第236話 リンゴの花ほころび
黒刀の刃はぴたりとエカチェリーナの手の甲に当てられている。皮膚だけがうっすらと斬られたようで、赤い血の筋ができた。片手で軽々振って為されたその寸止めは達人の域に達した絶技である。
「どうだ。痛いだろう」
「あ、ああ」
「痛いってことは生きてるってことだ。ちゃんとお前の身体がこの世界にあるってことだ」
ナツキの手から黒刀が消える。エカチェリーナは痛みのおかげで意識が明瞭になってきたようだ。目の焦点があい、血が垂れる手を見て落ち着きを取り戻した。
「すまない。手間をかけさせたな」
「ククッ、逆幻肢痛だな。四肢があるのに、ないかのように感じていた。そういうときは痛みが手っ取り早い。夢かどうかたしかめるために頬をつねるみたいにな」
その冗談めかしたナツキの言いぐさにエカチェリーナもくすりと笑った。掌をグーパーグーパーと開けたり閉じたりしてみる。はっきりと言うことを聞いて動いてくれる。
「私は四肢だけでなく命も失っていたはずだ。暁が助けてくれたのか?」
「放っておけないだろう。エカチェリーナは俺にとっては仲間だし、夕華さんにとっては数少ない友人の一人だからな」
「ありがとう。何から何まで……。だが、私は負けた。お前がクリムゾンを倒したみたいに私もシアンという強敵を倒せるよう死力を尽くしたんだが……。届かなかったよ」
俯いたエカチェリーナは目を伏せる。祖国の名を背負い臨んだ戦いに負けた。ナツキのように勇ましく難敵を攻略することは叶わなかった。たまらなく恥ずかしく、惨めで、辛く苦しい。祖国の民に申し訳ないのはもちろん、自分の未熟さが許せない。
こんな生き恥を晒すくらいならいっそ本当に死んでしまった方がいいのではないか。そんな破滅的な考えすら今のエカチェリーナの頭にはずっしりと重たくのしかかっている。
唇を引き結び苦しそうに俯くエカチェリーナの頭に、ナツキはポンと手を置く。
「ククッ、俺はエカチェリーナのことをかっこいいと思ったぞ。特に青い光を全身から放って戦っているときのお前は神々しくて……まるで戦女神みたいだったな。治癒の能力が常時全身で発動していたということは、身体の内も外もボロボロになっていたわけだろう? それなのに痛みを堪えて諦めずに最後まで戦い抜いた。祖国への愛もこの戦いへの責任感も決して忘れることなくだ。もし俺が国民だとしたら、エカチェリーナが王族でいてくれることを誇りに思うだろう」
エカチェリーナは責められても仕方ないと思っていた。それなのにナツキは非難するどころか褒めてくれた。
今まで王族として生きてきて、慣れないドレスを纏って参加したパーティーで美しいと世辞を言われてきたことは何度もある。だが、自分が一番想いを抱いて臨んでいる『戦い』という場での姿をかっこいいと言われたのはこれが初めて。
もっぱら姉のアンナの方が女神やら聖女やらとその眉目秀麗さを称えられてきた。戦場に立ちたがるエカチェリーナは荒々しく野蛮だと思われていたし、浮いた話もまったくない。
そしてエカチェリーナ自身それでいいと思っていた。王族として自分が責任を果たし『覚悟』をもって臨めるのは戦場だけだ。適材適所でいい。別に誰かに褒められたくてやっているわけではない。王族として当然の務めを果たすだけのこと。戦いに生きて戦いに死ぬ。祖国のためなら喜んでこの身を捧げよう。
心の底からそう思っていたのに。
(た、戦っている私を女神みたいだなんて……)
黄金のような金髪をナツキにサラサラと撫でられながら、エカチェリーナは自分の顔が熱くなるのを感じ取った。きちんと動くようになった手で自分の両頬を触ってみると、ぽわぽわと温かい。それが照れという感情であることをエカチェリーナは二十年ほど生きてきて未だ知らずにいるのだ。
「エカチェリーナ、たしかに結果的に今回は負けだったかもしれない。だが俺は最後の最後までかっこよく、そして美しく戦い抜いたエカチェリーナのことを尊敬している。戦っているときのエカチェリーナは本当に綺麗だった」
「……黄昏暁。ふう、まったく。どうしてユウカがお前を好きになったのかわかる気がするよ」
もじもじと小さくこぼしたエカチェリーナの言葉はナツキの耳には届かない。
ナツキにとって、戦女神とか戦乙女とかはよく見聞きする単語だ。中二病ならそれらの単語についでにヴァルキリーやワルキューレとルビを振るところだろう。それに世間の大半の男性の認識と違って、アニメやゲームでは戦う王族の存在など一般的。尊敬すべき王族の志や最前線に立って戦う勇敢さを正しく理解し敬意をもつことは中二なナツキにとってまったく自然なことだった。
ナツキは思った通りのことを口にしただけだ。もちろん、少しは敗戦を喫したエカチェリーナを慰めてやりたいという気持ちがなかったわけではない。しかし発言には一点の嘘もない。その真っすぐな気持ちはエカチェリーナの心に淀みなく届いた。
ましてエカチェリーナからしたら自分の命や手足を救ってくれた恩人でもある。発言と行動。その両方が伴い、エカチェリーナはますますナツキへの熱い想いが湧き出るのを感じた。
「ひとつ、お願いがあるんだが構わないだろうか」
「俺にできることなら」
「……私のことはカチューシャ、と呼んでほしい」
ロシアには独特な文化がある。名前には特定の形式で愛称が存在するのだ。女性で言えばソーネチカがソーニャになったり、アナスタシアがアーニャになったり。男性ならロジオンがロージャになる、といった具合で。エカチェリーナの場合、それがカチューシャになる。
ニックネームというより名前の別の姿と表現する方が近い。ナツキもまたそういった言語的な習俗は理解していた。
「ああ。わかった。カチューシャ」
「……私は王族だからな。馴れ馴れしく愛称で呼んでくる者は世界中のどこにもいない。…………家族を除いて」
顔を真っ赤にして蚊の鳴くような小声で呟く。エカチェリーナにとってほとんど告白に近い言葉だ。ナツキと家族に……夫婦になりたい。しかしやはり今度もナツキの耳には届いていなかった。
(すまない、ユウカ……)
遠く東の国に住む友人へ心の中でそっと謝る。だが、自分の想いに嘘をつくことはできない。燃え上がる恋心を見て見ぬふりはできやしない。友情は友情。愛情は愛情。エカチェリーナはそう自分に言い聞かせる。
「顔が赤いがどうかしたか? もし戦闘の後遺症で熱病になっているのなら……いや、カチューシャの能力に限ってそれはないか。それとも傷や怪我が対象であって病気は対象外か。ククッ、やはり異能力を考察するのは胸が躍るな。カチューシャもそう思わないか?」
「そ、そう何度も呼ぶなぁ……!」
「どっちだ。呼んでほしいのかほしくないのか」
「呼んでほしいに決まっているだろう!」
凄まじい気迫を見せたエカチェリーナに対してナツキは驚き仰け反る。名前の呼び方の重要性は他ならぬナツキ自身も共感するところが多く、気持ちはわかる。
「そんなに元気そうならもう心配ないな。俺はもう自分の部屋に戻るから……」
「ま、待て!」
立ち去ろうとしたナツキの手をエカチェリーナはぐっと掴んで引っ張った。『うおっ!?』とナツキはそのままベッドへと倒れ込む。
ベッドなので頭から転んで飛びこんでも痛くはない。それにしても柔らかすぎるような……とナツキは顔を上げる。
「いてて……すまないカチューシャ、ぶつかってしま……なっ!?」
思い切り胸に飛び込んでいた。エカチェリーナの軍服を着ていても隠しきれない女性らしい凹凸だ。姉のアンナが大きすぎるので比較されると相対的に小さく感じるが、世間一般で見れば充分に張りも大きさも申し分ない。
ナツキは膨らみに顔をうずめていた。あまりの密着具合からちょうど谷間の部分なのだろうと服の上からでもわかる。呼吸をするたびに鼻から女性の芳香が肺いっぱいに吸い込まれ、脳内では快楽物質の分泌が止まらない。
「殿方に触れられたのは初めてだ」
「なっ、いや、おい、放せ!」
もにもにとエカチェリーナの胸に顔を沈ませながらナツキはもごもごと抵抗する。が、むしろそうやって動かれる方がエカチェリーナとしては良いようで、さらに顔は赤く茹で上がってのぼせている。
「暁、お前が取り戻してくれた私の手は大切な人と繋ぐためにある」
ナツキは脱出しようにも、両手をエカチェリーナに握られているので抜け出せない。指を一本ずつ絡めて握り合う恋人つなぎだ。
肩のあたりできっちり切り揃えられたエカチェリーナの金髪は見た者に彼女の厳格な性格を連想させる。それが今はベッドの枕に蝶の羽のように広がり、頬は紅潮して瞳は潤んでいる。
「お前が助けてくれた私の命、私の身体だ。だから好きにしてくれて構わない。私と暁の子ならきっと強く麗しい子に違いないな。……それに皇帝の座に就いていたクリムゾンを倒したんだ。我が国の次の皇帝になるのはむしろ自然だろう。うむ、それがいい! 妃という立場には慣れないから戦場には立ち続けるが、私も妻として誠心誠意尽くさせてもらおう。さあ、一緒に我が国の未来を作ろう!」
エカチェリーナが軍服の金色のボタンを順に外していき、白い無地の下着がナツキの目の前に現れたまさにそのときだった。
ガチャリと扉の開く音がする。
「アカツキ、エカチェリーナの体調はどうかしら……って、な、ななな何してるの!?」
「スピカ!? いや、これは違、むぐっ」
ナツキの戻りが遅いので心配して来たスピカの目の前で、エカチェリーナは手を繋いだまま器用にもナツキの後頭部を押して開け放たれた胸の谷間に閉じ込めた。
視界が白い下着と肌色の柔らかい肉で満ち、背後は見えない。だが鬼のような禍々しい怒気のオーラを背中にひしひしと感じる。ナツキは怖くてとてもじゃないが振り向けない。
ゴゴゴゴ……と音がする。部屋のシャワールームの栓が破壊され、大量の水があふれる。スピカの青い両眼は淡く光を宿し、水が龍のような姿を形成すると、顎を大きく開きながら寝室の壁をぶち破りナツキとエカチェリーナを襲った。
エカチェリーナはすぐに能力を使い自身とナツキに生じた傷を治療する。スピカもまた彼らが能力で治療できるのを知っていて大げさに怒っているのだ。
だが水龍が近づいているのを見ていたエカチェリーナと違って、ナツキは視界がふさがっている上に良い香りと柔らかい感触で脳がショートしかけていた。タイミング悪く水の激流に襲われたナツキは、そのまま意識を失ってしまうのだった。