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第202話 うちでウロボロスは飼えません

 大きな大きな部屋に、大きな大きなベッドがひとつある。たった八歳のその少女にとってはどれもこれも不相応に大き過ぎるように感じられた。


 誂えられた調度品の数々。床に散らばったぬいぐるみや積み木、お人形。そして子供向けの絵本から大人向けの学術書まで多岐に渡る様々な本。

 大きな部屋は物で満ちていた。だから余計に窮屈に感じられた。物が多いのにどこか虚しい。そんな相反する感情が屈折してモヤモヤと心に蓄積される。


 黒いカーテンが閉め切られ、光源はシャンデリアのごとき豪奢な電灯が吊るされているのみ。天蓋付きのベッドのなので程よく薄暗い。

 毛布から上体を出して起き上がっているその少女は大きな大きな枕をクッション代わりにしてベッドボードに寄り掛かり、膝に一冊の分厚い本を乗せていた。


 ザラザラとした質感の紙は日焼けして茶色くなっており、文字のインクも擦れたり滲んだりしている。ページをめくるたびにホコリっぽくてカビ臭い。木を使って作られた表紙と裏表紙の装丁は非常に丈夫で、これがなければ中のページの紙はもっと劣化してしまっていただろう。


 その少女が部屋から出ることは滅多になかった。この屋敷が彼女にとって世界の全てであり、この部屋は彼女にとって城だった。

 友達はいない。運動もしない。遊びもよく知らない。おもちゃで遊ばなくなり、お人形さんと会話することもなくなり、気が付けば一番の楽しみは読書になっていた。


 そこには自分の知らない世界がたくさん広がっていた。屋敷の外はこんなにワクワクするものがたくさんあるのか、と驚いた。火を吹くをドラゴンも、空飛ぶ馬も、悪い魔女さえも。

 彼女は母に頼んで本を蒐集した。市井に出回っている大量生産された絵本から、もはや古文書と表現すべき稀覯本まで。ありとあらゆる本を集めた。


 ずっと部屋に閉じこもっているので時間だけは充分過ぎるほどある。彼女の若くて好奇心溢れる脳みそは言葉も知識も言語もスポンジのように吸収していった。


 ちょうどその分厚い本も折り返しにさしかかったとき。真鍮でできたノブが擦れて重たい木製のドアがゆっくりと開く音がした。開けたのは屋敷のメイドだ。ずっと部屋にいるので足音だけでももはや区別がつく。



「本日の体調はいかがでしょうか。ラピスお嬢様」


「ええ。いつも通りよベティ」



 ベティと呼ばれた二十歳にも満たない若いメイドはベッドのそばにおかれた花瓶から純白のエーデルワイスを引き抜き新しいものと取り換える。手際よく古い花を片付けるベティに対して、ラピスと呼ばれた少女は尋ねた。



「ねえベティ。ウロボロスは不老不死の象徴だそうよ。うちで飼えないかしら」



 ラピスが本のあるページを指すと、そこには自らの尾を噛んで円環を作っている龍の如き大蛇がいた。

 ベティはわずかに悲痛な表情になるがすぐに柔らかい笑顔を見せ、しゃがんでラピスの目線に合わせて答えた。



「ヘビさんはいーーっぱい菌や病気を持っていますから、ラピスお嬢様のお体によくありません。動物を飼うのは我慢してください」


「そうよね……我儘言っちゃってごめんなさいベティ。でもいつか私の病気が治ったら、動物園に連れて行ってほしいの。ペガサス、グリフォン、ユニコーン、バジリスクにヨルムンガンド、それにケルベロスも! 外の世界には不思議な動物さんがいっぱいいるのよね。どれもとっても見てみたいわ」



 だって私は本の世界しか知らないから。付け加えるようにそう呟いたラピスはどこか切なげで、痛ましい。ベティはラピスの瑠璃色の髪を優しく撫でながらそっと抱き締めた。



「そうですね。ラピスお嬢様。いつか、一緒に。そのときは奥様もお休みを取れるでしょうから」



 架空の生き物なんだからいるわけがないじゃないか。言葉にするのは簡単だ。でもベティにはそんな残酷なことはできなかった。一生屋敷から出られないかもしれない八歳の幼い少女に突きつけるにはあまりに酷な現実。ベティはラピスの温度を腕に感じながら考える。



(この娘のどんな願いも私が叶えてあげられたらいいのに)



 無力で非力なベティでは何もできない。ラピスの病気を治療することも、ラピスの願いを叶えてあげることも。

 たかだか()()()()()()でしかないベティに、できることなど何もない。



〇△〇△〇



「ラピスの様子はどうだったかしら」


「お変わりありませんでした。奥様」


「そう」



 ベティのことなど視界にも入れずに答えた。奥様と呼ばれた女性は何もベティのことを蔑ろにしているわけではない。ただ手が離せずそれどころではなかった。本来ならビリヤードだってできるくらいに広い執務机も、積み上がった書類やフル稼働している三台のパソコンに占拠されている。

 右手で部下への指示を書類に書き込みながら、左手ではキーボードを打ち込みグラフや地図を忙しなく操っている。



「……紅茶を入れてまいります」


「結構よ。ベティ、あなた私が設けた休暇も無視してずっと屋敷に詰めているでしょう。いい加減休みなさい」


「いいえ奥様。奥様がこれだけ一生懸命に仕事されているのですから、私が休むわけにはまいりません」



 一瞬、彼女の手が止まる。そして誰よりも自分が働き過ぎていることを顧みた。手を止める。パソコンはスリープモードに移行しスクリーンが暗くなって、万年筆にはふたをした。


 奥様と呼ばれた女性の格好は異質だった。室内だというのにセレブがリゾート地で使うようなつばの大きい帽子をかぶり、さらにサングラスをかけている。着用している黒いドレスはいわゆる『Aラインドレス』というもので、三角形のシルエットが足元まで覆い隠している。シルクでできたグローブは指や手だけでなく二の腕にまで及んでいる。

 帽子も黒。サングラスも黒。ドレスもグローブも黒。派手めな喪服のような出で立ちだった。



「紅茶は二杯用意しなさい」


「二、二杯ですか? それはどうして……」


「私も少し休憩するわ。だからベティも私と一緒に休憩なさい」



 明るい表情になったベティは元気よく返事をしすぐに屋敷のキッチンへ向かった。そうだ、ラピスお嬢様にはホットミルクを持って行ってあげよう。そんなことを考えながら。


 勢いよく部屋を飛び出していったベティの姿に苦笑しながら、黒い格好の彼女は独りイスの背もたれに身を預け目を閉じて上を向いた。



「国家の運営がこんなに大変だとは思わなかったわ。ねえ、そうでしょう? ()()()()()()()()

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