第235話 四肢奮迅の代償
待機室へと戻って来たシアンをベティが出迎える。しかしその顔は浮かない。
「奥様、お疲れ様です。……その、ええと」
「カメラは潰していたはずなのだけれど」
シアンは主だ。ベティがどうしてそんな顔をしているのかはわかっている。
「ゴメンなさい。私ってほら、そういうの見なくても理解るので……」
ばつが悪そうに火織が答えた。スクリーンはたしかにシアンがカメラを潰した影響で真っ暗になっていたが、コロシアム内の状況は火織が寸分の狂いなく把握できていたので待機室の面々に解説をしていたのだ。
「奥様、いくら敵とはいえ何もあそこまでせずとも……」
「そうね。ベティの言いたいこともわかるわ。でも許せなかったの。……私は小さい頃から病気のせいでいつ死んでもおかしくなかった。それはラピスも同じ。私の大切な人たちは皆が死を恐れて今を一生懸命に生きているのに、彼らは……黄昏暁は人の生死の境なんて簡単に飛び越えてしまう。……それじゃあ、死に怯える私たちがバカみたいじゃないの」
シアンの悲痛に満ちた言葉に他の面々も沈黙した。シアンが娘のラピスのためにどれだけ努力しているのかを彼らは知っている。ラピスもまたシアンと同様に重篤な病気を抱えている。食事や生活、触れ合う菌やウイルスなど、あらゆるものに敏感でなければならない。そこまでしてやっと繋がっている命なのだ。
それなのにナツキたちは怪我も傷も、そして死でさえもなかったことにしてしまう。シアンはそれが許せなかった。惨めだった。
「だ、だったら頼みましょう。私が黄昏暁のところへ行って頭を下げれば……奥様やラピスお嬢様のためなら私はどうなっても構いません。だから!」
「無理ね。ベティもわかっているでしょう。彼らは星詠機関で私たちはネバードーン。数十年も前から水と油の関係なのよ。大金を積もうが頭を下げようが体を差し出そうが……彼らが私たちに手を差し伸べるはずがない。それにベティ、あまり自分を大事にしない発言はやめてちょうだい。あなたがあなた自身を思いやらないのは、あなたを思いやる私の心を踏みにじるのと同義よ」
「はい……」
まずは一勝。シアン陣営としては喜ばしいはずなのに、空気は重苦しいままその日は解散するのだった。
〇△〇△〇
暗闇を走っている。何か光り輝くものを追いかけている。エカチェリーナは手を伸ばしながら叫ぶ。でも光は遠ざかっていく。
「ま、待ってくれ!」
それは勝利。それは愛情。それは恩返し。どうしてもその光が欲しくて、懸命に走る。しかし光の遠ざかる速度はますます上がっていく。
力いっぱい叫ぶ。力いっぱい腕を伸ばす。でも届かない。無理に走り続けて脚が痛む。無理に手を伸ばして腕が痛む。
「痛い……それでも私は!」
そうして身体に鞭を打って強引に動かす。あと少しで指先が光に届く。
その瞬間だった。
「え?」
手足がバラバラに崩れ落ちる。糸を切られたマリオネットのようにダランと力が抜けてその場に倒れ込む。手足は胴体から切り離されて暗闇に落ちていく。ダルマになったエカチェリーナは手を突けない。立ち上がることができない。
頬を涙が伝う。醜い姿になったこともそう。二度と戦えない身体になったのもそう。だが一番は、勝利も愛情も恩返しも零れ落ちてしまったことに対して。
惨めだ。情けない。申し訳ない。エカチェリーナの心の闇を表すかのように暗闇の世界は深くなっていく。
「待って……待ってくれぇぇぇ!!!!」
光は無情にも遠く小さくなっていく。見えなくなるその光に向かって、エカチェリーナは肩から先が存在しない手を伸ばす。
──
「待ってくれ!」
エカチェリーナは突然大きな声を出しながらベッドからがばりと起き上がった。王族の彼女からしたら特別感はないものの、広く清潔で豪奢なその部屋は今回イギリスで宿泊している高級ホテルの自室だ。
次に気が付いたのは、自分が手を伸ばしていること。うまく動かないが、たしかに手足の感覚ははっきりとある。軍服は綺麗なものでほとんど新品同然だった。
「ん? 起きたか」
ベッドの真横では椅子に座っているナツキが寝ていた。が、エカチェリーナの叫び声で目が覚めてしまったようだ。赤と青のオッドアイがゆっくりと開かれる。
「黄昏、暁……?」
「ああ」
「私は、たしか、そうだ。シアンと戦っていて、そして……」
ゾクリと身体が震えた。自分の最期を思い出したのだ。手足は影の触手で捩じ切られ、胴体だけになった自分はそのまま床に落下した。地面が迫っているのに手足がなくて何もできない無力感や恐怖心、そして落下してから死ぬまでの冷たい床の感覚、それらがありありと鮮明によみがえる。
「あ、あ、あああああ」
手がぷるぷると痙攣する。指が動かせない。腕を失ったときの強烈で痛烈な記憶によって脳が上書きされたのだ。自分の身体なのに自分のものではないような気分。
その震える手を伸ばしてベッドの中の自分の脚をぺたぺた触る。信じられない。本当に自分の脚か? 脳がそう問いかけてくるようだ。たぶん今ベッドから這い出てもまっすぐ立つことすらできない。
「落ち着け。大丈夫だ。お前の命も手足も無事だ」
ナツキが両手で震える彼女の手を包むと、エカチェリーナはおそるおそるナツキの目を見つめた。彼女の瞳孔は開ききり、ナツキを見ているようでその実ナツキのことなど見えていない。
「で、でも、私の腕は潰れて、千切れて、捩じられて、私は、私は、ああああああ」
狂ったように絶叫する。残酷な死に際を心も脳も思い出し、精神状態が不安定になったのだ。
普通、人間は一度しか死なない。蘇ることはないからだ。そのため死の瞬間を思い出すことは原理的にあり得ない。時折、自殺を試みたが失敗し生き残るケースがある。そういったことをした者たちは自殺の瞬間を思い出し、その痛みや恐怖心から二度と自殺しようとは思わなくなるという。
だがエカチェリーナが抱えているのは正真正銘の死の記憶。それも、言うのも憚れるほど残酷で痛ましく尊厳を傷つける最低の死に方だった。
無言で立ち上がったナツキは何もないところに手を伸ばす。赤い右眼が淡く光る。そこに黒い刀が出現した。ナツキは黒刀を片手で持ち、エカチェリーナ目掛けて振るう。それも、捩じ切られた記憶を思い出して動揺している彼女の手に向かって剣を振ったのだ。
心身が衰弱し摩耗しているエカチェリーナは目の前の脅威に反応できない。鋭い刃が彼女に迫る。そして……。