第219話 ゆうべはおたのしみでした
柔らかい。腕と脚に異質な感触。まだ眠い。瞼は重い。もう少し寝かせてほしい。寝返りを打つ。……打てない。身動きが取れない。あとやっぱり柔らかい。腕にはむにむにと、脚にはむちむちと。
それに良い香りがする。花の蜜のように甘くて吸い付きたくなるような……本能を刺激されてしまう。
寝ぼけているナツキは強引に身体を動かそうとした。朝だ。窓からはうっすらと朝陽が差している。とはいえまだ太陽の位置は低そうで……。起きなければ。もう少し寝たい。二つの背反する気持ちがせめぎ合う。
(そうだ、イギリスに来ていて、ネバードーンの長女をはじめとした五人の強力な敵と俺たちは真剣勝負を……)
段々と頭がはっきりしてくる。やはり起きなければいけない。この決闘は五日間の長丁場だ。最初でこんなにぐだぐだでは士気に関わる。まずは初戦を終えた自分が気を引き締めて、朝早く起き、皆を引っ張るようでないと。
重たい手足を無理でも動かしベッドから出ようとする。
「あん……」
「ん……ダメ」
(ッ!?)
カッと赤と青のオッドアイを見開く。そこにあるのは見慣れない天井。ホテルの部屋だ。おそるおそる声の発信源を探す。それは左右。同時に、身体が重たい原因。
「なっ……」
ナツキは大の字になって寝ていた。そしてベッドの左側にはスピカが。右側には美咲が。それぞれ腕に抱き着き、脚を絡めてきている。身動き取れないのも当然だ。さらにその密着度合いが高く、脚など付け根のあたりからかなり深く当たっている。ナツキが無理に手足を動かしたせいで二人の色々な場所に当たってしまったようだ。
見たところ起きている様子はないので二人とも寝言だと思われる。ナツキはそれよりも、二人の格好を見て気が動転した。
(スピカは黒い下着、美咲は黄色い下着……)
それも生地の薄い、スケスケの下着。上下で繋がっていてワンピース式になっている下着だ。いわゆるネグリジェ。生地が薄い分、二人の柔らかい身体がダイレクトに皮膚に接触し否応なく質感を教えてくれる。片や白銀の長髪にモデルのような体型の十七歳のエリート能力者。片や炎を思わせる赤い髪に十五歳とは思えないほどの肉感ある身体の世界の歌姫。二人とも寝顔は天使のように可愛らしく女神のように美しい。
どちらを向いても幸福。両手に花。鼻血は根性で堪える。
ふと、視線を感じた。右を向くと、ぱちりと目を開けた美咲がこちらを見つめていた。どうやらもぞもぞ動いているナツキのせいで目が覚めてしまったらしい。緑色の瞳でじっとナツキに熱い視線を送る。
「おはよう暁。クスクス、こうやって一緒のベッドで朝を迎えるなんて、私たち新婚さんみたいね」
いつもと違って髪をほどいている。それが余計に情欲を駆り立てた。とうとう、ナツキは鼻血でベッドを汚してしまうのだった。
〇△〇△〇
「おはようございます。三人ともお早いですね」
二日目。今日は決闘の第二試合が行われる。先に待機室に到着していたナツキ、スピカ、美咲の三人。そこに遅れて秀秋が入ってきた。遅れて、といっても定刻にはまだまだ余裕があるのだが。
「一人が起きると他の二人も起こしてしまうからな。俺のせいで早く来ることになってしまった」
「なるほどなるほど。では私の作戦通り、スピカさんと雲母さんは黄昏暁くんに比べてよく眠れたと。そういうことですね」
「どういうことだ。俺を疲れさせて倒そうとでも思ってるのか?」
「まさか! 昨日の試合を観戦していて確信しましたよ。もし前回の平安京の戦いであなたが能力を本気で行使していたら私なんて瞬殺だっただろうとね。それに今の私の目的はあなたでも高宮円でもない。生存が確認された高宮薫ですから」
ナツキはやはりまだ秀秋のことは警戒している。円はナツキにとって大切な人の一人だ。そんな彼女を弄び陥れた秀秋のことはまだ許していない。それでも今は同じ陣営。表立って対立することはしないが、万が一裏切るようなことがあればナツキは戦闘も辞さない気でいた。
「黄昏暁くん、私が言っているのはそちらの二人の話ですよ。今回のこの決闘。一人につき一試合です。ということは第一試合を戦った黄昏暁くんが残りの四試合に出ることは絶対にない。逆に、そちらのお二人は必ずこの四日間で一回は戦いの場に出る機会がある。それなら、心身ともに最善のコンディションに仕上げておくべきでしょう。たとえば好きな異性と床を共にする、なんてね」
眼鏡の奥で秀秋は楽しそうに笑った。実力ではたしかにナツキに敵わない。しかし大人として、或いは平安京の『寺子屋』という授刀衛の若者を選び育て導く経験がある教育者として、まだ十四歳でしかないナツキを手玉に取るのはそう難しいことではなかった。
要はからかっているのだ。一種の意趣返しのようなもの。ナツキは頭を抱えつつ、どうも掴みどころのないこの男に困りはてるのだった。
「そ、それにしてもエカチェリーナは遅いわね」
スピカが話題を逸らした。ナツキと同じベッドで寝たことを思い出して顔が真っ赤になっている。それは美咲も同様だった。
「ククッ、エカチェリーナは戦闘や戦争に関しては知識も経験も豊富だが、どこかポンコツで抜けたところがあるからな。存外ホテルからコロシアムまでの道を忘れたんじゃないか?」
「まさか。子供じゃあるまいし、迷子になんてなるわけがないじゃない」
ナツキの予想をスピカは軽く笑って流した。
〇△〇△〇
「すまん! 遅くなった」
あれから数時間。息を切らしたエカチェリーナが待機室の扉を勢いよく開けた。定刻まで幾許もない。
「ええと、ちなみに遅くなった理由は聞いても?」
ベンチに座りナツキに膝枕をしているスピカが尋ねると、エカチェリーナは一切恥じることもなく堂々と言い放つ。
「迷子になった!」
「……」
「……」
「……」
「……」
まさか本当に迷子になっていたとは思わなかった四人はなんともコメントしづらい状況に黙りこくる。そして静寂を切り裂くように壁一面に設けられた巨大スクリーンが起動し実況アナウンサーの元気の良い声が響いた。
『イギリス全土の紳士淑女のみなさん! どうもこんにちは! いやぁ、昨日は幻想的な炎と光のアートで感動させられましたね! そして本日は第二試合。はてさていったいどんな戦いが繰り広げられるのでしょうか! それじゃあ早速対戦カードをランダムに決めていきましょう!』
十人分の写真が表示される。既に第一試合を終えたナツキと火織はうっすらグレーに影がかかっていて、今回は除外されていることが一目でわかる。残りの都合八人分の写真がランダムに点滅を繰り返し、誰が選ばれるのかをナツキたちは固唾を飲んで見守っている。
そして。
二人分の写真のところで止まりピカピカと点滅する。
『さぁ決まったァァ!! 第二試合のカードは、雲母美咲VS犬塚牟田で決定ッッ!!!!』
「……私かぁ」
ベンチに座っていた美咲がすたっと立ち上がる。そしてくるりと振り返ってナツキに向かって言った。
「クスクス、ねえ暁、私が大活躍して圧勝するからって、今度は鼻血出さないでよね。私が近くにいないときに鼻血出されても拭いてあげられないんだから!」
にっこりと笑った美咲の姿は、ナツキはもちろん同性のスピカですら魅力的に感じた。うっとりと見入ってしまうほどだ。これこそがアイドルが自然と発揮する人を惹きつける力だ。国籍も言語も宗教も超えて老若男女から愛される世界の歌姫。その一端に触れた気がした。
美咲は元気よく待機室を出た。その背中は自身に満ち溢れている。そして、奇しくもナツキをからかう目的だった昨日の秀秋の行動は功を奏していた。現にナツキと一晩一緒に過ごした美咲は今までの人生でこれ以上ないほど心身ともに充溢していた。