第230話 国と国
「今回は道に迷わなかったぞ」
エカチェリーナは胸を張ってふんすと言い切った。これを褒めるとむしろ彼女を馬鹿にしているみたいになってしまうのでナツキたちは苦笑いしリアクションに困っている。
今日は三日目。既に五人は待機室に集まっている。ここまで二勝ゼロ敗できているので、今日を取れば残り二戦を残して勝利が確定する。美咲も完全に体調は整っており、心身ともに昨日の疲労は一切残っていない。
「確率で言えば三三.三パーセントで私なんですよねえ」
腕を組んで壁に寄り掛かっている秀秋がしみじみ呟く。まだ戦っていないのはスピカ、秀秋、エカチェリーナの三人だ。少なくとも今日はこのうちの一人が選ばれるので確率はそれぞれ三分の一。
「私たちが先に二勝してあげたんだから、気は楽でしょう?」
美咲はクスクス笑ってはいるものの、その点については他の者も同感だった。もしこれが最初から二連敗だったら目も当てられない。三戦目に赴くことになった者のプレッシャーは計り知れなかったことだろう。
だが、ナツキたちが二勝したということはシアンたちが二敗しているのと同義。そのプレッシャーとやらはシアンたちの待機室にこそ存在していた。
「奥様、もし私が負けてしまったら……」
「すまねぇな。俺たちの力不足の責任だ」
不安そうな表情のベティに対し犬塚が左手で頭をかきながら申し訳なさそうな顔をする。そう、左手。犬塚には右腕がない。昨日の美咲との戦いで吹き飛ばされたからだ。スーツの上着は片腕だけが空っぽでしなびたように垂れている。
「もっと私が役に立てれば……」
ベンチに座っている火織も俯いている。彼女としてもシアンたちの力になれなかったことには後悔の念が残ってしまっていた。
そんな三者三様に重たい空気を吹き飛ばす笑い声が待機室に響く。
「はーっはっはっ! みんな、終わったことを悔やんでも仕方ないでしょ。そしてベティちゃん、ボクたちはただ勝つことだけを考えればいいんだ。それ以外の不安は抱いたところで無意味なだけだよ? 自分自身を追い込むならやり方を選ぶんだ。不安に押しつぶされるんじゃない。勝つビジョン以外が見えなくなるように視野を狭めないと」
高宮薫という女性は達観している。幼少の頃より天才剣士として名を馳せた。どこか浮世離れしていて周囲からの理解も得られないなか、人生経験ばかりが蓄積され奇妙な形で悟ってしまったのだ。
不安や心配は本来は生存における重要な機能である。恐れがあるからこそ生物は死から遠ざかることができる。警戒し対策し、或いは回避できる。しかし薫は不安になって震えるくらいならばその生存機能をオフにしろと言っている。
理屈は正しい。ブレーキがあるから坂道を自転車で下るときスピードを落としてしまうのだ。交差点で車が突っ込んできたらどうしよう、小石に躓いて頭から転んだらどうしよう、そんな不安がブレーキを握らせる。
だがブレーキを壊した自転車ならば。あとは坂道を全速力で下るだけ。他にすべきこともできることもありはしない。視野を狭めろという薫のアドバイスはいわば狂人の境地であって、常人のベティはそんなの無理だと首を横に振った。
ベンチに座っていたシアンが見かねて立ち上がり四人を見回す。
「皆さん。謝罪も後悔もいりません。あなたたちへ依頼したのはこの私。ならば全ての責任はこの私にあるでしょう。そしてベティ、不安に思う必要はありません。私はあなたの献身を知っているわ。高潔な精神を持つベティならきっと天は味方してくれるでしょう」
穏やかな口調。それに大きな帽子にサングラスで表情は見えない。それなのに、シアンの言葉は四人の胸にぐさりと刻まれた。シンプルな内容なのに重たいと錯覚する。理屈を超え、本当に自分は謝罪も後悔も必要ないのではないかと火織と犬塚は思い込みそうになるほどだ。
(これがネバードーンの長女のカリスマか。言葉一つで俺たち凡人の心なんていとも容易く掌握しやがる)
ブラッケストやクリムゾンをはじめネバードーンのカリスマを見てきた犬塚はシアンからもたしかに同様の『格』を感じ取った。王者の風格。クリムゾンのように刺々しく命じる上に立つ性質もまたカリスマであろうし、シアンのように周囲の人間を包み込み心理の深い部分に触れて信奉に近い感情を抱かせる性質もまたカリスマだ。
「ああ、あとそれから。犬塚牟田さん。ネバードーンの医療でもあなたの腕を縫合、固着することは困難でした。血管や神経系の修復をするには断面の損傷が酷すぎたようです。……しかし、必ず代替となるものは用意させていただきます。機械の腕となってしまうでしょう。申し訳ありません」
「ほうほうほう、いいや。俺としてはむしろ楽しみだぜ。こんなオンボロの身体は全身機械に取っ替えてぇくらいだ。後先短いからなぁ」
シアンは相手を気遣うのが巧い。なにも下手に出ているわけではない。自然とにじみ出る人徳だ。それが鎖となって相手の心を束縛する。現に火織がそうだろう。敗戦後、シアンの思いやりに触れたことで報いることができなかったことに涙した。
屋敷の者たちもその状態に近い。シアンに心酔し常に自己犠牲と奉仕の精神によってシアンを支えようとしている。ラピスに対しても同様だ。洗脳ではない。自ずと周囲の人間をそのように惹きつけてしまうシアンの才能である。
シアンとナツキ。奇しくも両陣営は多くの人たちと縁を結んできた二人が中心となっているのだ。
『イギリスの紳士淑女のみなさんこんにちは! 全五回戦のど真ん中! もう半分というのは寂しいですねぇ。もしも黄昏暁陣営が今日も勝っちゃったら残りの放送はなし? ……ええ、ああ、そうですか。プロデューサーによると消化試合でも放送するようです! いやぁよかったよかった! 私の今月の食費はこの企画の契約金にかかっていますので! 三回戦で打ち切りは非常に困るのです』
壁一面の大型スクリーンから鬱陶しいほどハイテンションな実況アナウンサーの声が響いた。やはりこのままではナツキたちの勝利に終わると思っているようだ。
画面が切り替わる。ナツキたちとシアンたちの十名の顔写真が表示された。既に戦いを終えた四名の写真が暗くグレーになっている。
『今日の対戦カードはどうなるでしょうかぁぁ!? それではランダムに、スイッチオン!』
顔写真が明滅する。スピカ、エカチェリーナ、秀秋。シアン、ベティ、薫。両方の待機室では固唾を飲んで見守っている。
数秒が経過した。両陣営一名ずつの顔写真がパッと明るく光り、決定を示すように点滅する。
『さぁぁぁ決まったぁぁぁああ! まずは黄昏暁陣営からは、ロシアの姫君にして軍部大臣のエカチェリーナ・ロマノフ! そしてシアン陣営からは、我らがイギリスの主にして大企業ネバードーン財団の長女、シアン・ネバードーン!!!』
「私ですか。いえ、都合がいいでしょう。ベティ、あなたが安心して戦えるようにまずは私が勝ってくるわ。……ラピスのためにもね」
「ええ、奥様。こちらから観戦させていただきます。あと、さっきの私の弱音は聞かなかったことにしていただけると嬉しいです。ラピス様を想う私の気持ちに翳りはありませんから」
「そう」
ふふっ、と微笑を浮かべたシアンが待機室を出る。火織や犬塚からすればシアンは仮にも雇い主なので何か言葉をかけようと思ったが、その背中を見て言葉を飲み込んだ。何も言えなかったし、言う必要もなかった。
威風堂々としたその後ろ姿には格がある。王として、母として。シアンが放つ強く重たいオーラを目の当たりにして息が詰まりそうになる。
(とはいえ互いに能力者としては二等級同士。それに相手もロシアの王の血を引く姫さんときた。二等級対二等級。王対王。こっから先は格と格のぶつかりあいになるだろうよ)
犬塚の予想は当たる。激戦必至。そしてこれは代理戦争の側面も合わせもつ。塗り分けられた世界地図において、ロシアは星詠機関側についた。これは明確に対ネバードーン包囲網を敷く姿勢の表明であり、世界各地に点在するネバードーン財団の【色付きの子供たち】の領土への宣戦布告に近い。
【子供たち】同士での抗争において最有力候補となっていたロシアのクリムゾンがナツキに倒され、世界の【子供たち】は虎視眈々とネバードーン次期当主の座を狙っている。既に【子供たち】に支配権を握られている各国の領土や軍備はますます拡大していくだろう。新たな戦争の火種が生まれることはもはや間違いないと言っていい。
その意味では、【子供たち】の中でも現状の筆頭である長女シアンを破るのは星詠機関としても彼らに味方したロシア帝国としても重要な意味をもつ。他の【子供たち】に楔を打ち込むことができるだろう。
ナツキたちの待機室でも、そうした政治的重要性を理解しているナツキやスピカが険しい顔になっていた。
「事実上、イギリスとロシアの国のトップ対決っていうカードになっちゃったわね」
「エカチェリーナ、気負ってしまうところはあるだろうがあまり不安になるなよ。少なくとも俺たちはもう先に二勝しているんだ。一回くらいの敗戦は問題ない。緊張せずに身体の力を抜いて……」
「大丈夫だ」
エカチェリーナは強く言い切った。ナツキの言葉は慰めでしかない。ナツキ自身わかっていて言っている。エカチェリーナも自分を慮って言ってくれていると理解している。
実体としてはスピカが指摘したように、国のトップ同士がぶつかるこのカード自体に意義があるのだ。最終的に両陣営の戦績がどうなるかというよりも、この一試合の勝敗そのものが重たく世界情勢にのしかかる。
この戦いを派手な演出のテレビショーだと思っている世界の大半の人間には関係がない。だが、能力者たちはもっと鋭く深い視点で注視している。星詠機関、大日本皇国の授刀衛、ロシア帝国、そしてネバードーン財団や【子供たち】。
世界が注目する一戦が、いま始まる。