第196話 たった二つの真実
「なぁにぃ、また私の知らない固有名詞? あなたとの会話でこの星の言語体系の理解は一層進んできたから助かってはいるけれど、固有名詞はコンテクストにおけるロールから逆算して推測するしかないわよ?」
少女のようにケラケラと笑ったメセキエザ。意識をはっきりと向けたときには、今度はモスク出入口のそばにいた。ミナレットに寄り掛かり足を伸ばして座っている。
「バタフライ・エフェクトを用いるのはカナタたちのような『天才』であって、能力を用いるのは妾たち『能力者』のはずじゃ。それなのにメセキエザはバタフライ・エフェクトと異能力の両方を行使しておるのか? いいや、そもそも妾のこの能力の由来となったあの赤い注射も元を辿ればメイオールの遺伝子情報に基づくもの……。であれば通常のメイオール自体が最初から異能力を備えておって、その中でメセキエザのような特異な者のみが天才性を有しておると考えるべきか」
「ぶつぶつ何言ってるの? それがこの星のコミュニケーションなわけ?」
はっと我に返る。メセキエザについて正体を掴みつつある。だがそれはそれ。これはこれ。彼女が現状の問題であることに変わりはない。
「……ではおぬしの目的はなんじゃ。他の黒いメイオールどものように妾たち地球人を追い回して殺すでもなく、地球の建造物やエネルギー施設を壊すでもない。まして文化施設に対して特殊な感情を抱いているようにすら思える。優れた知能がある以上、これらの矛盾も一貫した道理に基づていおるはずじゃ」
「だって、この星の壊滅を命じられたのは私じゃないもの。あなたたちの言葉を借りるなら『黒い方』ね。私からすれば下等で汚くて弱っちい方。星の未来を摘めと言われたのはあいつらの方よ。同じメイオールでも価値が違うの。私は価値が高いからそんな雑用は任されないわ。ただ、ちょっと興味があって遊びにきただけよ。少し面白い未来があるみたいだから」
「それはおかしな話じゃな。地球……この星を滅ばせねば将来的にはおぬしらの星を滅ぼしてしまうのであろう? ならばおぬしはおぬしの大切の者のために妾たちを皆殺しにせねばならぬはずじゃ」
「え? なんで? 死ぬのは弱い方が弱いからでしょう?」
きゃは、と笑いながらメセキエザはそう言った。立ち上がりひらひらと辺りを舞う。夜空をバックに白く薄く発光しながら踊る姿に私は不覚にも美しいと思ってしまった。そんなこと、思っていいはずがないのに。
「私は私の星の理屈を説明しただけよ。私の心の理屈じゃないわ。ええ、まったく構わないわ。弱いヤツが死ぬだけの話だもの。それって私以外ででしょう? だったら一緒よ」
ああ、それと。メセキエザはそう呟くと、掌を徐にジュメイラ・モスクへと向けた。
「一個訂正。私は別に文化施設に愛着があるわけじゃないわ。ただこの模様が素敵だなって思って。美的感覚は星を超えないけれど、数字の概念は同じ物理法則の宇宙で生きる限り共通だもの」
おそらくアラベスクのことを言っているのだろう。イスラム教では偶像崇拝が禁止されている。そのためキリスト教の教会や仏教の寺のように神やら仏やら天使やら鬼やらを描くことは許されない。数学的な模様という何も代弁しないがそれ自体に意味のあるものを模様として採用した背景がある。
メセキエザは真白の掌をゆっくりと右から左へと動かした。
「ええと、たしか、『あるべき姿に戻れ』」
消えた。ジュメイラ・モスクという中東最大の宗教施設が、圧倒的な質量が、無になった。
モスク用だった照明が何もない空間を虚しく照らす。残されたミナレットだけが役割を失ってただの棒になり鎮座している。
これはシリウスの能力だ。
「そうよね。人工物なんて本当はそこにはなかったんだもの。その星に住まう生物が自分の都合で自然を破壊して勝手に作り上げただけ。正しい状態からのはみ出し者ってところかしら!」
そう言ってメセキエザはその場で軽くスキップする。するとそのまま重力に引かれて地面に降りることはなく、空中にできた階段を昇るように一歩ずつ高く上がっていった。そしてミナレットの先端に立ち私を見下ろす。
「これはね、そこで死んでる……あ、生き返ってるんだね。まあいいや。そこの女の使ってた能力だよ」
メセキエザの目線は横たわるアルコルたちの方に向けられている。彼女の発言通りなら、正確にはアルコルの隣に一緒にいる褐色の美女のことだろう。アルコルがアフリカで仲間にした能力者の女性だ。いわばカナタと私の関係のようなものか。
空を飛ぶ能力か、或いは重力を操る能力か。こういうときにカナタたちがいてくれれば物理法則に照らし合わせて精度の高い推測ができるのだが、私の知識ではどうも分析できない。
「ではそなたは一体何のためにここにおる。何のためにこの星に来た!」
「うーん……まあ視察かな。ほら、私は黒い方のメイオールと違ってとっても強くて偉いメイオールだから。母艦なんていらないし、ポッドなんか乗らなくても星の行き来くらい一瞬よ。だからそうね、観光もひとまず楽しんだし私は私の星に帰ろうかな。でも気を抜いちゃダメよ。私と同じくらい……は言い過ぎか。私よりちょっと弱いくらいの白いメイオールがきっと派遣されるわ。あなたたちのせいで下っ端のメイオールが全然使い物にならないんだもの」
私たち能力者はカナタたちが作った注射を打ち能力者になった。そしてメイオール……黒いバケモノどもを殲滅しようとしている。つまりこの地球人の抵抗に対して、メイオール側もカードを切ってくる可能性があるということか。それもメセキエザと同クラスの怪物が。
「それにしても私たちと同じチカラを使うようになるなんて予想外だったわ。そう。そんなのはどんな未来にもなかった。つまりもっと高い次元の誰かがあなたたちの星に肩入れしたってことよね。ふふ、ワクワクしちゃう。未知ってこんなに楽しみなのね!」
カナタは言っていた。自分たちは識り過ぎているからこそ未知を真の意味で恐怖すると。しかしメセキエザはそれを楽しんでいる。
これが差だというのか。我々はメイオールの中でも下位に位置する醜悪な黒い連中を屠ることはできても、メセキエザのような上位メイオールとは超えることのできない壁がある。
膝の震えが止まった。恐怖を乗り越えたからではない。圧倒的な差を理解させられたからだ。私を見下ろすあのメセキエザという生物。それから私。そこには絶対的な上下関係がある。覆しがたい大小がある。
どれだけ努力しても九九が一〇〇を超えることはない。私はたしかに能力者になり一から九九まで強くなったのだろう。だがそれはメセキエザという一〇〇よりも小さいことには変わりない。どこの国や地域に行ったとしても九九が一〇〇より大きい場所なんてない。
メセキエザには勝てない。次々と送り込まれる強いメイオールには、勝てない。これがたった一つの真実だ。
手から刀が滑り落ちる、戦意が消えた。私たちが必死になってメイオールたちを殺して殺して殺し尽くして、でもメセキエザのような連中が後詰で投入されるのだ。勝てるわけがない。反抗作戦は一時の慰めでしかなかったのか。
そんな私の顔の横を通り抜ける一迅の風があった。メセキエザが何かした様子はない。それにそもそもそれは私の背後から飛来した。そして私の真横を通り過ぎると一直線にメセキエザ目掛けて突き進んでいった。
青い一筋の閃光? 違う。あれは……。
メセキエザは難なくそれを受け止めた。それは青い槍。持ち手から穂先まで全て青い鋼鉄で作られた槍だ。私はそれをよく知っている。
メセキエザが握りしめると槍は粉々に砕け散った。
「よくもアタシの唯一の肉親を殺してくれたわね」
感じたことのない禍々しい殺意がある。聞きなれた声がして後ろを振り返ると、そこには両手に青い槍を携えた金髪の少女がいた。
「セレス……!?」
「殿を任せちゃってゴメン。聖、アイツがメイオールなのかそうじゃないのかアタシは知らないけどさ、普通に考えて兄貴殺されて黙って退くなんてありえないよね。アタシも一緒に戦うよ」
セレスの言葉は熱く、そして温かい。しかし戦意を失い刀すらも手離した私にとってそれはあまりに遠いものだった。
ミナレットのてっぺんに立つメセキエザは妖しく笑うと、器用にバランスを取りながらその場でしゃがんだ。そして掌をミナレットの先端につける。
「私もやってみようーっと」
ミナレットの一本が消失する。違う。宙に浮くメセキエザの手には青い槍が握られている。彼女が落下しないのはアルコルと一緒にいる女の能力。そして、ある物体から別の物体を作り出すのはセレスの能力……!
「そーれ」
空中で槍を放る動作をしたメセキエザ。それだけのことなのに青い槍に純白のスクリューが加わり、まるで飛行機のジェットエンジンの真下に立っているかのような気分になるほど激しく猛々しい轟音が空間を軋ませた。
一目散に突き進む青槍。その軌道上にはセレスがいる。セレスの額。このままではセレスの頭蓋骨は粉砕される。
コンマ一秒にも満たない時間で私の頭の中を思考が駆け巡る。
メセキエザの投げた槍がセレスに直撃したらどうなる? セレスは死ぬ。
セレスが死ぬ? 私は母を喪って、仲間を喪って、今度は友達を喪うの? 死ぬってなんだ。取り返しつかないのか。取り戻せないのか。セレス。セレスティン・ネバードーン。私の仲間。私の友達。ちょっとつっけんどんだけど心優しい可愛い女の子。会えなくなる。
そうして思考が迸ったことで。私は改めてもう一つの絶対的な真実を見出した。なるほどたしかに私はメセキエザクラスの上位メイオールには勝てない。そうだろう。それも一個の真実だ。
ではもう一つの真実は何か。
戦わなければ、喪い続けるだけだということ。
「時よ止まれッッ!!!!」
色も音も匂いもない停止の世界。芝生に転がる日本刀を拾い上げる。メセキエザには時間停止が通用しなかった。それでも彼女の放った槍撃の時間は私の下で停止する。
セレスの前に躍り出て思い切り日本刀を振り上げる。刃が槍の側面をなぞり夜空の向こうへと弾き飛ばした。
宙を漂うメセキエザの不愉快な笑みと目が合った。
時間停止を解除。
「あなた、というかあなたたち、それでもなお私と戦うのね。私という絶対的に上位の存在に対して、私より弱い黒のメイオールの真似事みたいなチカラで挑もうっていうのね! なんで! ねえ! どうして! ふふふ、おかしいわぁ。まったく正しくないんだもの! 間違っているとわかっているはずなのに間違った道を突き進もうとしている! その行動の原理は何? 思考の道筋は何!? すごい面白い!」
両腕をいっぱいに広げたメセキエザは私たちを見下ろして腹から笑う。まるで夜天をすべて手中に収めているかのように錯覚してしまった。私にはそれほどに彼女が大きく見えている。
彼女には理解できまい。遠い未来とはいえ同胞を喪うことに無頓着でいられた彼女には、私の無謀とも言える抵抗は不自然。
ティアがはバタフライ・エフェクトとはカオス理論の掌握だと以前言っていた。混沌。その対義語は秩序。すなわち、宇宙。
同じほどの天才性を有するメセキエザからすれば私は宇宙規模で大バカ者なのだろう。ごくごく自然の正しさに抗う不可解の極み。押し付けられる正しさの秩序に反逆する、混沌的自意識。
それは私の能力者としての根幹だった。時間が経てばどんな花も枯れ落ちる。それこそが自然。秩序。道理。私は、そんな正しさに唾を吐きつけ踏み潰す。正しさへの反逆の能力。
「時が流れる? ならば妾が時を止めよう。妾がおぬしに勝てない? ならば妾が勝利しよう! 絶対の法則に抵抗する反逆の能力。妾を簡単に倒せると思わんことじゃな!」
刀の切っ先を天空のメセキエザに向けて突きつける。その距離は遠い。
根拠なんてない。でも。これが母の遺した言葉。私が私らしく生きるということ。
背後にいたセレスも一歩前へ出る。私の隣に立ったセレスは、槍の穂先を私と同じようにメセキエザに向けて啖呵を切った。
「アタシは友達を……親友を一人で戦わせるほど薄情なオンナじゃないから。なめないでよね。アンタの薄気味悪い真っ白な身体が血で真っ赤に染まるまでアタシはアンタを死んでも殺す」
黒い星天を背負った白い女の笑い声が、誰もいないドバイの街にこだまする。それを聞く者は私とセレスしかいない。