち運んだりできるようになっている。バラせば、当然鉄扇と同じ二十センチメートルほどの金属の板のパーツになる。
しかし待機室ではエカチェリーナがそれを見て唖然とすると同時に不思議そうに呟いた。
「つまりあれはビット兵器か……? だが彼女の流体操作の能力は液体操作に特化していて、形を捉えられない空気のような無形の流体は脳が疲労するからほとんど使っていないと言っていたが……」
「ククッ、よく見てみろ。最初に鉄扇を出したときから、あの金属板一枚一枚にレリーフが刻まれていたんだ。きわめて細くな。そしてそこに水を通す。おそらく毛細現象でな」
「毛細現象って?」
「細い溝や管があると、液体はそこを勝手に通るんです。静電気力や分子間力が原因だと言われていますね。ほら、プラモデルに炭入れをするとき溝に数滴インクを垂らすでしょう? べたべた擦らなくても数滴垂らすだけで自然と溝全体に液が行き渡ります。要は重力すらも無視して液体が動く現象ってことです」
美咲の質問に秀秋が答えた。さすが教師だけあって説明はわかりやすいが美咲はプラモデルなんて作ったことないんじゃないかなぁとナツキは苦笑いしているが。
「ククッ、つまりだな、水の隠し場所は鉄扇の金属板そのものだったんだ。そして、板の一枚一枚が水を保持している。それも水は溝を流れている。だからスピカは空気を操って金属板を動かしているのではなくて金属板の溝の中を流れる水を操ることで結果的に金属板自体も動かせているんだ」
それは同時に、浮遊する金属板が水を射出する兵器となっていることをも意味している。現に薫の肩を撃った金属板は一発放った後にすぐスピカの下へ戻って水壁から水を補充していた。撃っては補充し撃っては補充し。それを十数枚全てが同時に行える。
スピカは口角を上げて不敵に笑う。鉄扇だった金属板、十数枚が一斉に先端を薫に向ける。そして金属板は空中を素早く移動し、薫の頭上、左右斜め上、背後、足元など様々な射角へと向かった。
全方向から水の攻撃を受ければただでは済まないので薫はすぐさま後退する。止まったら的になるので動き続ける。
しかしそうして動く最中にも金属板からはビームのように水が射出され、行動範囲は制限される。水は床の金属を貫通して建物の土台のコンクリートにまで到達していた。
壁際まで追い詰められた薫は刀を鞘に納めて言った。
「ボクから一本取るなんて本当にすごいよ。感心しちゃった。まさかボクの強さ故の慢心と油断を突いてくるなんてね。なかなかに面白い! じゃあそろそろボクも能力を使ってみようか」
橙色の両眼に淡く光が宿る。
追い詰めたとはいえスピカは警戒を怠らない。さっきまで壁の形を作っていた水はスピカの周囲で蜷局を撒く水龍となっていて、ビットレーザー兵器のように飛び回り攻撃する金属板は水を水龍から補給する。そして床や天井に飛び散った水分は一滴残らず能力によって回収され一か所に集められ再び水龍の身体に取り込まれるのだ。
スピカはトドメを刺すため金属板のひとつから水を放った。逃げ場はない。故に必中。だが。
「あーらよっと、ってね」
薫は跳んだ。そして走った。どこを? 壁を。
コロシアムの楕円形に合わせて作られた金属の硬い壁を、まるで地面を走るみたいに当たり前のように駆けている。十枚以上の金属板が薫を追いかけ水流を放つが薫に追いつかず弾痕が壁にいくつも刻まれる。
「ああ、それと! 刀を握っていた方の腕の肩を狙ったのは良いアイデアだけどね! ボク、両利きなんだ!」
重力を無視するかのように壁を走りながらそう叫んだ薫は刀を左手に持ち替え、そして壁を蹴り弾丸のような速度でまっすぐにスピカへと斬りかかった。
「まずっ……」
スピカは咄嗟に水龍を向かわせ顎を大きく開き薫を喰らおうとする。しかし薫は水龍の顎を上下真っ二つに切り裂いた。その勢いのまま刀が振り下ろされ、あわやスピカが斬り殺されるというとき。
「あんまりやりたくないんだけど……!」
スピカは自身の周囲の空気、気体という流体を操り、ふわりと空高く浮かび上がった。後退し薫から距離を取りながら刀の届かない高さまで向かう。壁を走られる以上、最も安全なのは空中だ。
「おい秀秋、高宮薫のあの能力は……」
待機室ではナツキが秀秋に確認の意味も込めて尋ねる。
「ええ。想像の通りだと思いますよ」
「六等級というのは戦闘どころか実生活でも役に立たない貧弱な能力だ。だが、その中でも壁歩きなんていう無謀を実現できるのは……摩擦を操る能力。そうだな?」
「はい。摩擦を操る……というと強そうですけど、六等級ですからね。精々ゴルフのパターのときボールがちょっと転がりやすくなるとか、車を運転しているとき制動距離が気持ち短くなるとか、その程度のはずです」
「ああ。ということは能力の補助はわずかで、あとはほとんどが身体能力とバランス感覚だろう。超人じみているとしか……」
「ええ。あ、ちなみにあの人は水面も走れますよ。沈む前に次の足を出す、を繰り返すだけだそうです。二十年前に言ってました」
さて、あんぐりと口を開けたナツキたちをよそにスピカは脂汗をかいていた。やはり見えない空気を強引に操るのは精神力も集中力も尋常ではない。体力がごっそりと削られた気分になる。
すぐさま床に散った水を集めて足場を作る。水の龍の背に乗る格好だ。
「ふむふむ、龍殺しか。面白い! やってみよう! それにボクならきっとできるしね」
薫は余裕の笑みを絶やさない。