第204話 人事を尽くした後にできること
その日、ラピスは一冊の本に目を輝かせていた。なんてことのない絵本だ。大人向けの小説やアカデミックな書物すらもすらすらと読んでしまうラピスにとってはややもすれば稚拙な物語だったかもしれない。
しかし絵本の中のキラキラとしたお姫様に憧れた。ページをめくるたびに、このお姫様がどうなるのかワクワクハラハラしていた。
お姫様が森の魔女に呪われたとき、つい涙が溢れた。幼い少女のぷにぷにとした頬に一筋ばかり雫が伝う。
五人が森に入りトレントたちと戦うシーンでは『がんばれー!』と腕をぶんぶん振り回して応援した。
最後に隣の国の王子様と結ばれたことで自分まで幸せな気持ちになれた。
それはいわば年齢相応のリアクションなのだろう。世の中の八歳児たちは綺麗なドレスのプリンセスに憧れるものだし、悪いヤツをやっつけるために声援を送ったり白馬の王子様に迎えに来てもらいたかったりする。日曜の朝には男の子も女の子もテレビの前にきっちり座っているはずだ。
八歳。小学二年生。ラピスもまたその例には漏れなかった。
「そう。そうよ! この病気の正体は森の奥に住む悪い魔女の呪いなのよ! きっと私の美しさに嫉妬しているんだわ!」
ベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねながら自分に言い聞かせる。
「そうして、いつか私もカッコいい王子様と結婚をして……」
顔をりんごみたいに真っ赤にしてしゃがむ。ドキドキする平らな胸を押さえる。こうやって自己投影しているときだけは救われた気持ちになれる。
自分は不幸じゃない。なぜなら病気ではなく魔女の呪いだからだ。このロジックはラピスにとってあまりに都合がよく、そして絵本のお姫様のかわいさや結婚した王子様のかっこよさは甘美な希望をもたらした。
「失礼いたしますラピス様……って、何をされているのですか?」
メイドのベティが入って来ると、今度は恥ずかしさで顔を赤くしてベッドにもぐりこみ顔まで布団をかけて隠れてしまった。
「な、なんでもないわ!」
「ええっと……お薬とお白湯はここに置いておきますね」
「……ねえ、ベティ。私ってお姫様なのよ」
掛け布団から目だけチラっと出してラピスが言った。
「ええ、そうですね。ある意味でラピス様は姫君と言っても過言ではないと思います」
「それでね、素敵な王子様と結婚するの」
ベティは自分も小さい頃は白馬の王子様と結婚するなんてことを本気で夢見たものだ。そのときの自分とラピスを重ね合わせ、優しく笑いながら『そうですね』と答える。
「でもそのためには魔女の呪いを解かないといけないわ」
「え? 呪い、ですか」
ベティはラピスが大事に抱いている絵本に気が付いた。それは昔からあるありきたりな絵本で、ベティもまた十年ほど前ラピスと近い年齢だった頃に読んだ覚えがある。内容もしっかりと記憶に残っている。たしかに、通常の絵本とは一線を画すほど華やかで鮮やかで彩豊かな絵本だった。だからこそ平凡なストーリーでありながら長い期間名作として残っているのだ。
「それじゃあ、奥様や私はラピス様のために森に行かないといけませんね。悪い魔女を倒しに。木の怪物をやっつけるのはとても大変そうです」
「でも私、一生懸命に応援するわよ! だってみんな私のために頑張っているんですもの。……ベティだってそう。ベティは病気でもないのにずーっとお屋敷にいるでしょう? それって私のせいよね。私のお世話のためにずっと詰めて働いてくれている。私ね、お屋敷の人たちが大好き。お姫様のために魔女と戦った人たちと一緒なの。私のために頑張ってくれる人たち。私はみんなのこと、とーーーっても愛しているわ!」
ひまわりのような笑顔だった。ひまわりは時々太陽のようだと例えられる。まさしくベティにとってラピスの笑顔は太陽そのものだ。心を照らしぽかぽかと温めてくれる。咲き誇るラピスの笑顔を守りたいと思った。抱きしめたいと思った。本物の太陽なら熱くて近づけないけれど、ラピスはすぐそこにいる。
「ちょ、ちょっと、ベティったらどうしたの。苦しくはないけれど……いきなりギュッとされるとびっくりしちゃうわ」
「ごめんなさいラピス様。私、ラピス様のことが大好きです」
「ふふ。私もよベティ。……とってもいい香り」
ラピスは短い手をベティの背に通し抱擁を返した。メイド服に顔をうずめて深呼吸をする。悲痛な表情を浮かべているベティとは裏腹にラピスは幸せそうな穏やかな笑顔だった。互いに相手の顔は見えぬまま……。
「ラピス様、悪い魔女は私が倒しますから。そうすればきっと病気も治りますから」
「ええ。きっとよ。私とベティの約束」
魔女なんていない。ベティはそれを知っている。ラピスは本気で絵本を現実だと一生懸命に思う。同時に、それが現実ではないと認識するこちら側の現実をも一生懸命に生きている。どちらもラピスにとっては本物なのだ。魔女の呪いも、病気も。
(せめて……せめてラピス様の空想が少しでも現実に近づくように…………)
ベティは切実に願う。魔女を倒す真似事をしてもラピスの病気が治るなんてことはない。呪いが解けるのは絵本の世界の話。でも、そんな真似事でも、叶えてやりたい。
そして絵本の物語をなぞることで少しでもラピスの病気が好転するなら……という非論理的な願望すらも湧き上がる。しかしある意味でベティのこの発想は人間的であった。人として自然であった。
なぜか。遠く極東の島国には『願掛け』という文化があるからだ。
カツカレーを食べたからって勝負に勝つわけじゃない。ホームランを打ったからって手術は成功しないし、シュートを決めても告白がうまくいくとは限らない。ここに論理的な因果関係は存在しない。
それでも人間は願う。時代も地域も超えて、普遍的な人間の性質だ。
努力を極限まで積み重ねたその先。人事を尽くし天命を待つのみとなった瞬間。人間は『願掛け』をする。非論理的なコンテクストをなぞることで神が振るダイスに最後の一押しをする。
ラピスの部屋を後にしたベティは急いで屋敷の『奥様』のもとに向かい、ラピスの願いを全て伝えた上である提案をした。
『奥様』はベティをはじめ屋敷の使用人たちがどれだけラピスを愛してくれているかを知っている。そして他ならぬ『奥様』自身が娘のラピスを心から愛していた。
だから想いはベティと同じだった。ベティの提案を無下にするわけがなかった。この屋敷にいる者は皆ラピスを愛している。命すら差し出して構わないと思っている。母たる『奥様』もまた例外ではない。そんな屋敷の者たちにとって、ラピスのちょっとした願いを叶えるために絵本の物語をなぞることなど容易いことだった。ベティの提案を断る理由など誰にもどこにもなかった。
──それから数日が経った。星詠機関ジュネーブ本部に一通の手紙と五枚の招待状が届いた。差出人の名前、それは。
シアン・ネバードーン。
世界に散らばるブラッケスト・ネバードーンの『子供たち』の長女である。
シアン・ネバードーンの名前の初出は第73話『水槽の脳』になります。