第203話 胡蝶の夢
「アルタイル、もしも一等級の能力者二名と二等級の能力者が一名、合計三名で作戦に臨んだとして、まったく歯が立たない相手っていると思うかい?」
星詠機関ジュネーブ本部の高層ビル。その最上階にある私室。肩まであるダークブルーの長髪の男、シリウスは座椅子に腰かけて本を読みながらいきなりそんな問いを投げかけた。
読書していたシリウスをただニコニコと眺めていたアルタイルは呆気に取られる。
「何よお、突然」
シリウスもアルタイルも、他にもこの場にはいないがスピカも、皆お揃いの黒いジャケットを着ている。これは二十一天のメンバーの証。星詠機関の中でも幹部以上であり、権限、能力ともに世界トップクラスの力を持つ。
そんなアルタイルだからこそ、シリウスの問いをある程度現実的に想像できた。アルタイル自身が二等級の能力者。二十一天はハダル──ナツキの姉、ハルカ──を除けば全員が二等級以上。シリウスにいたっては一等級だ。そのため、シリウスが提示した一等級二名に二等級が一名という状況は彼女の思考の範囲内にある。
「そもそも一等級の能力者自体がシリウス様を含めても数名しか観測されていないからなんとも言えないけれどぉ……。少なくともたった一人でその三人に圧勝できるようなヤツはこの星にいるわけがないわよね。そんな当たり前のことを聞いてどうしたのよ?」
「いいや。うん。そうだね。この星にいるわけがない。アルタイル、きみは正しいよ。ちょっと聞いてみただけだ」
わずかに苦笑したシリウスは視線を手元の本に戻し読書を続けた。なんだか軽くあしらわれた気がしたアルタイルは少しだけむくれている。
ふと再度顔を上げたシリウスはもう一度質問をした。
「……ところで、アルタイルは私の部屋で何をしている?」
「目の保養」
「そ、そうか……」
ああそういえば、とシリウスは思い立ったかのようにアルタイルに労いの言葉をかけた。
「ロシアでの交渉、助かった。ありがとう」
「交渉なんて大したものじゃないわぁ。お姫様は二人ともかなりこちらに好意的だったし」
「随分と妨害があっただろう? 財団の連中が」
「能力者でもないただの武装集団。ブラッケストの手下の中でも末端の中の末端。そんなのあたしにとってはビフォー・ブレックファストに決まってるわぁ!」
「ビフォー……なんだって?」
「余裕だって意味らしいわよ。ハダルが言ってたわ」
「日本語か。ふっ、懐かしいものだな」
「何が?」
「いいや。なんでもない」
なにそれ、と不思議がるアルタイル。シリウスはまた読書へと戻った。
〇△〇△〇
読書。それは時空を超えた世界の旅。フィクションとノンフィクションの反復横跳び。夢と現の間にある扉を開く鍵。
ラピスは分厚い本を抱きかかえたままクッションみたいに大きな枕にぽふんと横になった。ベッドの天蓋をじっと見つめて考える。八歳の小さな頭で考える。
(現実の世界を見るのは私のこの両眼。そして、眼で見て得た情報は脳に送られるって本に書いてあったわ。……私たちは現実すらも一旦データに置き換えないと理解できない。感覚質を媒介にしないと何も知り得ない、ちっぽけな生物よ。それって本の世界と何の差があるのかしら。本も文字っていうデータじゃない!)
ラピスは以前本で読んだことをさらに思い出していた。
胡蝶の夢、という説話がある。古代中国の大思想家である荘子がこう考えた。『自分が夢の中で胡蝶となって飛び回っている。目が覚めると私は人間としてここにいる。……胡蝶の自分こそが現実で、人間としてのこちらの世界こそ夢なのではないか?』と。
人間が蝶になった夢を見ているのか、蝶が人間になった夢を見ているのか。その区別はつかない。荘子もまた区別をつけることは目的としていない。要はどちらでも関係なく、自分は自分として懸命に生きればよいだけなのだ。
ラピスにとって荘子の思想はある種の支えであった。
本を読む。空想の世界に浸る。そこでは自分は勇者にも騎士にも姫にもなれる。目を閉じれば瞼の裏側に鮮明に大空や大海の景色が浮かぶ。眠りに就けば夢に見る。そのときだけは病気のせいで屋敷から出られない自分の境遇を忘れることができる。
でも、心の中のネガティブな自分が自分自身を嘲笑う。所詮は妄想だと。夢に過ぎないのだと。
現実を突きつけられる。心が折れそうになる。そんなとき、胡蝶の夢の説話を思い出すのだ。
夢が夢であると、或いは現実が現実であると、一体誰が証明できる?
ネガティブな自分は顔を顰めて霧散する。そうしてラピスは勝ち誇った気分に浸る。普段の自分はいろいろなことを我慢してきた。外で遊べない。友達も作れない。まずい薬を飲まないといけないし、食べていい食材にも制限がある。我ながら一生懸命に闘病していると思う。自分は現実の自分であることにいつだって一生懸命だった。八年間、辛くてもずっと生きてきた。
そんな自分を誇る。だからご褒美があってもいい。本を読んで、空想の世界に生きて、主人公に自己投影して……。そして妄想の世界で一生懸命に生きる。幻想的な夢の世界をホントのことみたいに馬鹿みたいに一生懸命になる。
──もしもラピスの心理状態を専門の心理学者や精神科医が診断したら、彼女の行動は心の自己防衛であると考えるかもしれない。いわば現実逃避の類だと。
しかし誰が八歳の天使のような少女に辛い現実を突きつけることができようか。母である屋敷の『奥様』も、メイドのベティも、他の屋敷で働く者たちも。ラピスを知る全ての者たちはラピスのことを心から愛していた。過酷な運命を決定づけられたラピスのためならばどんなことだってする。代われるものなら代わってやりたい。
そんな風に考えるようになったのはラピスが一生懸命だからだ。生きること、病と闘うことに、一生懸命だった。もしもラピスが擦れてグレて捻くれたら、生きることに諦めていたら、誰も同情すらしなかっただろう。
そればかりかラピスはいつだって屋敷で出会う者たちに親切だった。美しい瑠璃色の髪をふりふりと揺らして屋敷の中をうろうろ歩き、通りすがった庭師には『いつもお庭を綺麗にしてくださってありがとう。お屋敷からは出られないけれど、お部屋から面白い形の木々を見ていると楽しい気持ちになるわ』と言う。
すれ違ったコックには『いつも美味しいごはんを作ってくださってありがとう。私、食べられない物が多くて、調理も余計な手間をかけさせてしまってごめんなさいね』と言う。
すれ違った家庭教師には『いつもお勉強を教えてくださってありがとう。あなたの知識という財産を毎日少しずつ分けてもらうのは気が引けるけれど、いつか私もあなたみたいに立派な人になってあなたにいっぱい恩返しするわね』と言う。
屋敷の者たちは誰もがラピスの境遇を知っている。だからこそ彼女の口からこのような言葉を聞く度に胸が張り裂けそうになる。どうして神は天使のように美しく心優しいこの少女に厳しい試練を与えたのか、と。
誰もがラピスを心から愛していた。たとえラピスが現実と空想の区別がつかなくなったとしても、屋敷の者たちにとっては世界のどんな財宝よりラピスの方が大切だった。自分自身の命よりもラピスの方が大切だった。ラピスのどんな願いだって叶えてあげたい。ベティもまた、ラピスの頭を撫でながらそう考える者の一人だった。