第233話 今日リミッターは外してきた
バカになる。エカチェリーナの言葉の意味をシアンはわかりかねていた。論理的に考えれば傷や怪我を治す能力で堅牢堅固な影の防御を突破することはあり得ない。あとは影の触手を使った槍でいたぶるだけ。そう考えていた。
軍服はボロボロだ。上着もスカートも千切れたり穴が開いたりしている。能力で身体の傷は治せても衣服までは元に戻らない。痛ましい敗者の身なりに堕ちながら、しかしエカチェリーナの目は死んでいなかった。それどころか、一層強い力を宿す。
シアンは理解ができなかった。この状況でどうして希望を持てるというのか。無意識に日傘を握る手に力が入る。
サングラスの奥では美しい青い両眼が鋭くエカチェリーナを捉えている。何か動きを見せればシアンの操る影たちが串刺しにするだろう。その用意はできている。
そして、エカチェリーナの青い両眼が淡く光る。
「……ハァァァァ」
深く息を吐く。肺を空にする。次の瞬間、ダンッ! と床を蹴る音がする。それと同時にシアンは影の触手を伸ばしエカチェリーナの貫く。……が、影は空を切った。
(消えた!?)
シアンは焦っていても冷静だった。なぜか一瞬にして背後に移動していたエカチェリーナの剣の刺突を影の壁を作り防ぐ。
(ワープした? ……いいやそんなわけない。彼女の能力は治癒。それに、全身が青く光っている。一体なにを……)
シアンの思考は遮られる。影の壁に弾かれたエカチェリーナは着地すると再び強く地を蹴る。今度はシアンの正面から斬りかかった。その全身から青い輝きが放たれている。
わずかに視界からエカチェリーナを外してしまったがすぐさま反応し正面に影の壁を生やす。
また弾かれたエカチェリーナはさらに上空二メートルの真上からシアンの脳天に向けて剣を突き立てる。これは影のドームに防がれる。ならばこれならどうかとばかりに一瞬でまた移動し、姿勢を低くし足元に向かって剣を振る。また防がれる。弾かれたエカチェリーナはシアンの右方で真一文字に横に剣を振り抜く。弾かれる。また背後で。弾かれる。左前方から斬りかかる。防がれる。
シアンの全方向へ絶え間なく連続で剣戟を見舞う。そして全てがきっちり防がれる。
しかしシアンはじっとり冷や汗をかいていた。その移動速度があまりに異常なのだ。テレポートと言われても違和感がない。とてもじゃないが目では追いきれない。青い閃光が視界でチラチラとまたたくだけだ。あとは経験と本能だけで影を操り辛うじて防御できている。
それ故に防御のための影を展開する速度は徐々に落ち始めていた。
否、エカチェリーナの移動と攻撃の速度が上がり続けているため、見かけ上シアンの防御が遅れているように見えるだけだ。
影の壁は高さが最初よりも低い。床にできている日傘の影から生えてくる都合上、影の壁は当然下よりも上の方が遅れる。といってもコンマ一秒程度の差だ。しかしエカチェリーナはそのコンマ一秒の差すら追い越し始めていた。
スクリーンでこの映像を観ていた高宮薫は嗟嘆の声を上げる。
「ほうほう、うん、こりゃすごい」
「そんな……奥様が押されている……? 攻守において最強のはずなのに……」
「ベティちゃん、ボクたちは人間だよ。最強の能力だって使うのは人。だったら人の反応速度を超えればいい。ボクみたいに等級が低い能力者としては格上を倒す際の基本のキ。どんな強い能力者も能力を封じられたらただの人」
だからこそ能力がなくても素で強い黄昏暁みたいなタイプは苦手なんだけど、と薫は内心で小さく補足する。
「でも、だからって治癒の能力しかもたない彼女が奥様の反応速度を超えるなんて道理が通りません! なんですかあの立ち昇る青いオーラは!」
スクリーンでは既にエカチェリーナがシアンの影生成速度を追い抜きつつあった。瞬間移動と見まごうほどの高速移動によってシアンを翻弄している。シアンが焦ったように首を左右に振るが、エカチェリーナの方が一枚も二枚も上手。
「ボクはさっきベティちゃんに言ったよ。視野を狭めろ、退路を断て、って。あのエカチェリーナっていう子はおそらく脳のリミッターを外しているんだろうね。ボクやボクの故郷の連中だったらそれくらいは軽くできるだろうけどこの土壇場で実行しているんだから大した娘だよ」
「脳の、リミッター?」
「そう。本来は、怪我をしないように。疲労が溜まり過ぎないように。体力が空にならないように。様々な理由で脳は身体に制限をかけてるんだ。無茶苦茶しちゃったら骨や関節なんて折れまくりだし、疲労骨折で手足はボロボロ、脳は負担でおかしくなり自律神経から疲労物質が止まらず、心身が正常でなくなる。それを一時的に解除することで、人体が理論上出せる最大値に到達する。……まあ、ボクたちと違ってあの娘は慣れてないから能力の補助つきだけど」
「つまり、脳のリミッターを外すことで起きる弊害を全て同時に治療することで実質無効化していると……」
「その通り。おそらく床を蹴って加速するたびに足首の骨は折れてるね。アキレス腱もタダじゃ済まない。剣を振るう速度も尋常じゃないから、その度に肩は脱臼してる。影に弾かれるときに手首や肘関節は砕けるし、まずあの速度で動き続けたら体内の臓器も無事なわけない。信じがたい激痛だと思うよ」
押されているシアン。だがエカチェリーナの額にも玉のような汗がにじんでいる。全身が青く光っているのはオーラでもなんでもない。シアンに四方八方から高速で攻撃を仕掛けるたびに身体の内外がズタズタになり同時に治療が行われているのだ。だから身体の内から溢れる光のように見えている。
ただ、傷や怪我が治っても痛みまではなくならない。痛い。苦しい。でも。
(そんなことで折れるほど私の心はやわじゃない!)
青く輝く剣の嵐が、影を喰らう。