第226話 インコレクト・ネグレクト
氷の上を重装備の男たちが駆ける。PT―76の履帯が氷の粉を散らしながら轍を刻む。四輪バギーでは運転席の防弾強化ガラスの隙間から銃口を出すのが見える。
戦争において『戦線』という言葉が使われるのは、兵力を線状に配置するからだ。縦に並べてしまっては渋滞を起こしてしまうしフレンドリーファイアが多発する。対して、横に並べれば敵に無駄なく攻撃できるし連携も取りやすい。囲むことだってできる。
その意味において、ミモザが相手にしなければならない敵勢力は『戦線』であった。少なくとも上空から見下ろしたときに線状になっていることは間違いない。
普通の戦争では戦線において二つの勢力が激突するとき互いに線状に広く展開する。そうでないと右翼や左翼から侵入を許すからだ。
しかし今回は違う。戦うのはミモザただ一人。いわば線ではなく点。前後左右を自在に使って荒波のように襲い来る二次元的な敵戦線を、ミモザという一次元的な点で対処しなければならないのだ。
敵の中には同情する者もいた。小学生程度にしか見えない幼い丸腰の少女を相手に、大隊規模の人数と様々な近代質量兵器で一方的に蹂躙しなければならないからだ。たとえ莫大な報酬をもらっているとしても気持ちの良いものではない。
ただ、概してそのような甘い感情を抱くのは若く経験の浅い傭兵だった。ある程度の場数を踏んでいる者ならばまず相手の眼を見る。正確には眼の色を。橙、緑、黄ならば余裕をもって戦えるが、紫と青はダメだ。一対一ではまず勝てない。特に青い眼をした連中は単騎で一国の全軍とも渡り合うとさえ噂されている。
そういった知識や経験がある者たちは、むしろこの青い眼をした幼女を相手にたった大隊規模なのかとすら思ってしまう。
機動力を存分に発揮し先陣を切ったPT―76の七六.二戦車砲が火を吹いた。砲身の長さによって初速をかせいだカノン砲は生身の人間など容易く粉々にしてしまう。
だが、着弾するより先にミモザの青い両眼は淡く光っていた。
「パパ、ママ、助けて!」
ミモザを挟むように左右の地面から二つの人間の上半身が生えた。ただし普通の人間ではない。いうなれば巨人。まず大きさは頭だけで直径二メートル以上ある。肩幅は五メートル近く、腕は大木のようで、掌は自動車を握りつぶせるくらいのサイズだ。
そして最も特徴的なのは色。全体的には紫色なのだが、綺麗な単色ではない。たとえるならば絵具の筆を洗う水。様々な色の絵具油が渦を巻いて混ざり合うように濁っている。顔はのっぺらぼう。わずかに凹凸があり目鼻口の位置や形はうっすらと確認できる。
女性型の巨人は腕を伸ばしてミモザを抱き締めるように覆いかぶさる。砲弾は巨人にぶつかると、罅も傷もつけずにごとりとその場で落下した。そして男性型の巨人がゴゴゴゴゴ……と重たい腕を高く上げ、ただシンプルに掌を振り下ろした。叩きつけるだけの動作だ。
大団扇で扇がれたみたいに暴風が巻き起こる。嵐の中に飛び込んだような気分だ。だから敵勢力は確認が遅れた。水陸両用戦車は真平の金属の板になっている。まるでプレス機でスクラップにされたみたいに。そしてそこには赤いシミが二つ。周囲には肉片が飛び散っている。
その赤いシミがさっきまで戦車の中に搭乗していた数名の仲間であることを理解するまでに数秒を要した。氷の大地は罅割れ、金属板と化した戦車は無残にも氷とともに冷たい海へと沈んでいった。
「ふぇぇ怖かったよう……。パパ、ママ、あいつらをやっつけて!」
女性型の巨人と男性型の巨人はゾゾゾゾゾ……と移動を開始した。上半身だけなので立ち上がることはできない。プールで水をかきわけながら歩くみたいに、二人の巨人の上半身は滑るようにのっそのっそと地面を移動している。
数年前、某国にて。ミモザ──尤も、当時は星詠機関には入っていなかったので本名がきちんとあったのだが──はどこにでもいる普通の女の子だった。お人形と遊んだり絵本を読んだりするのが好きな平凡な少女。
ただ一点だけ特殊な要素があったとすれば家庭環境だろう。ミモザはネグレクトされていた。父親は仕事が忙しく滅多に帰宅しない。母親は家を顧みない父親に嫌気が差し外に男を作っていた。年甲斐もない派手なメイクをし、ミモザを家に残して毎晩のように夜の街へと繰り出すのだ。父親はそれを知っていてなお放置していた。仕事が人生の最優先事項であって家族がどうしようとあまり気にならない人間だったからだ。
最初のうちは母親は幼いミモザのために夕食を作ってから外出した。段々と夕食を作る頻度は減りお金をいくらか置いていくだけになった。ミモザは近所の人も認める心優しい穏やかな少女だったので、母親の仕打ちにも口答えひとつしなかった。
気が付けば、母親は何も主張をしないミモザのことなど意識の隅に追いやられ、何も置いていかずに家を空けるようになった。
母親は朝まで帰ってこない。昼前に帰宅し、また夜まで眠る。いっそ普通の子供らしくワガママを言えるような性格ならばマシだったかもしれない。しかし優しいミモザは母親を寝かせてあげようと思うのが常だった。
ミモザは日を追うごとに痩せ細っていった。よく食べよく寝てよく遊び成長していく大切な時期に、ろくに食事はできず遊ぶこともない。孤独は本人でも気が付かないうちに心を蝕む。心身が衰弱していく。
『パパ……ママ……』
ファミリードラマで目にする普通の家庭に憧れた。皮膚が骨に張り付くほど痩せ細って動けなくなりリビングの絨毯の上にぐったりと横たわって、朦朧とする意識の中でテレビをずっと観ていた。
あんなパパとママがいたらな。思っていても言わない。ミモザは良い子だから。父親や母親の迷惑となるようなことは決して口にしない。
幼い子は弱い。親の庇護がなければ死ぬ。人間に限らずあらゆる動物にみられる自然の摂理だ。
ミモザが衰弱死する直前。明確に死への一歩を踏み出したそのとき。彼女の両眼は青色へと変化した。
あらゆる幸福も、栄養も、ミモザからは削ぎ落されていた。残ったのは家族で仲良く暮らしたいという小さな小さな願いだけ。異能力の覚醒は彼女に残った願いを種とし花開いたのだ。
すなわち、幼く弱いミモザを常に守護し外敵を打ち払う強い親の姿。寂しいときにいつでも呼び出して会うことのできる都合の良い親の姿。充分なヒトの形を取っているかどうかなどミモザにとっては問題ではなかった。ただ強くて優しい理想の親がいてくれさえすればいい。それだけのことでいい。
「パパ! ママ! あのおじさんたちがわたしをイジめるの」
ミモザは弱い。大抵の場合、被害者なのだ。遠くから敵兵たちを指し示す。上半身だけの巨人たちが迫り来る。
ブラッケストに雇われた私兵たちは、叫びながらアサルトライフルで七ミリ弾をばら撒く。両手にマシンピストルを持った男が狙いも定めず連射する。というより巨人は上半身だけでもあまりに大きいのであえて狙う必要もない。撃ちさえすればどこかしらに当たる。
しかし、巨人たちはものともしない。ビクともしない。傷ひとつできない。
戦線からやや退いた者がいた。そいつは臆病だった。臆病な自分を誇ってもいた。最前線で戦うより後方から狙撃する方が安全で賢いと信じて疑わなかった。
背後にある南極拠点の建造物はタテではなくヨコに広く建築されている。そうは言ってもベースとなるワンフロアは普通の家やビルのワンフロアとは高さが違う。そいつは外壁にかかっている錆びた鉄のハシゴを登り、迷彩機能のある白い屋根にうつ伏せに寝そべった。
安定した姿勢でマークスマンライフルを構え、倍率スコープを覗く。あんなデカブツと真正面から戦うのはバカのすること、こういうときは能力者の本体を狙うに限る。そんなことを考えて。
手が揺れる。するとスコープの景色も揺れる。スコープの十字の中心がミモザの額に合った。迷いなくそいつは引き金を引いた。
しかしそいつは引いた直後に後悔することになる。発射から着弾までの一秒にも満たない刹那。巨人がこちらを向いた。巨人に目はない。目の位置に目と思しき窪みがあるだけだ。だが、間違いなくスコープを覗くそいつは目があったと感じた。
銃弾は、巨人の指につままれていた。
ゾッとしてライフルを手放す。尻もちをついた姿勢で後ずさる。
女性型の巨人は親指の腹に乗せた小さな銃弾を中指で弾いた。デコピンのような動きだ。音速を超えて射出された銃弾に貫かれ屋根に潜んでいた臆病なそいつは頭を爆発させて死んだ。果実のような脳みそが細かく砕けてジュースのようになり散らばる。
「がんばってパパ、ママ」
ミモザは二人を応援するだけだ。彼女は弱い。弱いが故に戦わない。あくまでも戦うのは親という強者。幼少の悲惨な境遇は彼女の願いを歪めて叶え、能力へと昇華した。
巨人の戦法はシンプルだ。工夫も努力もする必要はない。
ただ腕を薙ぐ。その風で歩兵は吹き飛び、落下して地面に叩きつけられて死ぬ。
ただ手を振り下ろす。戦車だろうがバギーだろうがぺちゃんこになり乗っている者は死ぬ。
大きければ鈍重だろうと判断した者たちが次々と巨人たちの驚異的な反射神経と察知能力によってひねりつぶされる。一面の銀世界を血液の赤色が侵食する。
銃弾はただの一発たりともミモザには届かない。巨人の一方的な暴力は人間を破壊していった。大隊規模だったはずの敵勢力は中隊規模になり、小隊規模になり、分隊規模になり……。
男性型の巨人が最後の一人をつまみ上げて雑巾を絞るように上半身と下半身をねじ切ってポイと捨てたところで、ミモザは二人の巨人に駆け寄った。
「パパ、ママ、どうもありがとう! だいすき!」
二人の胴体にハグすると軽く挨拶のような口づけをし、巨人は消失した。青い両眼からは光が消えた。
戦いは終わったのだ。血生臭い戦場の跡で最後に立っているのは、弱く幼い小学生の女の子であった。