第242話 スレッド・オン・ファイア
ホワイトブリムの下の黒髪を振り乱しながらベティは思い切り糸を引き絞り一点に集中させた。狙いは秀秋ただ一人。回避不能の一撃だ。
秀秋は目を閉じ、軽く深呼吸する。このままでは自分はサイコロステーキになるだろう。だが、そんな姿を高宮薫に見せていいのか? 彼女の剣技に自分の証を残したくはないのか? そう自問すると、心の奥底からふつふつと湧き上がる熱があった。力の源泉。秀秋の人生とは、すなわち幼少期に出会った薫の剣への憧れであった。それ以外はいらない。剣以外は頭にない。
そんな気狂いの秀秋にとって、たかだか糸など何の障害にもなり得ない。目を見開く。腕を伸ばす。両手にはそれぞれ二本の短剣。順手で握っている。
そして、その場で独楽が回転するように激しく腕を振った。
ビュウ、と風を切る音だけが残る。
シアン陣営の待機室では、その光景を見ていた高宮薫も『ほう』と唸るほどだった。
ヒラヒラと糸の破片が舞い落ちる。
「そ、そんな馬鹿な! 私の糸を全部切り落としたと言うのですか!?」
スクリーンからベティの叫びを聞いた待機室の薫が他の面々に解説を加えた。
「彼、すごい剣士だね。観察の眼はボク以上じゃないかな。同時に迫って来る複数の糸だけど、それは等距離じゃない。自分に最初に到達する糸、二番目に到達する糸、三番目に到達する糸……っていう順で斬れば無傷だ」
「でもそれは並大抵のことではないのでしょう?」
シアンの問いかけに笑って頷く薫。面白い剣士を見つけたことが嬉しいのか、随分と機嫌が良い。
「まず超人的な観察眼。視力自体は能力なんだろうけど、糸の距離感を理解する空間把握能力は鍛えたものだろう。次に身体操作技術。糸の動きや距離、タイミングがわかっていてもそれに対処できるように剣を振るうのは簡単じゃない。最後に適応力。普段は三尺長の日本刀を使っているのに、今は半分にも満たない短剣ときた。それも両手で。だというのにまるで長年愛用しているのかって思うくらいに馴染んだ剣捌き。それに集中力も。あの子、まともじゃないね。ちょっと頭のネジ飛んでるんじゃないかな!」
このままではマズいと判断したベティが糸を出そうとした瞬間、秀秋は短刀のうち一本を投擲した。ベティの右手首の腱を裂き、手はダラリと垂れ、糸はあらぬ方向へと射出される。
すぐさま左手で手首を押さえながら糸で縫合を行うが、中の腱が繋がっていない以上は右手はもはや使い物にならない。傷が塞がり止血できただけだ。
残り一本の短剣を手にした秀秋が迫る。負ける。ベティの頭の中に敗北の二文字がよぎる。続いて、主であるシアンとラピスの顔が。
(ダメ……絶対負けてはならない……今だってラピスお嬢様も奥様も見ていらっしゃるのよ!!)
ベティはありったけの力を両手に込めて能力を発動した。糸はどこへ向かうでもなく無尽蔵に創出される。
「何をしようとしているのか知りませんが、無駄な足掻きですよ」
秀秋の冷たい宣告など今のベティには聞こえていない。負けちゃダメだ。負けちゃダメだ。負けちゃダメだ。それだけが脳内で連呼される。
糸は止まらない。紫色の両眼は光を灯し続けている。
ベティの能力は、三等級である。糸は地味で破壊力はないが暗殺やトラップには長けている。それでも、やはり三等級なのだ。犬塚牟田が巨大な氷の塊を生み出したのと同じ等級である。
ならば、糸で同規模の現象を再現できないはずがない。
壊れたコピー機のごとく手から溢れ続ける糸は、小さな丘くらいの量になっていた。埋もれるようにその中心にベティがいる。秀秋は自身の鋭く冴えた剣技なら短剣であっても糸ごとベティを斬り伏せられるという確信があった。
だが、俯いていたベティが顔を上げカッと眼を剥く。
刹那、その大量の糸が散らばった。コロシアムの中でベティと秀秋の二人を包むように。
ヒュヒュヒュヒュ……と糸の塊はほどけるように上下左右に広がり、そして今度は互いに糸同士が縒れて結ばれて紐を形成し、綱を形成し、それらが編み込まれて布を形成し、最後には二人を覆う玉となった。
画面越しに見ている者たちには虫の繭を連想させる。それも巨大な繭。幾重にも糸が集まり重なって、コロシアムで転がる一個の大きな玉を形作った。
「なんのつもりです? カメラから勝敗が見えないようにして時間稼ぎですか?」
訝しむ秀秋に対して、ベティも頬を釣り上げて笑った。
「勝負と行きましょう。どっちの狂気が上なのか」
ベティは懐からフラググレネードを出す。それは秀秋に所持していることを最初から見抜かれていたので使い道のなかったものだ。彼女は糸でグレネードを輪切りにし、信管を刺激しないように気を付けながら火薬だけ取り出した。
「まさか、あなた」
秀秋が言い終えるより先に、ベティは火薬を真上に放り投げハンドガンで撃ち抜く。わずかに上がった火の粉はそこら中に散らばった。そして、二人を覆い隠す糸の繭に引火した。
火の手は指数関数的に強くなる。可燃物がある限り、引火した物体が新たに大きな火種となるからだ。雪だるま式に火は大きく激しくなっていく。そしてあっという間に糸の繭は真っ赤に炎上し、黒煙を上げた。
ゴウ! と激しい炎が糸の繭の内外で荒ぶるように燃え盛る。
「この繭を形成しているのはあなたへの攻撃に用いたそれと比較したらとても脆い糸です。そして脆いが故に燃えやすい。まるで私みたいでしょう? 私はあなたよりきっと弱い。でも弱いからこそ強く激しく燃え上がる! 私のお嬢様や奥様への想いはッ! 熱く! 熱く! もっと熱く!」
秀秋は膝をついた。全方向から吹き荒れる炎が皮膚を焼くのは構わない。それくらいの痛みは気にも留めない。だが、一酸化炭素。これが秀秋の意識を徐々に侵食していった。
「さぁさぁ東の国のお侍さん! あなたと私、どっちが意識を保っていられますかねぇ!? 或いは二人とも一酸化炭素中毒死? 火葬不要の遺体丸焦げ? ふふん、どちらでも構いません。だって、二人同時の死亡は少なくとも私の負けではありませんから!!!」
粘り強く意識を保ち続けたら秀秋の敗北でベティの勝利。
二人とも意識を失ったら、二人の死亡により勝敗はなし。引き分け。
どちらに転んでもベティにとっては悪くない。ここで自分が引き分けて明日高宮薫が勝てば、二勝二敗一分け。延長戦に持ち込める。決して負けてはならないという自分に課した重圧から解放されたベティはさぞかし気分が良いのかずっと高笑いを続けている。
飛び散る火の粉が彼女の口に入っていって喉を焼く。そんなことなど気にも留めていない。
「まったく……あなたも私と同じでとんだイカれ野郎ですね」
「ラピスお嬢様! 私、美しく燃えますので見ていてください! どうか!」
糸の繭を斬って脱出しようにももう手足が動かない。膝立ちの体勢も難しく、秀秋はついにうつぶせに倒れた。ボウと吹き荒れた火の息吹が皮膚を爛れさせる。火の海に突き落とされた光景が目の前に広がる。バチバチと糸が燃焼される音だけが同じリズムで耳に響き、どこを見てもオレンジ色に塗りつぶされている。
火の手はますます強くなり巨大な火の玉と化した糸の繭はその形を崩す。糸が灰になり、ボロボロに砕け始めた。
「勝ったぁ……はぁ、ハァ、はぁ、私の、勝ち……」
同じく朦朧とする意識の中でベティは煤で汚れた頬を拭う。火は等しく彼女をも焼きメイド服はその形状を保っていなかった。
熱さも痛みも飲み干したベティは、この先のことなど考えていない。目の前で自分より先に敵が倒れた、だから自分の勝ち。その事実だけが嘶きのように脳内を駆け巡る。
そして。
火も、糸の繭も、全てが消え去った。
「『現を夢に変える能力』、ククッ、悪いが能力は封じさせてもらったぞ」
コロシアムに人影がある。青い左眼だけが淡く光を宿している。
『さきほど、黄昏暁陣営とシアン陣営の両陣営より共同の申告がありましたぁぁぁ! 両者棄権とのことです! よって第四戦は、引き分けぇぇぇぇぇぇ!!!!』
実況アナウンサーの叫びがコロシアムに響く。巨大な糸の繭を消した張本人であるナツキはしゃがんで秀秋に触れると止まっていた呼吸が再び動き始めた。
「な、なんで……このまま続行していたら私の勝ちだったのに……」
呆然と立ちすくむベティのそばに、もう一つの人影が近づいた。
「私は言ったはずよ。自分を犠牲にするような真似はやめなさいと」
「お、奥様……」
シアン・ネバードーンは日傘を放り捨てる。そして腕を振り上げた。ぶたれる。そう覚悟して目をキュッと閉じた瞬間。
温かい抱擁に包まれた。
「もっと自分を大事にしなさい。勝手に死ぬなんて許さないわ」
耳元でシアンの声が聞こえる。ベティは敬愛する主の言葉が身に沁み、心に響き、そうしてやっと自分が何をしようとしていたのか理解した。無残に醜く焦げ果てた自分の姿を顧みて、ベティもシアンへ抱擁を返す。その腕は赤く、ところどころは黒く炭化していた。
「申し訳……ありませんでした……ッ!」
カメラで撮られていることも気にせずにベティは泣きじゃくる。鼻水を垂らし、涙を流す。
屋敷でテレビを通してこの様子を見ていたラピスは、しかしそんなベティの姿を綺麗だと思った。彼女こそ自分の自慢のメイドである。そう思った。