第224話 南極調査隊
ナツキたちがイギリスに到着する二日前。本物の銀世界に足を踏み入れた者たちがいた。能力者が作り出した偽物の氷ではない。地球誕生とともにできあがった正真正銘の氷の大陸。そう、南極だ。
南極の海を進む一台のクルーザーがある。器用に流氷を避けながらガシガシ進むその船を運転するのは若い男。ウルフカットの明るい茶髪が眩しい。
「あ、あの、レグルスさん、ハンドルを膝で回すのはよくないと思います、よ?」
「ああンッ!?」
「ひっ……ごめんなさい……」
そして運転席の隣。助手席には幼い少女が座っている。優しいクリーム色をした長髪が特徴的で、目鼻立ちはお人形さんみたいにぱっちりしている割におどおどしている。背は低く、年齢はどの国の教育制度に照らし合わせても小学生。
粗暴な若い男と気の弱い幼い少女という、一見すると真反対な組み合わせ。しかし二人にはたった一つの共通点があった。それは服装だ。どちらも揃いの黒いジャケットを着ている。その黒地に白いラインがあしらわれたジャケットはスピカも普段着用している。すなわち、彼らの正体は……。
運転席の男が、レグルス。
助手席の少女が、ミモザ。
彼らは星詠機関の最高幹部、二十一天のメンバーである。能力者としてどちらも二等級。そのため青い眼をしている。
「ったくよォ。シリウスの野郎もどうしてよりにもよってオレとコイツなんだ」
レグルスは頭の後ろで手を組み、座席に上体をゆったりと預けながら空を眺めている。それでいて両膝はハンドルにかかっており、見もせずに流氷を避けるように船を操舵している。これが能力でもなんでもなくただのセンスだというのだから、彼のポテンシャルの高さが窺える。
「シアン・ネバードーンが『信頼と信用の証』と称して送ってきたデータが真実なのかどうかは誰か確かめないと……。ちょうどわたしとレグルスさんのスケジュールが開いていただけですし……」
シアン・ネバードーンは招待状とともに手紙を送った。ナツキたちが参加している決闘は、勝てばブラッケスト・ネバードーンやネバードーン財団に関する情報を得られる。だがそれ自体が嘘で罠かもしれない。その疑いを晴らすためにシアンは父でもある当主ブラッケストの情報を漏洩したのだ。自分たちは本当に情報を差し出す用意ができている。手始めにこの情報を渡す。だから信じて五人をイギリスに送り込め、と。
そして、最初の手紙で送られてきた情報がブラッケストの居場所である。尤も彼は命を狙われても仕方のない身なので一か所に長期間留まることは少ない。世界各地にある拠点や別荘を転々とし続けている。しかしその中でも中心的な拠点は存在する。
特にブラッケストの場合は能力者・無能力者問わず個人で戦力を擁しているので作戦行動をするにあたって地理的に有利な場所というのはどうしても偏りが出てしまうのだ。
そうした背景で、重要と見做されている拠点の一つがあるとされているのがここ南極というわけである。
海面に波の轍を残しながら船は進む。氷の上では白熊たちがアザラシを捕らえて腹を食い散らかし口元を真っ赤にしていたり、また別の氷の上ではコウテイペンギンが足の間で卵を温めていたりしている。太陽の光はどこか薄くもやがかかっているように感じる。空気中の冷気が暖かい日光を遮っているのだ。
『あ、見えてきましたよ』とミモザが小さな手で指した。南極大陸のど真ん中に平たく広い建造物があった。街中で倉庫とか工場とかに見られるような、タテではなくヨコへの拡大を重視した構造だ。一目見たところそういった街の普通の建物とは比べようもないほど巨大なのだが。テニスコート何面分だろう……などとミモザは益体もないことを考える。
「チッ、小賢しいな。あの白い屋根にあんのは光学迷彩機能か。それに断熱機能もあんじゃねぇか? 人工衛星じゃ視覚的にも熱探知的にも引っかからねぇな。天下の星詠機関でも発見が遅れるのは無理ねぇ」
ハンドルを手できちんと握り直し建物を睨むレグルス。クルーザーは一層強くエンジンを吹かす。
レグルスとミモザが派遣された目的はブラッケストの南極拠点の発見および調査である。
といっても、シアンが情報を星詠機関に漏らした時点でブラッケストたちは既に退去しているだろうとはシリウスはじめ二十一天の全員思っているのだが。
仮にブラッケストをはじめネバードーン財団の全戦力が集結していたら、さすがの二十一天といえでも二名では太刀打ちできない。今回はあくまでも調査探索だけ。
さらに、運が良ければ何らかの資料やデータが残っているかもしれない。明確に書類や電子データとしてまとめられているものだけとは限らない。全ての痕跡が情報となり得る。たとえば研究所や工場を見れば何を製造しようとしているのか推測でき、推測できれば対策ができる。そういう狙いも今回の任務には込められている。
南極拠点が鎮座する氷の大陸の近くにクルーザーをつけてエンジンを止める。運転席のレグルスが降りて上陸。続いて助手席のミモザもクルーザーを降りようとするのだが、彼女は二等級の能力者であることを除けばどこにでもいるただの女子小学生と大差がない。手足は短く、不安定に揺れる船体から氷の大地へと踏み出す勇気もバランス感覚も長い脚もない。
ミモザは席に軽く手を突いて四つん這いになり涙目でぷるぷる震えている。素人は船の上で真っすぐ立つだけでも難しい。ましてやきちんとした港でも停泊所でもない氷の地面に降りるなどという器用なことはできようもなかった。
「チッ……ちんたらしてんじゃねぇ! クソガキ置いてくぞッ!」
「ふぇぇえ……だ、だってすごく揺れて……」
「さっさとしやがれ」
レグルスは強引にミモザの小さく白い手を掴み荒々しく引っ張り上げる。ふわりとクリーム色の長髪が舞う。幼い少女特有の苺のように甘酸っぱい香りがほのかに鼻腔をくすぐった。
おっとっと、とバランスを崩しながらも上陸したミモザはレグルスの腹にぼふんと衝突し止まった。寒さで頬や鼻をぽっと赤くしているミモザはレグルスを見上げた。
「わふ……てへへ、ぶつかっちゃいました。レグルスさんありがとうございます」
「うるせー」
照れ隠しするようにぶっきらぼうに顔を背けるレグルス。だがその表情は一瞬にして険しく厳しいものに変わる。
同時、南極という自然界では聞こえるはずのない音が鳴った。ドンッ! という火薬の発射音。レグルスはミモザの頭を押さえながら咄嗟に地面に伏せる。
「ブラッケストの私兵か……。人様の脳天めがけてマークスマンライフルぶっ放すバカが南極にいるなんてなァ」
敵の南極拠点まで数百メートルはあるだろうか。豆粒のように黒い点が見える。あれが狙撃手か。
だが、その点は徐々に増え始めた。たった一人だった敵は二人に、三人に、四人に……。五十を超えたあたりでレグルスは数えるのをやめた。
ブラッケストがいるとは二人とも思っていなかった。ただ、調査のために星詠機関から人員が派遣されることを読んで待ち伏せをされていただけのことだ。ブラッケストの方が一枚も二枚も上手だった。シアンによる裏切りすらもブラッケストは自らが利するために活用したのだから。
敵は狙撃手だけじゃない。四輪バギーにはアサルトライフルを抱えた重装備の男たちが何人も乗っている。さらには小型の戦車までちらほら見える。PT―76。かつてソ連で開発された水陸両用戦車である。
「ど、どうしましょう」
「……いるな」
「何がです?」
「強ェ奴。この軍勢じゃねぇよ。もっと奥……おそらくあの施設の中だろうな。一人だけ強烈な気配がビンビン出てやがる」
「ええと……気配? レグルスさんの能力は探知系じゃなかったような……」
「うっせぇッ! 強者の勘ってやつに決まってんだろォォ! それにこいつら近代兵器を装備してるだけの無能力者、要はザコだろう。そんな食いごたえのねぇ連中と戦う気はねぇよ。ここはお前に任せるぜ」
「ふぇぇ……こんな大軍勢の相手をわたし一人でですかぁ……」
「ッたりめぇだァ!! そんくらいの雑用はやりやがれ!」
二人が起き上がるとまた銃弾やらフラググレネードやらが飛んで来た。『じゃあそういうこった』と言い残し、レグルスは凍えるように冷たい海水に飛び込む。逆側から回り込んで潜入するためだ。対して、ミモザはただ一人取り残される。
「レグルスさぁぁぁぁん!」
幼女の悲鳴は乾いたライトマシンガンの連射音に掻き消された。背後では様々な流れ弾を受けた氷山がごっそりと削れている。
涙目を浮かべた丸腰のミモザ一人に対し、推定三〇〇人以上のフル装備の傭兵や軍人。いわゆる大隊規模というやつだ。
世にも珍しい小さな南極戦争が今、開戦した。
レグルス:初登場は第9話、その他第130話等に登場しています。
ミモザ:初登場は第130話になります。