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第237話 新月の晩の邂逅

 その晩、ナツキは夜風に当たりにホテルを出て散歩をしていた。北半球の八月とはいえ夜は冷え込む。特にイギリスは緯度が高いうえに雨が多いことでも知られており気温は低い。幸いいつもの黒いマフラーと黒いローブコートを着ているのでナツキは快適な気候に感じることができていた。


 エカチェリーナの部屋にいた際にスピカが乱入して大騒動になってしまって、そこに美咲も加わり、エカチェリーナが自分もナツキと一緒のベッドで寝たいと言い出したことで三人のケンカが激化。

 ナツキを奪い合ってキャットファイトが行われる最中、意識を取り戻したナツキはそそくさとホテルを抜け出したのだ。本人は知る由もないが、現在三人はくたくたに疲れ果て一つのベッドに並んで眠っている。


 今日は新月なのだろうか。空を見上げても月は出ていない。またたき輝く星の合間を雲が風に流されて通り過ぎていく。

 イギリスの古風な街並みは温かみを感じる。陸橋の上から眺めてみれば、立ち並ぶレンガ造りのジョージアン建築の四角い窓からオレンジ色の灯がところどころ漏れているのを確認できる。


 それからもしばらくナツキは歩いた。歩き続けるにつれ、夜は更け灯りがついた家も減ってくる。エカチェリーナにつきっきりで看病をしていたときに仮眠を取っていたのであまり眠くはない。

 せっかくの海外、せっかくのヨーロッパ、せっかくの伝統的な街。能力バトルも楽しいがファンタジー作品を想起させる街をあてもなく歩くのも良い。


 十七世紀にタイムスリップしたような風景に心が躍る。夜なので車通りは少ないが、時折遠くから汽笛の音が聞こえる。夜行列車だろうか。鉄道は夜も人を乗せて走っているらしい。


 そうしてぶらりふらりと散歩しているうち、徐々に中心部からは離れていった。郊外からもさらに外れていく。気が付けばナツキは暗い森に入っていた。真っすぐ歩いている以上は逆方向に歩けば迷子にならずに帰って来られる。だったら自然を見てみるのもいいか、とナツキは特に気にすることなくずんずんと森に入っていった。

 夜風が木々をざわざわと揺らす。フクロウの鳴き声のする方へ目を向けると暗闇に二つの光の玉が浮いていて思わず叫びそうになる。木の巣穴ではリスの親子が体を丸めて寄せ合い眠っていて、かと思えば目の前をコウモリの群れがバタバタと元気よく通り過ぎていく。


 日本ではあまり味わえない光景も楽しみながら、好奇心に突き動かされるナツキはさらに夜の散策を続ける。

 


〇△〇△〇



「ベティ、今日のお母さまはちょっと怖かったわ」


「それは……」



 ラピスは屋敷のバルコニーから夜の庭を眺めながらそう言った。外の世界の雑菌を屋敷に入れることは許されないので、まるでショーケースのように四方をガラス張りにして覆っている。そんな仮初の『外出』であってもラピスにとっては娯楽であり癒しだった。


 ベティは側に控えており、ラピスに対して言葉を詰まらせる。シアンがエカチェリーナの四肢を千切ったショッキングな映像はカメラを破壊していたため放映されることはなかったが、その後のシアンたちの表情はラピスも目にしている。

 たしかに怖かった。ベティですら待機室でつい一言具申してしまうほどだ。子供からすれば親のそうした表情はより敏感に気が付くだろう。


 他方でベティはシアンの心情も理解できる。シアン自身も、そして愛娘のラピスも、命をつなぐために様々な幸福を犠牲にしいくつもの制限の中で辛うじて生きている。それなのに怪我や傷を自在に治すエカチェリーナや生死の境を操ることすら能力の範囲内で行えるナツキは羨望の対象であり憎悪の対象となる。


 現に今のラピスは無菌室のように徹底的に管理されたガラスの部屋で外の景色を眺めている。白いテーブルの上にはティーポットがある。ラピスが手に持っているティーカップの中身は紅茶ではなく煮沸されたただの白湯だ。

 そんな痛ましい光景を一番近くで見続けるベティは憤るシアンの気持ちもその姿を恐怖するラピスの気持ちも両方できた。



「ラピスお嬢様、冷え込んでまいりました。そろそろご就寝なされないとお身体に障ります」


「ありがとうベティ。でも今日はなんだかもう少しこうしていたい気分なの。せっかくの朔月(さくげつ)だから」



 曇った夜空をガラス越しに見上げるラピスの姿に胸がキュッと締め付けられる想いになる。ラピスとて一人になりたいときや考え事をしたいときもあるだろう。屋敷という常に誰かがいる狭い世界ではなおのことそう望んでしまうはずだ。

 ラピスの気持ちを慮りベティは深くお辞儀して『それでは今晩はここで失礼いたします』と告げた。



「ベティ、ちょっと待って」


「はい?」



 呼び止められたベティが振り向くとラピスが手招きしている。訝しみながら側に近づき膝をついて用件を尋ねると、ラピスは少しだけ照れくさそうに目を背けながら顔を赤くしてぼそりと呟いた。



「……ぎゅってして」


「え?」


「ん!」



 ベティが聞き返すとラピスは両腕を広げた。その意図を察したベティは立ち上がり優しく抱きしめる。ラピスは椅子に座っているので顔はベティのメイド服の腰の手を回しお腹のあたりに埋もれている。

 いじらしい少女の姿に胸を打たれたベティはラピスの瑠璃色の綺麗な髪をそっと撫でてやる。気持ち良かったのか照れくさかったのか、抱き締める腕が強くなった気がする。



(物思いに耽りたい気持ちと、まだまだ甘えたい気持ち。大人と子供が両立しているのね)



 ラピスは非常に幼い。同時に、大量の読書量に裏打ちされた聡い側面もある。心も体も子供なのに知識量や思想の広さは既に大人並かそれ以上ある。この歪さがこうした矛盾を生み出す。

 口調も行動も大人っぽいのに時々ものすごく甘えん坊になることがある。こういうときベティは一人の従者としてだけでなく、姉のような心持でラピスと接するのだ。どれだけ頭が良くても、身体が今後もしも健康になっても、幼少時に愛情が注がれなければ心までは育たない。忙しいシアンに代わってできることは全部したいというのがベティの意見だった。



「ん……もういいわ。ありがとう」



 顔を上げたラピスは突き放すようにベティの腹を手で押した。やっぱり甘えることに恥ずかしさがあるんだな、とベティは小さく笑う。



「それでは、今度こそ失礼させていただきます」


「あ、えっと、ベティ」


「はい」


「おやすみなさい」


「はい。おやすみなさい」



 突き放してはみたがやっぱり寂しくなったのか呼び止めて、しっかり目を見ておやすみを言ったラピス。ベティは軽く微笑むような素振りでおやすみと返事をしたが、背を向け部屋を出るやいなや『うちのお嬢様はなんと可愛いのか……!』と頭を抱える。子煩悩ならぬ主煩悩である。


 残されたラピスはティーカップの白湯の湯気に目をやりその中に母の先ほどの表情を思い出して浮かべる。

 絵本の物語では、お姫様の母親は王国の力自慢を集めて五人で魔女の森へ行く。そして五体の敵と戦うのだ。だが、魔女を殺すことはない。生かして連れて来る。お姫様は魔女を許す。そういう筋書きだ。

 それなのにあのときの母、シアンの顔は恐ろしかった。きっと魔女を見つけ出したら生かすことはないだろう。それが辛く、切なく、悲しかった。


 バルコニーはガラスで覆われているので夜風はない。森のざわめきも聞こえない。今晩は新月なのでいつも自分を見下ろす月の姿すらない。

 ラピスは病のせいで息苦しい生活を強いられている。だからこそ夜の孤独が心地よかった。



「ふぅ……そろそろ寝ようかな」



 空になったティーカップをそっと置き、そう口にしたときだった。静寂を破る者が現れる。



「ククッ、迷子にはならないと思っていたんだがな……。これはいわゆる迷いの森か。森全体が結界か何かで覆われていたんだろう」



 屋敷の庭は木々で覆われている。ラピスが菌やウイルスに触れないよう人が多く住む場所からは遠く離れたところに屋敷を構えているのだ。郊外とは森を挟む格好となっている。

 そしてバルコニーの正面の庭も、壁ではなく一面の緑で敷地を囲んでいる。そんな森の中から一人の少年が転げ出た。


 新月。月のない夜。ラピスはナツキと出会う。

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