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第217話 無能力者があえて立ち上がる理由

 待機室へ勝利の凱旋だ、とウキウキ気分で帰ろうとしていた火織はゾッとした。現実を受け入れられなかった。どれだけバケモノじみた異能を持つ能力者でも人の身であることには間違いない。まさか不老不死ではあるまいし、タンパク質の塊の形を取り、無能力者の自分と同じように呼吸し生存している。


 死という不可逆的な結果が覆ることはない。たしかに『天才』たる火織にとってナツキは不可解なまでに未知の変数でありバタフライ・エフェクトは充分に機能しない。だからって人が人の身でありながら死を超越していいわけがない。


 火織は自分を安心させたかった。大丈夫、これは幻聴だ。死んだ者が生き返るわけがない。たしかに黄昏暁は死んだ。犯罪心理学者として殺人事件の被害者の遺体を確認した経験は一度や二度ではない。おそらくそこらの能力者よりずっと死と近いところで生きてきた。その自分が間違いなく彼の死を確かめた。検死だってしたことがある。学者の自分が保証する。『天才』の自分が保証する。黄昏暁は死んだ。死んだのだ。


 おそるおそる振り向く。



「ククッ、綺麗な毛並みだろう。この黒猫はかつて青酸ガスすら生き抜いたようだからな」



 ナツキの足元で夜の闇をそのまま身に宿したような美しい黒猫が火織をじっと見つめている。そしてナツキの足に気持ちよさそうに顔をこすりつけると青白い光の粒子となって消え去った。


 シュレディンガーの猫。それは量子力学を研究者だったシュレディンガーが行った思考実験だ。猫は箱に閉じ込めらる。放射性物質が発生した場合に青酸ガスという毒ガスが箱を満たして猫は死に、放射性物質がなければ何も起きず猫は死なない。その確率は五十対(フィフティ―)五十(フィフティ―)


 本来は量子力学の不完全さを示すためのものだったのに、世界中の人々には生死が重なり合った状態であるということばかりが広まった。中二病御用達の用語であり、ナツキはこれを利用して生死の境を曖昧にしたのだ。

 死というゼロパーセントを生死の重なった五十パーセントに。



「そんな……バカげている! 生死すらも超越するだって!? じゃあ私たちの思考はどうなる! 自分を生かすため、相手を殺すため、そうやって私たち『天才』はゴールをまず設定して次に思考の道筋を辿る。ときにカオス理論すら掌握して未来を都合の良い世界線にもっていく。それなのに、黄昏暁、きみはそのゴールの位置や正誤すらも歪めるのか!?」


「……ククッ、まずその考えが間違っているな。そもそも無能力者でしかないヤツがなんで戦うと思う? 自分を生かすためでも相手を殺すためでもない。それは憧れのため。それは大切な人を守るため。それは誰かの夢を応援するため。武器を持たない弱者がそれでもなお立ち上がり戦うのは生死なんていうつまらない二元論じゃあない。犯罪心理学者の割にはお前は随分と真っ当な人間の感情しか知らないんだな」


「……このっ!」



 火織は白衣のポケットから懐中電灯を取り出した。正確には、レーザー発生装置に改造した懐中電灯を。



「それ、一発で壊れたんんじゃなかったのか?」


「残念! 私の五二八〇手目で放ったきみへの膝蹴りが万が一浅く入ってしまった場合に備えるには、一三手目であるレーザーはあの一回で終わらせないといけなかった! でもこの世界線ではきちんと膝蹴りは当たったから、この八一〇六手目からはレーザーが使える!」



 火織はナツキではなくコロシアム中央部の床を狙った。そこにあるのは砕け散った火織の靴。パルスエンジンのために用意した耐熱ガラスの靴の破片だ。

 懐中電灯から伸びるレーザーの赤くて細い光線はガラス片に当たると、乱反射を起こす。反射した光線は天井に吊るされた照明に届き、さらに照明の光源を増幅させるために内側に付いている鏡面に反射した床に降り注ぐ。そしてそこには他のガラス片があり、また乱反射を起こす。それが天井へ。床へ。天井へ。



「鏡ってね、ガラスの表面に銀を塗って銅なんかの保護膜をつけるだけで完成しちゃうんです! このコロシアムは金属……おそらくステンレスとアルミの安い合金! ただガラスを床の上に置いただけじゃ完璧な鏡にはならないけれど、雑に乱反射を起こすだけならむしろ質の低い鏡面は好都合! そして私の頭脳ならあらゆる反射を計算可能!」



 火織の手元の懐中電灯を出発点とし、床、天井、床、天井、と反射と乱反射を繰り返し、増幅されてひとつになり真っ赤なカーテンのようになる。



「黒焦げの焼死体になっちゃぁぁぁえっ!!!!」



 火織の叫び声とともに、レーザー光線の赤いカーテンがナツキに迫る。とても人や鉄を貫通することはできない廉価品だが、当たれば人体に引火して人間バーベキューにしてしまうくらいの火力はある。ましてそれが今は一つの帯のようになっている。今度は、ナツキは死体も残さず灰になるだろう。


 そこまでわかっていて。なおナツキは笑ってみせた。赤い右眼が淡く光る。



「ククッ、……グランド・カノニカル・アンサンブル。開放系における化学ポテンシャルを管理する」



 腕を伸ばす。掌を向ける。すると、ナツキに向かっていたレーザーの赤いカーテンは火織の方へと徐々に押し返され始めた。それだけではない。二人を囲むように燃えていたメタンハイドレートのブルーとオレンジの炎までもが形を変え始めた。真上に向かって燃えていた火柱がまるで引っ張られるようにナツキの前に集まる。二色の炎が混ざり合い一つの大きな炎の渦となる。


 グランド・カノニカル・アンサンブルとは統計力学の用語だ。開放系、すなわち物質やエネルギーが自由に動ける空間において、温度や圧力、熱量といった化学ポテンシャルがどのように連動するかを示す。いわばそれら統計データの集合体である。


 勉学に優れていて大学入試くらいならば軽く突破できるナツキでも、統計力学はまだまだ困難な学問領域。しかしその名前の響きのカッコよさからナツキの脳内メモに残っていた。中二病は量子力学とか熱力学とか好きなのだ。その中二な知識を『夢と現に変える能力』によって我が物とした。


 アイデアの発端はクリムゾンとの戦いである。エネルギーを操るというなんでもありのクリムゾンの能力を応用できないかと考えた結果がこれだ。ナツキが現在、この空間のあらゆる物質のやりとり、運動、エネルギーの動きを掌握した。

 炎? レーザー光線? とっくにナツキの管理下にある。



「そしてそこに、俺は大量のメタンガスを付け加える」



 ナツキを酸欠にしたメタンガス。それらすらも操った。ブルーとオレンジが交差して絡み合い渦となった炎に可燃性のメタンガスが混ぜられていく。

 そして赤いレーザーのカーテンはもはやカーテンの形状を保たず、光線もまた引っ張られるように炎の渦に引っ張られ一つになっていく。

 赤、青、橙。三色の炎の渦は可燃性ガスであるメタンによってさらなる大爆発を引き起こしながら、さながら龍のように形を維持したまま火織に向けて襲い掛かった。さながら炎の濁流である。



「ハハ、綺麗ですね。無様な無能力者の私が最期に見る景色としては贅沢なくらいだ……」



 炎の龍が虚しく笑う火織を飲み込む。大爆発はコロシアム内部全体にまで至り、無人カメラや照明といった一切の器具を燃やし尽くす。あらゆる炭素は焦げて灰になり、全てが灰燼と帰した。人体など言うまでもない。とっくに骨ごと灰の粉になる。現に火織はそうなっている。



「ククッ、焼けるそばから治り続けるというのも不思議な体験だな」



 ただ一人、ナツキだけが立っている。肩には青白く光るヘビがいる。ナツキは爆発と同時に『夢を現に変える能力』によってアスクレピオスの杖を発動していたのだ。身体が焼け落ちるやいなや再生が始まる。熱さや痛みはあるが死ぬ前に治癒される。



「しかし、少々やりすぎたな。ククッ、テセウスの船。たとえ部品が違っていてもそれ自体の機能性は不変」



 ナツキが再び『夢を現に変える能力』を発動した。今回はテセウスの船だ。コロシアム内の照明や無人カメラがたちまち何事もなかったかのように元に戻る。正確にはテセウスの船の逸話通り、元と同じとは言えない別の『何か』なのだが。


 そしてついでとばかりにナツキは掌を灰に向けた。



「シュレディンガーの猫」



 黒猫が現れ、灰の小山の周囲を走り回る。すると死が確定しなくなった火織はまるで時間が巻き戻ったみたいに傷一つなく蘇り、ぐったりと眠ったまま仰向けに倒れている。



『おおっとぉぉぉ! 大爆発によって一時は映像と音声が途切れましたが、無事復旧いたいしました! そして最後に立っているのは……黄昏ェェェェェ暁ィィィィィィィィ!!!!! 第一試合の勝者は黄昏暁ですッッ!!!』

文系作者によるガバガバ理系知識なのでツッコミを入れたい方もおられるとは思いますが、甘めに見てもらえると嬉しいです。

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